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沖縄復帰「51」年と「50」年の報道量の落差は何を意味するか~変わらない「『基地なき島』遠く」の見出し

 ことし5月15日で沖縄の施政権返還、日本復帰から51年でした。15日当日は新聞休刊日のため、沖縄の地元紙2紙(沖縄タイムス、琉球新報)のほかには、新聞発行がありませんでした。休刊日明けの16日付朝刊で、東京発行の各紙が「復帰51年」をどのように報じたか、書きとめておきます。

【5月16日付朝刊】
▼朝日新聞
社会面「沖縄復帰51年 消えぬ苦悩/辺野古 抗議と排除」
オピニオン面 耕論「沖縄の語り方」識者3人
社説「沖縄復帰51年 犠牲強いる構図直視を」
▼毎日新聞
第2社会面
「『基地建設をやめろ』/辺野古で抗議行動」
「米兵の言葉 乱された心/95年暴行事件 『冷静』心がけても言葉出ず/法廷通訳の女性」
▼読売新聞
※記事見当たらす
▼日経新聞
第2社会面「沖縄の日本復帰51年/重い基地負担変わらず/観光客数は回復途上」
▼産経新聞
社会面「沖縄復帰51年 各地でイベント/『意義を正しく後世に』」
▼東京新聞
社会面「基地ない島 実現遠く/沖縄復帰51年 住民ら声上げ」

 復帰前日の14日付朝刊の扱いについては、以前の記事に書きとめた通りです。

news-worker.hatenablog.com

 復帰50年だった昨年は、掲載ページ最多の朝日新聞が9ページにもわたって関連記事を載せたのを始め、在京の各紙とも多くの記事を掲載していました。ことしは14日付、16日付を合わせても昨年の報道量には遠く及びません。1面に関連記事を載せたのは、朝日新聞の14日付だけです。
 「50」と「51」に本質的な違いはないはずです。「50」はキリがいい、「51」はそうではないとの理由だけで、報道量にこれほどの差が出るのだとすれば、残念というほかありません。
 沖縄の基地の過重負担は沖縄の地域の問題ではなく、日本の安全保障をどうするかの問題です。日本本土に住む日本国の主権者には当事者性があります。加えて、岸田文雄政権の軍拡路線で、南西諸島への自衛隊配置、軍備拡張が進んでいます。昨年12月には安保3文書の改定で、敵基地攻撃能力の保有が決まりました。台湾有事の際には、南西諸島を始め、沖縄が戦場になる懸念は増しています。「節目ごとに報じる」という意味では、「51」であっても「5月15日」は、沖縄の過重な基地負担に質的な変化が顕在化していることを、慌ただしく進む最近の動きを整理して、あらためて丁寧に報じる機会にできたと思います。

 主だった日本本土の地方紙の紙面も見てみました。16日付朝刊で、「沖縄、日本復帰51年/『基地のない島』実現遠く/ 辺野古で住民ら声上げる」との共同通信配信の記事を社会面に掲載している例が目立ちました。共同通信からはほかに、51年前に「復帰」をテーマにした授業を行った84歳の元教師の女性の思いを取り上げたサイド記事「平和への願い『かなわず』/元教諭、復帰テーマに授業」と、平和学が専門の石原昌家・沖国大名誉教授の大型談話も配信されています。
 自社で取材した記事を掲載している地方紙もありました。わたしが目にした限りですが、以下の通りです。
▼神戸新聞
16日付社会面トップ「日米友好の人形 再び沖縄へ/太平洋戦争中、大半焼き捨て-/加古川の作家・西村さんら尽力/贈り主の孫『96年前と同じ 平和願う』」
▼西日本新聞
16日付
1面「『沖縄を返せ』福岡から/復帰目前 一度は途切れた歌声」ワッペン・島とヤマトと(社会面へ続く)
社会面トップ「一字替え不条理歌う/響かぬ日 来ること願い」(1面からの続き)
社会面準トップ「名物おばあ 市場で見た復帰51年/米統治下の闇市から観光地に 『平和な世を』」
▼南日本新聞
16日付社会面「基地負担の改善努力を/沖縄ゆかり鹿県関係者/防衛力強化は仕方ない」

 西日本新聞の「『沖縄を返せ』福岡から」は以下のような書き出しです。

 沖縄が日本復帰を目指す中で生まれ、反基地運動で歌い継がれる「沖縄を返せ」。この歌は1956年に福岡で誕生した。沖縄では当時、土地接収を強行する米国に対し、島ぐるみの闘争が起きていた。「本土から支援したかった」。作詞に携わった福岡市の後藤幸雄さん(91)は振り返る。

 記事によると、「沖縄を返せ」は福岡の労働組合「全司法福岡高裁支部」がつくった歌でした。沖縄での復帰運動でも歌われましたが、1970年を境に沖縄では歌われなくなりました。米軍基地がそのまま残ることへの失望が背景にありました。95年に米兵による少女暴行事件が起きると、この歌はリフレインの「沖縄を返せ」の一文字だけ「を」を「へ」に替えて「沖縄を返せ、沖縄へ返せ」として再び沖縄で歌われるようになった、とのことです。
 記事には以下の記述もあります。

