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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

小林多喜二の拷問死から90年、その今日的な意味~容易ならざる時代と向き合う覚悟

 今年7月に書きかけて、どうにも進まずそのままになっていた記事がありました。今年最後の記事として、書き上げることにしました。

 今年6月に休みを取って札幌に行く機会がありました。最終日の帰京の飛行機を夜の最終便にして、小樽まで足を延ばし、「蟹工船」などのプロレタリア作家として知られる小林多喜二の墓所を訪ねました。まもなく死から90年です。
 1933(昭和8)年2月20日、共産党員であり地下活動中だった多喜二は東京で特別高等警察(特高警察)に捕まり、警視庁の築地警察署に連行された後、変調を来し、病院で死亡しました。29歳でした。遺族の元に戻った遺体は全身が異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていたとされます。警察で拷問を受け死に至ったことは、疑いのない事実となっています。
 その2年前の満州事変を機に、国際的に孤立を深めた日本が国際連盟を脱退したのは、多喜二の死の翌月、3月27日でした。ドイツでナチスが政権を獲得し、ヒトラーが首相に就いたのはこの年の1月。後年、戦時社会の思想統制に猛威を振るった治安維持法は、既に1925年に制定されていました。政治警察、思想警察である特別高等警察が最初に警視庁に設置されたのはさらに古く1911年。1928年には全国の警察に置かれていました。
 1933年当時の日本は、その後の無謀な世界大戦にはまだ時間があり、社会一般の人たちには平和な日常風景が広がっていました。しかし、目を凝らし、耳を澄ませば、戦争に至る変化は社会のあちこちにあったのでしょう。戦前も拷問は禁止されていました。にもかかわらず、多くの証言が残っているように、特高警察では拷問が繰り返されていました。部内で「こういう連中には何をしてもいい」との考えが支配的だったのだろうと考えざるを得ません。

【写真:小樽市立小樽文学館の小林多喜二の展示コーナー】
 多喜二の拷問死に引き寄せて思うのは、この10年ほどで深まった日本社会の分断です。象徴的なのは、2017年の東京都議選で、東京・秋葉原で街頭演説に立った当時の安倍晋三首相のひと言です。政権批判の声を挙げた聴衆に向かって「こんな人たちに私たちは負けるわけにはいかない」と言い放ちました。
 「こんな人たち」と「私たち」を対置して、自分を批判する人たちを明確に敵と位置付けました。首相であれば、仮に自らを批判する人であっても、国民として、あるいは社会の一員として守らなければならないはずです。「こんな人たち」を「私たち」と分断して敵視するその発想は、多喜二を死に至らしめた特高警察の発想と重なるのではないか。自らを批判する人たちを「敵」とみなした安倍政権、それを継承した菅義偉政権の時代を通じて深まった社会の分断を、どう埋めて行けばいいのか。多喜二の非業の死から10年余りで、日本は無謀な戦争の末に国家の破局に至りました。現代のわたしたちの社会には、どんな未来が待っているのか…。そんなことを考えているうちに、小林多喜二の墓に行ってみたい、という思いにかられました。

