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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

首長や議員が「自主憲法制定」を唱えるのは自己矛盾~石原元都知事に対するマスメディアの無頓着ぶり、問われる憲法観

 一つ前の記事(「慎太郎節」「石原節」が薄めてしまう実像~マスメディアの報道は歴史の記録)の続きです。故石原慎太郎・元東京都知事の足跡に関連して、もう一つ書きとめておきます。憲法のことです。
 石原元知事は現在の日本国憲法への嫌悪感を露骨に表明していました。敗戦後に米国に押し付けられたとの歴史観を持っていました。持論は「自主憲法の制定」だったことは、よく知られています。この「自主憲法制定」は「憲法改正」と似て非なるものです。石原元知事について、訃報だけでなく生前の報道も含めて、マスメディアもこの違いが分からないのか、あいまいなまま「改憲」という言葉でくくってしまっています。
 現憲法の中には改正手続きの規定があり、それにのっとっての「憲法改正」はもちろん、適法、合法です。しかし「自主憲法制定」となれば意味合いが異なります。石原元知事は現憲法に対しては「破棄」との主張もしていました。現憲法を破棄して自主憲法を制定するとなれば、それは「改正」でしょうか。革命やクーデターでもない限り、現憲法が根付いている日本社会では起こりえないことです。
 それでも、一般の国民であれば、憲法についてどう考えるのも、何を口にするのも自由です。しかし、都知事や国会議員、あるいは国会議員を擁する政党や政治団体となると、事情は変わってきます。公務員には、国の最高法規である現憲法を尊重し擁護する義務が課されているからです。
 関連する憲法の条文は以下の通りです。
 96条は改正について定めています。

第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
② 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

 衆議院、参議院でそれぞれ3分の2以上の賛成があれば、国会が憲法改正を発議することと定めています。国会議員が憲法改正や改正案を論じること自体には問題はないということになります。しかし、その範囲には限度があります。それを示しているのが99条の、公務員に対する憲法の尊重、擁護の義務です。

 第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 閣僚や国会議員を含めて、公務員である限りは憲法を尊重し擁護する義務を負っています。天皇や摂政であっても例外ではありません。仮に自治体首長や国会議員が、この憲法の根本原則を変えてしまうような改変論を掲げることはこの義務に反することになり、明確に憲法違反です。石原元知事のように、この憲法を無効として自主憲法を制定すると主張することも、公務員の立場にある者ならば、やはり憲法違反です。石原元知事はこの憲法の下で知事にも国会議員にもなりました。この憲法の破棄を主張し、自主憲法の制定を主張するのであれば、そうした地位に就くべきではありませんでした。自身でどこまで自覚していたかは分かりませんが、知事や国会議員の職に就いていたこと自体が深刻な矛盾だったというほかありません。

 では、石原元知事のこの深刻な矛盾を、マスメディアはきちんと報じているのでしょうか。「自主憲法制定」と「憲法改正」の意味合いの違いを踏まえて報じているのでしょうか。あらためて東京発行の新聞各紙の石原元知事の訃報を見てみました。
 言葉の違いを明瞭に意識しているのは産経新聞です。死去翌日の2月2日付紙面の1面で、本記の脇に掲載した記事に「自主憲法追求した政治家人生」の見出しが付いています。その記事中には「自主憲法制定」の用語について、以下の一節があります。

 石原氏が好んで使ったこの表現は、「憲法改正」よりも抜本的かつ能動的なニュアンスがある。そこからは、現実的な感覚として骨身に刻みこまれた敗戦国の悲哀が透ける。

 朝日新聞は2日付朝刊の第2社会面に掲載した「評伝」で、石原元知事と憲法に触れていますが、見出しは「改憲 こだわり続けた末」と「改憲」の用語を使っています。以下のように、本文の書き出しに「いちから作り直す」との本人の言葉を引用しながら、やはり「憲法改正」を使っています。

 「いちから憲法を作り直す」。石原慎太郎氏は常々そう公言していた。憲法改正に執着を続けた政治家人生の帰結は、何だったのだろう。

 「作り直す」との言葉使いのニュアンスに「改正」はそぐわないと感じます。本文を読み進めていくと、「『現憲法を破棄せよ』との勇ましい言葉」「石原氏がこだわった自主憲法制定」などの表現も目にするのですが、全体として「憲法改正」と「自主憲法制定」との違いに無頓着です。
 前述のように、憲法への尊重と擁護の義務を負う知事や国会議員の立場では、「憲法改正」と「自主憲法制定」の使い分けには、意味合いに決定的な違いがあります。しかし、そのことに触れ、石原元知事の言動が憲法違反だったことを指摘した記事は、産経、朝日両紙にも、他の在京紙にも皆無でした。石原元知事への礼賛一色のトーンだった産経新聞は、自社の社論も憲法改正です。「憲法改正」と「自主憲法改正」に語感の違いはあっても、現憲法を「変える」点では意味合いは同じだとみなしているのかもしれないと感じます。しかし、他の在京紙各紙の「憲法改正」と「自主憲法制定」の差異への無頓着ぶりは、そのまま憲法や改憲に対する認識のありようを示しているようです。憲法観が問われます。

 石原元知事の「現憲法を破棄」「自主憲法を制定」の自己矛盾のことは、このブログで9年前にも書いています。
https://news-worker.hatenablog.com/entry/20130224/1361670907

news-worker.hatenablog.com

 憲法への尊重、擁護義務の観点から石原元知事を批判するマスメディアがないことに対しての「日本の報道記者のレベルも落ちたものである」との辛辣な批判も紹介しました。9年たった今日、マスメディアのその状況は変わっていません。とても残念です。

【追記】2022年2月11日23時40分

 在京紙各紙が石原元知事の訃報で「憲法改正」と「自主憲法制定」の使い分けをどう報じていたかの段落に加筆しました。「自主憲法制定」を主張する石原元知事の言動が憲法違反だったことを指摘した記事が皆無だったことを明記しました。