 反基地運動では時に、「民族の怒り」が「県民の怒り」と替えて歌われる。その矛先は米軍だけではなく、基地を押し付ける本土へも向くようになった。

 基地の過重な負担が解消されれば、この歌が歌われることもなくなる―。「響かぬ日 来ること願い」の見出しの意味です。
※「沖縄を返せ」は以下で聞くことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=r6m4lP7SaHA

www.youtube.com

 社説は、全国紙では朝日新聞が16日付で掲載しただけでした。
 地方紙では中日新聞・東京新聞、神戸新聞が掲載しているのが目に止まりました。
それぞれ一部を引用します。3紙ともサイトで全文が読めます。

【朝日新聞】5月16日付「沖縄復帰51年 犠牲強いる構図直視を」
 https://digital.asahi.com/articles/DA3S15636586.html

 再び戦闘の最前線になるのではないか。そんな不安が高まる中で、沖縄は15日、日本への復帰から51年を迎えた。
 本土から犠牲を強いられる構図は半世紀を経ても変わらず、むしろ新たな懸念が浮上する。その現実に目を向けたい。
 岸田政権は昨年、国家安全保障戦略など安保関連3文書を改定し、敵基地攻撃能力の保有で防衛力強化へ踏み出した。台湾や中国に近い沖縄県の南西諸島には陸上自衛隊の駐屯地を相次いで開設し、ミサイル部隊を配備。米軍も沖縄の海兵隊を改編し、離島に機動的に展開する即応部隊を創設する方針だ。
 基地強化の流れはいつの間にか既成事実化し、国は基地負担軽減どころか、沖縄との溝を深める方向へ突き進んでいる。

【中日新聞・東京新聞】5月14日付「週のはじめに考える 沖縄戦の記憶が蘇る」/自衛隊の配備が相次ぐ/攻撃の対象となる懸念
 https://www.chunichi.co.jp/article/689555

 知事をはじめとする県民が自衛隊配備に不安を感じる背景には、太平洋戦争末期の沖縄戦があります。民間人を巻き込んだ激烈な地上戦で当時の県民の四分の一が犠牲になりました。
 旧日本軍の軍人がガマと呼ばれる自然の洞窟に避難していた住民を追い出したり、住民を集団自決に追い込んだという証言が残ります。沖縄の人々にとって軍隊は住民を守る存在ではないのです。
(中略)
 浜田靖一防衛相は、陸自石垣駐屯地の開設記念式典で「南西諸島の防衛力強化は国を守り抜くという決意の表れだ」と訓示しましたが、沖縄を再び、本土を守るための盾や捨て石にしようとしているようにも見えます。
 玉城知事は二月、東京で開かれた県主催シンポジウムで、長距離ミサイルの沖縄配備について「かえって地域の緊張を高め、不測の事態が生じる懸念を持つ。沖縄が攻撃目標とされることを招いてはならない」と強調しました。
 政府や本土に住む私たちは、沖縄県民の声に誠実に耳を傾けなければなりません。沖縄が「基地のない平和な島」にならなければ、真の本土復帰とは言えず、日本の戦後も終わらないのです。

【神戸新聞】5月16日付「沖縄復帰51年/国は基地負担の軽減策を」
 https://www.kobe-np.co.jp/column/shasetsu/202305/0016355636.shtml

 住宅に囲まれ「世界一危険な米軍基地」とされる米海兵隊の普天間飛行場(宜野湾市)は、96年に日米で5~7年での返還が合意されたにもかかわらず、今も運用が続く。
 日米両政府は、返還には名護市辺野古への移設が「唯一の解決策」と繰り返す。しかし自然豊かな海を埋め立てる移設工事に玉城知事は明確に反対し、昨年9月の知事選でも再選した。現場海域の軟弱地盤で、基地建設は技術的に困難と県は指摘する。政府は反対の民意を尊重し、いったん工事を中断すべきだ。
 見過ごせないのは、政府の方針で毎年度3千億円台を確保するとしていた沖縄振興予算が、2022年度から2年連続で3千億円を割ったことだ。県が辺野古移設に反対しているからだとの見方がある。国の意向に従わせる「アメとムチ」に予算を使っているのであれば許し難い。
 (中略)
 政府は沖縄県に難題の解決を押しつけてはならない。地元との対話を深め、外交努力も重ねて、基地負担の軽減策を探ってもらいたい。

 わたしは新聞労連委員長を務めていた2005年と06年の両年とも、5月15日は沖縄に滞在していました。沖縄のマスメディアの労組と一緒に、05年は普天間飛行場を“人間の鎖”で囲む行動に、06年は平和行進に参加しました。06年の「復帰34年」と平和行進を報じる沖縄タイムスと琉球新報の写真が手元に残っています。琉球新報の1面トップの大きな見出し「『基地なき島』遠く」は今もそのまま。ことしの共同通信の配信記事の見出し「『基地のない島』実現遠く」とまったく変わりません。
 日本本土に住む日本国の主権者の一人として、日本本土のメディアの内部にいる一人として、忸怩たる思いです。

【写真】「日本復帰34年」の2006年5月15日付の沖縄タイムスと琉球新報

 

※追記 2023年6月4日7時30分

 5月16日付で南日本新聞も社説を掲載していました。見出しは「[沖縄復帰51年] 苦難の歴史直視せねば」。同紙のサイトでは会員専用コンテンツです。