 そして小樽を訪ね、東京に戻り、考えを整理しながらここまでこの記事を書き進めていたさなかの7月8日、安倍晋三元首相が銃撃され死亡しました。社会の分断と亀裂を深めた安倍元首相自身が、非業の死を遂げました。銃撃した容疑者の男の供述を発端に、旧統一教会と安倍元首相のつながりの深さ、さらには教団と自民党との関係の深さが取り沙汰されるに至っています。
 この事件に対するわたし自身の考えはいまだ定まっていないのですが、ある種の戸惑い、混乱に似た感情を覚えたのは事実です。「敵」を名指しして対立をあおるような「安倍晋三的」なものに与せず生きてゆこうとすれば、なにがしかの覚悟が必要になるような、そんな予感すらしていた中で、まさか当の安倍元首相が暴力で命を奪われるようなことが起こるとは思ってもみませんでした。社会で生きていく上で何か困難を感じるとすれば、「こんな人たち」の方にたぶん含まれる私の方であって、「私たち」の頂点に立つ安倍元首相の身に何かあろうなどとは、考えもしませんでした。
 この事件後、ほかのだれかを「敵」とみなして味方に結束を求めるかのような動きは、岸田文雄政権によって、さらに大掛かりに仕掛けられているようにも感じます。このブログの以前の記事で紹介しましたが、岸田政権による敵基地攻撃能力の保有の進め方は、ヒトラーの盟友だったナチスの大立者、ヘルマン・ゲーリングがかつて喝破していたこと―それはざっくり言えば「国民を戦争に仕向けるには、我々は敵から攻撃されかかっていると煽り、平和主義者のことは愛国心が足りないと非難すればいい」ということですが―のロジックに通底しています。
 安倍晋三政権下でなら、こういうことも十分に起こりえただろうと思います。しかしその安倍元首相亡き後に、ある意味、安倍元首相でもできたかどうか、というスピードと規模で、軍拡が始まっています。そのことにも大きな不安を感じます。

 時間をいったん6月の小樽訪問時に戻します。なるべく、当時小樽で感じたままのことを思い出して書いてみます。
 1903(明治36)年秋田生まれの小林多喜二は、4歳の時に一家で小樽に移住。事業に成功していた伯父の援助を受け、小樽商業学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)へ進み、1924年に小樽高商卒業後、北海道拓殖銀行(拓銀)小樽支店に就職しました。在職中から地元の労働争議を支援。プロレタリア文学の旗手として注目を集めますが、同時に特高警察のマークを受けるようになり、1929年に拓銀を諭旨退職。代表作「蟹工船」の発表はこの年でした。翌30年に上京。31年にプロレタリア作家同盟書記長に就き、日本共産党に入党。拷問死した当時は地下活動中でした。小樽は、文学者としての多喜二、共産主義者としての多喜二を育てた土地です。

 

【写真:JR小樽築港駅そばにある住居跡の碑】

 札幌から小樽までは日中、JRの快速電車が1時間に2本走っています。札幌から30分弱、終着の小樽駅の二つ手前、小樽築港駅で下車しました。駅前に「小林多喜二 住居跡」の碑が立っています。秋田から移り住んだ一家はここでパン屋を営んでいたとのことです。多喜二の墓所はここからタクシーで10分ほど。小樽市営の奥沢墓地の一角にあります。墓地の入り口から墓までは、坂道をたどって5分ほど。道順を収めた動画がネット上に公開されており、事前に見ていたおかげで迷わずに済みました。

 

【小林多喜二が眠る墓】
 墓碑銘は「小林家之墓」。背面に「昭和五年六月二日 小林多喜二建立」と刻まれています。死の3年前に、多喜二が建てていました。向かって左側の側面に彫られた戒名は、多喜二の父親のものとのことです。両親とともに、多喜二が眠っています。山の中腹にある墓地は、ほかに訪れる人もなく静かでした。

 多喜二の足跡をたどってみるために、待ってもらっていたタクシーで小樽商科大に行ってみました。市街地から伸びる「地獄坂」を登り切った高台にキャンパスはあります。今は札幌からでも学生は小樽市内には住まずに通ってくるそうです。JR小樽駅からバスで10分ほど。多喜二の時代は、この長い坂を歩いて通っていたのでしょうか。

 

【写真左:小樽商科大の地獄坂】【写真右:旧北海道拓殖銀行小樽支店】
 小樽商科大の近くの旭展望台には、多喜二の文学碑がありました。「小林多喜二祭実行委員会」の説明板によると、文学碑は1965年10月に建立されました。死後30年以上たってからのことです。当時の小樽市長、小樽商科大学長らを代表に、同じ小樽出身の文学者伊藤整のほか志賀直哉、宮本顕治ら120人以上が発起人に名を連ね、全国から募金が集まりました。高さ4メートル、横6メートルと、文学碑としては巨大です。書物を見開きにしたデザインで、左中央の男性の頭像は、「蟹工船」にちなんだ北洋の漁業労働者。頭上に北斗七星と北極星。右上に多喜二のレリーフがはめ込まれています。碑文は、生前の一時期、収監されていた豊多摩刑務所から、救援活動に奔走していた知人に当てた手紙の一節です。以下のように書かれていました。

