新聞ジャーナリズムがネット規制を呼び込むことにならないように

※エキサイト版「ニュース・ワーカー2」から転記です。http://newswork2.exblog.jp/8232280/
 明治学院社会学部での講義はきのう(5日)、「ネット社会、多メディア社会と新聞ジャーナリズム」のテーマを終え、残すところ次回の1回だけとなりました。
 きのうの講義では、長年にわたって「部数第一主義」でやってきた新聞社のビジネスモデルは限界にきており、新たな収益モデルを模索する中で、各新聞社ともネット展開に力を入れてきていることや、そのことが新聞のジャーナリズムにどう影響するのかについて、わたしなりの考えを話しました。
 新聞社のビジネスと新聞のジャーナリズムはきちんと分けて論じないといけないのですが、まったく関係がない別々の問題というわけでもないと、わたしは考えています。新聞社がネット展開を強化していくことに異論はありませんが、ネットに踏み込む以上、新聞社のコンテンツといえどもネット空間では特別扱いというわけにはいかないと思います。具体的に言えば、新聞社の記事もネット空間では、例えば硫化水素の作り方を記した情報などと同列の存在であり、新聞社のサイトも例えば2ちゃんねると同列の存在です。それがネット空間での「平等」だと考えています。問題だと思うのは、そのことを新聞社の側がどこまで自覚できているか、です。そこに新聞のジャーナリズムにかかわる問題が出てくると思います。
 何度かこのブログでも触れてきましたが、例えば青少年の健全育成を目的にして、 「青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律」が6月11日に成立しました(法律全文は衆議院のホームページにあります)。携帯電話のフィルタリング機能をめぐって、何が有害情報に当たるのかの判断に国家が直接介入することは見送られましたが、それでも「違法」情報にとどまらず、「有害」情報を法に根拠を置いた規制の対象にする枠組みはできてしまいました。今後さらに、通信(ネット)と放送の一元規制がコンテンツ規制まで進めば、当然に新聞社のサイトも、新聞社がネット空間に発信している情報も規制の対象になります。規制の主体が現在の放送法と同じように国(総務省)になるのだとしたら、新聞ジャーナリズムが直接国の規制を受ける事態になります。そして「違法」にとどまらず「有害」な情報も規制の対象になるとしたら、本来あいまいな「有害」の線引きが恣意的に行われ、結果として新聞ジャーナリズムの表現の自由が制約を受けることになりかねない、そうわたしは危惧しています。
 翻って現在の新聞報道のネットに対するスタンスですが、時としてネガティブなとらえ方が前面に押し出されます。事件報道に顕著で、子どものいじめの舞台に学校裏サイトがある、犯罪被害に遭った少女が出会い系サイトで容疑者と知り合った、などのニュースは枚挙にいとまがないでしょう。それはそれで事件報道には必要な要素であり、社会に伝えなければならない情報ですが、ネットのそうしたネガティブな面だけが強調され続けると、国家によるネット規制論を呼び込むことになってしまう、そうなれば新聞は自らの首を絞めることになる、そのことをわたしは危惧しています。そうならないためには、新聞(この場合はビジネスの面もジャーナリズムの面も)の側がいかなる場面、局面でも「表現の自由」に徹底的にこだわること、その自覚と覚悟が問われてもいるのだと考えています。

 次回の講義は最終回として、4月から話してきたことの総まとめになります。春先に提出したシラバス(授業計画)ではテーマを「新聞は戦争を止められるか」にしました。講義を聴いてくれた学生の一人一人の頭の中に、何かひとつでも残るものがあるようにしたいと思います。