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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

新幹線200系の記憶

 10月14日は19721872(明治5)年に日本で最初の鉄道が新橋~横浜間に開業した「鉄道の日」です。ことしは150年という区切りの年に当たることから、JR各社ではいろいろと記念のイベントを企画しているようです。特にJR東日本では、東北・上越新幹線の開業40年、山形新幹線30年、秋田新幹線25年など新幹線の節目の年も重なり、「新幹線イヤー2022」のキャンペーンも組んでいます。その中でひときわ目を引いたのは、「200系カラー新幹線」の運行です。
 200系とは、1982年6月23日に東北新幹線盛岡~大宮間、同年11月15日に上越新幹線新潟~大宮間が開業した際に両新幹線を走っていた車両です。東海道、山陽新幹線が白地に青いだったのに対し、緑色のラインでした。その当時の「200系カラー」をE2系1編成に再現して走らせています。懐かしく感じて先日、大宮から上野まで1区間だけ乗ってみました。

 わたしが大学を卒業して通信社に入り記者になったのは、1983年春でした。東京本社で1カ月の研修を終えて配属された初任地は青森支局。前年に開業した東北新幹線に乗っての赴任でした。都内から大宮に向かい、新幹線「やまびこ」で盛岡までは3時間以上かかっていました。盛岡で在来線の特急「はつかり」に乗り換え、さらに2時間45分ほど。都内から青森までは計7時間ほどだったと記憶しています。それでも新幹線開業前、東北本線の特急の9時間からは随分と短縮されていました。以後、青森支局に勤務した4年間、休暇や出張であの緑の200系には何度も乗りました。様々な思い出があります。
 実は今まで、思い出深い新幹線車両と言えば、東海道山陽新幹線の0系でした。1964年の開業当初の初代車両です。九州から東京の大学に進み、長期休みの帰省で何度も0系で九州と東京を往復しました。まだ若くて、自分が何者であるのかがよく分かっておらず、そして何でもできるような気がしていた、青春の日の思い出とともに0系の記憶はあります。
 今回、200系のことを思い出して、同時に自分の気持ちが変化していることに気づきました。どうやら今は、0系よりも200系により強い思い入れが残っているようです。遠い日々への憧憬のような気持ちの対象が、今までは大学時代だったのが、青森で過ごした新人記者時代に移った、とも言えるかもしれません。マスメディアのジャーナリズムの仕事に就いてまもなく40年。2年前に現役の時間を終え、今は自分の経験や、失敗の教訓を後続の世代に引き継ぐ立場になっているからかもしれないと感じます。
 振り返ってみれば、あっという間の時間でした。40年は長いようでいて、人間の歴史の尺度で測れば本当に短い。だから一人の人間が記者という仕事でできることもたかが知れています。かつてそのことに気づいた時には、焦りにも似た気持ちがありました。しかしやがて、自分の持ち時間が終わる時には、次の世代にうまくバトンを渡せばいい、ということを考えるようになって、気持ちは落ち着くようになりました。200系新幹線と新人記者時代の記憶とともに、あらためてそんなことを思い出します。

 200系カラーの車両に乗った日、大宮の鉄道博物館を久しぶりに訪ねました。200系の保存車両があり、1982年の東北新幹線開業当時のポスターも展示室にありました。

※「新幹線イヤー2022」

www.jreast.co.jp