 

【写真:小林多喜二の文学碑】

冬が近くなるとぼくはそのなつかしい国のことを考えて深い感動に捉えられている そこには運河と倉庫と税関と桟橋がある そこでは人は重っ苦しい空の下を どれも背をまげて歩いている ぼくは何処を歩いていようが どの人をも知っている 赤い断層を処々に見せている階段のように山にせり上がっている街を ぼくはどんなに愛しているか分からない

 小樽の市街地の一角には、廃校の旧校舎を使った市立小樽文学館があり、小林多喜二の資料を展示したコーナーもありました。北海道拓殖銀行小樽支店に勤務していた当時の賞罰の記録のコピーがありました。昭和4年11月16日に「依願退職(諭旨)」が発令されています。理由には「左傾思想を抱き『蟹工船』『一九二八年三月一五日』『不在地主』等ノ文芸書刊行 書中当行名明示等言語道断ノ所為アリシニ因ル」と書かれています。好ましくない思想を持ち、作中に銀行名まで明示したのは言語道断であるので退職を求めた、ということのようです。

【写真:多喜二の死を伝える新聞記事=市立小樽文学館】
 死を伝える新聞記事の切り抜きは、多喜二の母親が手元で保管していたとのことです。「小林氏」と敬称が使われているのを興味深く感じました。特高からマークされる身ではあっても、新聞は作家として敬意を払っていたことがうかがえます。見出しには「急死」「変死」の文字。どの記事も明示してはいないものの、多喜二の死に警察が深く介在していることを強く示唆する体裁でした。
 展示の中でひときわ目を引くのは、多喜二のデスマスクです。石膏ではないので複製のようですが、それでも死後まもない表情を今に伝えています。この虐殺が間違いなく、実際に起きた出来事であることを確信できた気がしました。

【写真:多喜二のデスマスク=市立小樽文学館】

 小樽を訪ねてから半年余りが過ぎました。
 この間、安倍元首相の国葬に対し、世論は日を追うごとに反対が増えていったのに岸田首相は強行しました。旧統一教会と自民党の関係もろくな調査は行われないままです。当然のごとく、内閣支持率は下落傾向が続いています。それなのに、岸田首相は安倍元首相に優るとも劣らない熱心さで軍拡路線をひた走っています。自民党の伝統的なハト派勢力だった宏池会の流れをくむ岸田首相のこの言動は何に根差すのか。
 なんとも気持ちがざわつくのは、岸田内閣の支持率は下がる一方で、軍拡路線、中でも敵基地攻撃能力の保有に対して世論は、肯定的な受け止めが決して少なくないことです。
 軍事を優先させる発想は、必ず社会を敵と味方とに二分する方向へと進みます。そうでなければ戦争はできません。たとえ「自衛」であろうとも。仮に敵を批判しない者がいるとして、それは「味方ではない」ということにとどまるかどうか。ゲーリングが喝破したように「平和主義者は愛国心が足りない」とみなされれば、あるいはレッテルが張られれば「味方ではないのだから、敵も同然だ」というところまではすぐに行き着くでしょう。そんな社会で何が起きるのか。「敵も同然の、そんな奴らには何をしてもいい」とならないか。多喜二の死の今日的な意味として、そんなことを考えています。容易ならざる時代に向き合う覚悟を、あらためて固めたいと思う年の瀬です。

 ことし2022年も多くの方にこのブログに訪問いただき、ありがとうございました。
 新年も、よろしくお願いいたします。