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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

「週刊朝日」休刊の口惜しさ、やるせなさ 追記・吉永小百合さんの怒り

 「週刊朝日」が5月30日発売号で休刊になりました。朝、新聞の広告に「週刊朝日は今号をもって休刊します」と書いてあるのを見て、「ああ、そうだったな」と思い出しました。
 その広告ですが、「休刊します」の後に「またね!」と入っています。これで終わりではない、ということでしょうか。休刊の特集とおぼしき記事は「総勢101人超からの『さよならは、するけれど』」。最初に吉永小百合さんの「トップが悪いんじゃないですか。100年も続いた大事な雑誌をやめるなんて」とのひとことが載っているのが目に止まりました。
 この日の朝日新聞朝刊1面のコラム「天声人語」も週刊朝日の休刊を取り上げています。

 創刊から101年。日本で最も古いとされる総合週刊誌が、長い歴史の幕を閉じる。身内びいきに言わせてもらえば、時代の歯車がカチリと鳴る音が聞こえるようだ。

 先週末、最終号の校了の日に訪ねた編集部の様子を次のように紹介しています。

 編集部では、最後の見出しをめぐる議論をしていた。「さようならのその先」はどうか。休刊は「こんちくしょう」ではないのか。いや、それより「ありがとう」を入れたい。記者らのやるせない気持ちがぶつかりあう。

 そして、以下のように結びます。

 最終の頁(ページ)が校了したのは深夜だった。輪転機がまわり始めるころ、社を後にした。やり場のない思いを込め、暗い空を見上げる。さよなら、週刊朝日。

 「惜別の辞」のトップに吉永小百合さんの言葉を持ってきていることといい、天声人語の筆致といい、同誌編集部の当事者だけでなく、朝日新聞本紙の中にも、「まだまだやれるのに」との思いが共有されているさまがにじみ出ているように感じます。
 あらためて、発行元の朝日新聞出版が休刊を明らかにした今年1月の社告を見てみました。以下のように書かれています。

週刊朝日の2022年12月の平均発行部数は74,125部。弊社の業績は堅調ですが、週刊誌市場の販売部数・広告費が縮小するなか、今後はウェブのニュースサイトAERA dot.や書籍部門に、より一層注力していく判断をしました。当社のもう一つの週刊誌AERAは、AERA dot.との連携を強め、ブランディング強化をはかっていきます。

 https://publications.asahi.com/news/1848.shtml

 まだ余力はあったように読めます。週刊誌市場に見切りをつけ、ニュース分野はデジタルに注力していく経営の判断なのでしょう。
 わたしは通信社の育ちで、独自の媒体を持たずに働いてきました。それでも、新聞や雑誌の仕事に携わる人たちが、自分の媒体にどれだけ深い愛着を持っているかは、業務やメディア界の労働組合運動を通じてよく知っています。活字で育ち、活字を長く仕事の中心にしてきた一人として、「まだまだやれるのに」との口惜しさ、やるせなさに共感を覚えます。

※週刊朝日の最終号広告(朝日新聞出版HPより)

publications.asahi.com

【写真下:広告の一部を拡大】

 

【追記】2023年5月31日23時45分
 「トップが悪いんじゃないですか。100年も続いた大事な雑誌をやめるなんて」との吉永小百合さんの惜別の言葉について、朝日新聞出版のサイト「アエラドット」に全文が載っています。
https://dot.asahi.com/wa/2023053000066.html?page=1

 前後を含めて「トップが悪いんじゃないですか」の部分を引用します。

 日本だけでなく地球全体がめちゃくちゃな方向に進んでいる。そういう時代になってきたと思います。だからこそ、きちっと正面から題材に取り組んで書く雑誌には、頑張ってほしいと思っていました。
 そんなときに休刊の発表です。発言の場がなくなっていく寂しさを感じます。トップが悪いんじゃないですか。100年も続いた大事な雑誌をやめるなんて。
映画の世界もフィルムからデジタルに変わって、私は今でもまだ慣れたとはいえません。加えてネット配信も普及してきました。映画を映画館で観ることで、感じるものもあると思うんですけど。
 情報も、本や雑誌を買いに行かなくても、自分のもとに勝手にネットに乗ってくるようになりました。これを読もうと思わなくても、自分で考えて選ばなくても、勝手に情報がやってくる。自分でその場所に行き、目で見ることで感じたり、出会った人と言葉を交わすといった世界が、どんどん遠のいていってしまう危機感があります。
ですから私は昨年2月の「週刊朝日」創刊100周年記念号で、「200年を目指して、ぜひぜひ頑張ってください」とエールを送ったんですよ。そう言ったのに、という思いでいっぱいです。

 休刊を惜しむというよりも、休刊を決めたことに対して怒っているニュアンスが強いと感じました。