ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

新人の皆さんへ~組織ジャーナリズムの仕事と表現の自由

 この春、マスメディア企業に入社した新人たちと話す機会がありました。わたしが話したことの大意を書きとめておきます。将来の仕事として、組織ジャーナリズムが選択肢に入っている学生さんたちにも読んでもらえればうれしいです。

 マスメディアの仕事についたこの春のことを、10年後、20年後に振り返った時に、どんな風に思い出すだろうか。ロシアがウクライナに侵攻している、そのさなかに組織ジャーナリズムの仕事に就いた。そのことは必ず思うだろう。
 4月に入っても、この戦争をめぐっていろいろなニュースがあった。先日はロシア黒海艦隊の旗艦である巡洋艦モスクワの沈没が報じられた。ウクライナはミサイルで攻撃したと言い、ロシアは爆発、火災、沈没は認めたものの、ミサイル攻撃には触れていない。否定もしていないから、ミサイル攻撃はあったとわたしは思う。ウクライナのミサイルで、首都の名を冠した軍艦が沈没したとあっては士気にかかわるから、ロシアは伏せているのだと思う。「ニュースは歴史の第一稿」という言葉があるが、もう一つ「戦争で犠牲になるのは『真実』」という言葉も紹介したい。まさにその通りのことを今、わたしたちは目の前で見ている。
 同じことが日本でもあった。1945年8月に終わった戦争では、大本営発表に基づいた報道しかなかった。例えば1945年3月10日の東京大空襲。一晩で10万人以上の住民が犠牲になったことは今日ではよく知られている。しかし、3月11日付の当時の新聞に載った大本営発表は、全文でわずか120字ほど。今日のツイッターのツイート1回分だけだ。そして人的被害には一切触れていない。現場では死屍累々の惨状が広がっていたのに、そのことは一字も報じられなかった。その以前から、日本の社会で戦争の実相は報じられていなかった。報じたらとても戦争を続けることができなかっただろう。
 これが77年前に日本で起きていたことだ。「77年も前のことじゃないか」と考えるか。「77年しかたっていない」と受け止めるか。
 こんなニュースもあった。JR東日本が恵比寿駅に掲示していたロシア語の案内を紙で覆い隠していた。利用客から「不快だ」という声があったという。何とバカな、と思うが、今の日本社会で、実際に起きていることだ。
 マスメディアの組織ジャーナリズムの仕事は憲法が保障する「表現の自由」と不可分であり、「表現の自由」がなければ成り立たない。この表現の自由について、元共同通信社編集主幹の故原寿雄さんは「今ある自由をきちんと使わなければ、この自由を守ることなどできない」と話されていた。その通りだと思う。自分の持ち場で目を凝らし、耳を澄まし、何が起きているかを敏感に感じ取ってほしい。そして表現の自由を行使して、伝えてほしい。
 自分の頭で考える習慣をつけてほしい。教科書はないわけではないが、いつも正解がその中にあるわけではない。それから「なぜ」にこだわってほしい。原さんは「ジャーナリズムは、まずもって問いを立てること」とも言われていた。
 もう一つ、「大きな主語で考えない」ということをアドバイスしておきたい。例えばロシアのウクライナへの侵攻。ロシアの人たちすべてが、この戦争を支持しているわけではない。当たり前のことだ。しかし「ロシアは悪」と、「ロシア」という大きな主語で考えたとたんに、そうした当たり前のことが見えにくくなってしまう。
 「わが国」という言葉も使いたくない。わたしは先輩から「わが国」じゃなくて「日本」と書けばいいだろうと教わったし、後輩にもそう教えてきた。「国益」という言葉も、ジャーナリズムが主体的に使う言葉ではないだろうと思う。すべての価値観をいったん相対化するのがジャーナリズムだと、わたしは思っている。

 東京大空襲の大本営発表報道については、わたしは新聞労連の専従役員当時に少し調べたことがあり、このブログでも何度も紹介しています。例えば以下の過去記事では、大本営の発表全文や、それを受けて当時の朝日新聞がどんな記事を掲載していたかを書きとめています。

news-worker.hatenablog.com

 「ツイート1回分」のことは以下の記事に書きました。

news-worker.hatenablog.com

 わたしが組織ジャーナリズムを仕事にして間もなく40年ですが、いつのころだったか、自分自身の記者人生をとても空しく感じていた時期がありました。記者だといっても、自分の問題意識に従って取材し、記事を書ける時間はそんなに長いことではありません。最初の数年は支局で修行。本社に異動してもすぐにやりたい仕事ができるわけでもなく、わたしの場合は10年もいないうちにデスクとなって、以降は組織の中で他人の原稿ばかりを見てきました。誰かがやらなければいけない重要な仕事であることは理解していました。
 では編集委員にでもなって、自分で取材して書く仕事を定年まで続けられる身になっていれば満足できていたか。その立場だって、いつかは離れなければなりません。例えて言えば、10年間だった記者の立場がせいぜい20年になるだけのこと。自分の手で直接記録できるのは、連綿と続く人間社会の営みのほんのわずかでしかないことに、変わりはありません。
 40代の前半だったと思います。ある放送関係者の言葉に出会いました。その方は職場で臆せずモノを言うために、上層部から疎んじられ、まだまだこれから、という時に番組制作の現場から出されていました。現場に残るために、組織の中で折り合いをつけることは考えなかったのか、と問われた彼の答えは「組織の中に自分のDNAを残せばいいんですよ。彼らがやってくれる。後を託すことができる人たちがいればいいんです」というものでした。
 新人たちと話しながら、この言葉を思い出しました。わたしは組織ジャーナリズムの中で既に現役の時間は終わり、残っている時間はもうそんなにありません。その時間を、後を託す人たちのために使っていこうと思います。