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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

「表現の自由侵害」を当の安倍元首相はどう考えるのか~在京紙の扱いが分かれた札幌地裁判決

 2019年7月、参院選期間中に当時の安倍晋三首相が札幌市のJR札幌駅前で街頭演説をした際、「安倍辞めろ」「増税反対」などとヤジを飛ばした市民が、北海道警の警察官に片や腕などをつかまれその場から排除されたり、長時間にわたって付きまとわれたりする出来事がありました。当事者の男女2人が、憲法が保障する「表現の自由」を侵害されたなどとして、北海道に慰謝料などを求めて提訴。札幌地裁(広瀬孝裁判長)は3月25日、警察官の行為が表現の自由の侵害に当たると認めて、道に計88万円の支払いを認めました。安倍元首相に何か物理的な危害を加えようとしたわけでもなく、その場で抗議の声を上げただけなのに、力づくで排除するのはいくら何でもやりすぎではないかと、当時から感じていました。納得できる判決です。
 東京新聞の26日付朝刊に掲載された判決理由の要旨によると、札幌地裁は、「多くの場面で『生命もしくは身体』に危険を及ぼす恐れのある『危険な状態』があったと言えず、警察官の行為は違法だ」と認定。「安倍辞めろ」「増税反対」は上品さに欠けるとしても、「いずれも公共的・政治的事項に関する表現行為」「警察官の行為は、原告らの表現行為が安倍氏の街頭演説の場にそぐわないと判断して制限、または制限しようとしたと推認せざる得ない」と指摘しました。原告の表現行為が、差別や憎悪を誘発するものではなく、犯罪行為を扇動するものでも、演説自体を不可能にするものでもないとも判断しています。
 北海道警の警察官がなぜ、このような稚拙な行動を取ったのか。推測交じりではあるのですが、抗議の声が向けられた先が安倍元首相だったからではないかと感じます。安倍元首相はこの札幌での出来事の2年前、2017年の東京都議選で、運動期間の最終日の7月1日、東京・秋葉原で街頭演説をした際に、「帰れ」「辞めろ」のコールをした人たちの方を指さしながら「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないんです」と言い放ちました。
 選挙では自民党総裁の立場であり、自党を支持しない人たちを敵視するのも政党人としてはありうることだとは思います。しかし、首相である以上は、日本社会でともに生きるすべての人たちの権利を守る立場でもあるはずです。仮に自分を支持しない人であってもです。「こんな人たち」発言は、政治家としての狭量さをあらわにしてしまった出来事でした。
 問題は、その狭量な政治家の政権が長期にわたる中で、首相官邸が官僚の人事を握り、結果として官僚機構に忖度と堕落を招いたことです。警察も官僚機構に連なる組織であり、上意下達が厳然と貫かれた階級社会です。安倍首相を札幌市に迎えた北海道警の中に、秋葉原のような不快な思いをさせるような場面を再現させてはいけないとの過剰な忖度の意識があり、それが組織内に伝わって引き起こされたのが、この表現の自由の侵害だったのではないかと、わたしは考えています。札幌地裁が判決理由で「警察官の行為は、原告らの表現行為が安倍氏の街頭演説の場にそぐわないと判断して制限、または制限しようとしたと推認せざる得ない」と指摘しているのも、同じ疑いを持っているからではないかと感じます。
 ※参考過去記事

news-worker.hatenablog.com

 ことが表現の自由にかかわる以上、マスメディアにとっても他人事ではないはずですが、この札幌地裁判決について、東京発行の新聞各紙の26日付朝刊では扱いが分かれました。
 いちばん大きく扱ったのは東京新聞で、本記1面、第2社会面に原告の表情や識者談話が載り、5面に判決要旨があります。次いで大きな扱いは朝日新聞で社会面トップ。やはり原告の表情と識者談話、別の面に要旨が載っています。毎日新聞は社会面の3番手で本記のみですが、見出しは3段の大きさです。これに対して読売新聞は社会面1段、産経新聞は第2社会面2段、日経新聞は第2社会面1段で、いずれも短い本記のみです。
 以下、各紙の記事の主な見出しです。

▼朝日新聞
社会面トップ「ヤジ排除『表現の自由侵害』/道警側に賠償命令『重要な憲法上の権利』/元首相の演説警備巡り」
「『おかしいこと おかしい』と言う力に」原告
「かなり踏み込んだ判断」京都大学・毛利透教授(憲法学)の話/「警備対応 客観的な根拠を」元警察大学校長の田村正博・京都産業大教授(警察行政法)
▼毎日新聞
社会面「ヤジ排除 道に賠償命令/安倍氏演説中 『表現の自由侵害』 札幌地裁」
▼読売新聞
社会面「街頭演説にヤジ 排除『違法』判決/札幌地裁、19年参院選」
▼日経新聞
第2社会面「首相演説にやじ/道警の排除『違法』/札幌地裁、道に賠償命令」
▼産経新聞
第2社会面「首相演説やじ 排除は違法/札幌地裁判決『表現の自由侵害』」
▼東京新聞
1面準トップ「首相演説中やじ 排除違法/『道警は表現の自由侵害』/地裁判決 道に賠償命令」/「『取材対応考えず』安倍氏事務所」
第2社会面「『百パーセント認定』/やじ排除違法 原告ら喜び合う」
「表現の自由正当に判断」武蔵野美術大の志賀陽子教授(憲法学)/「政権忖度に歯止め」ジャーナリストの大谷昭宏さん

 声を上げただけで弾圧を受ける、ということで思い起こすのはロシアです。ウクライナへの侵攻を批判すれば、最高で15年の刑が科される恐れがあり、今や表現の自由はありません。日本の社会がそんなことにならないためには、小さなことでも表現の自由の侵害を見逃さないことがまず必要です。札幌地裁の判決は広く日本社会で知られるべきですし、そのためにマスメディアが果たすべき役割もあると思います。

 26日付の各紙紙面を見ていて、東京新聞が1面に「『取材対応考えず』安倍事務所」との見出しの記事を載せているのが目を引きました。札幌地裁判決について、報道各社が安倍元首相の事務所に取材対応を要請したのに対し、記者団の取材やコメント発表といった対応は考えていないと回答した、との内容です。理由は「多忙のため」とのことです。

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【写真】安倍元首相の単独インタビューが載った産経新聞(上)と、元首相の事務所が札幌地裁判決について取材対応は考えていないと回答したことを伝える東京新聞の記事
 同日付の産経新聞の1面トップには、安倍元首相の単独インタビューの記事が大きく掲載されています。ウクライナ情勢と日本の安全保障がどうあるべきかなどを語っており「防衛に努めぬ国と共に戦う国はない」「露が全面的に戦端開き驚く」「憲法9条を議論する機会だ」の見出しが付いています。インタビューは25日に行われたとのことです。
 首相退任後も自ら派閥の長に収まり、依然として影響力を持つとされる安倍元首相ですから、ウクライナ情勢について考えを語ることにはもちろん意義があります。ただ、その時間はあるのに、札幌地裁判決について「多忙」を理由にコメントすらも出さないのは極めて残念です。抗議の声が向けられた対象者であり、過去には「こんな人たち」発言もありました。そして、ウクライナを攻撃しているロシアでは表現の自由は弾圧されています。ウクライナ情勢に関連して憲法改正にまで言及するのなら、憲法が保障している表現の自由をどう考えるのかについても、安倍元首相は考えを明らかにしてほしいと思いますし、安倍元首相がどう考えているかが社会に知られることにも大きな意義があります。その意味で、安倍事務所が報道対応の要請に応じなかったことを伝える東京新聞の記事にも、意義があります。