ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

マスメディア自身にも「自主的取り組み」は課題〜ネットの表現規制論議の続き

※エキサイト版「ニュース・ワーカー2」から転記です。http://newswork2.exblog.jp/7924564/
 前回のエントリーで取り上げたインターネットの表現規制について、弁護士の田島正広さんが自身のブログで自民党青少年特別委員会(高市早苗委員長)を中心とする規制法案への論評を書かれています。法曹実務家の視点で、とりわけ憲法21条の「表現の自由」「知る権利」との関係の論点がすっきりと解説されていて、わたしの頭の中を整理するのにとても参考になりました。一部を引用して紹介します。
 「Leagal topics〜弁護士田島正広のブログ〜」
 ネット上の青少年有害情報の閲覧規制(1)

 民間事業者の自主的な努力の現状を尊重しないこのような法規制については,(1)表現の自由に関する法規制として要求される必要最小限度性を超えるものとして,違憲の疑いが残るものと考えております。また,法案化に当たっては,(2)法律レベルで規制対象が十分明確になるよう慎重に配慮する必要があり,さらに,(3)行政による人権制限に当たっての手続的保障についても,適正手続の保障の観点から工夫されなくてはなりませんが,この点でも,合憲性の点で憂慮するところが残ります。
 のみならず,このような規制が,どれだけの実効性を持ちうるか(例,青少年と成人との分別をいかに行うか,海外からの輸入PCへの規制等),あるいは本件規制を実現するためにもっと大きな法益を損なうことにはなりはしないか(成人には有害ではないコンテンツが削除されてしまうことによる成人の知る権利の制限,事業者の負担増に伴う国際競争力の阻害等)についても疑問を持っています。

 ネット上の青少年有害情報の閲覧規制(2)

 親には子どもに対する教育の自由があり,子どもの健全育成にかなう範囲で広範な裁量権が認められるほか,その所有する携帯電話やコンピュータについて管理権が存しますので,その購入,子どもへの付与から利用方法の指定に至るまで親の裁量に服することになるでしょう。同様に学校においても,教育上並びに施設管理権の観点からの広範な裁量権が認められることになります。
 そこで,子どもの現時点の意思に反してでも,親や学校がこれらの裁量を行使して子どもの発育程度に応じた知る権利の制限を行うことが,子ども自身の健全育成のために許される場合があるものと考えられます。フィルタリングはまさにそのための手段と位置づけられることになります。憲法論的には,人権制約の根拠である「公共の福祉」(憲法13条)の一内実として,いわゆるパターナリスティックな制約という類型が考えられていますが,その範疇に含められることと思料します。

 ネット上の青少年有害情報の閲覧規制(3)

 ところで,子どもというだけで広範なフィルタリングの全てが直ちに是認されるわけではありません。あくまで子どもの健全育成の観点からの制約となりますので,不当に広範な制約を行うことが適切とは言いがたいことになります。同時に技術的限界の問題はあるものの,子どもの年齢や発育の程度に応じてその限界線は可変的であるべきと言えます。ここでは,知る権利に対する制約という憲法上重い制約であることに照らして,フィルタリングによって廃除される表現はどのようなものであるべきか(=実体要件),フィルタリングの内容・程度をどのような手続に基づき決定・実施しているか(=手続要件)の両方が,問われることになります。

 ネット上の青少年有害情報閲覧規制(4)

 青少年有害情報に対するフィルタリングを立法で義務化する部分については,それ自体は成人の知る権利には影響しませんが,子どもの知る権利に対する制約として,程度の差こそあれ表現の自由に関する制約である点には変わりはありません。したがって,青少年有害情報の定義を十分明確化した上で,子どもの発育程度に応じた適切なフィルタリングを実施することが必要でしょう。制限の対象となるかどうかが不明確であれば,自ずから萎縮的効果を伴う虞があります。立法案としては,法律において概ね定義をした上で,詳細は第三者機関の判断に委ねる趣旨のようです。(中略)
 下位機関への委任は本来国会が唯一の立法機関であることに照らして,民主制を空洞化させかねない要素があるものです。しかも本件は表現の自由への制限となるものであり,民主政の成立基盤とは無関係とはいえないものです。したがって,下位機関への委任は,それがどのような人選に基づくか,どのような手続で基準が定立されるのかも含めて,慎重に検討されるべきことと思料しております。

 自民党論議が最終的にどう決着するか、わたしにはよく分からないところもあるので、規制の法案自体への論評は控えますが、田島さんが指摘している通り、「知る権利」との関係で、法による規制には「実体要件」「手続要件」の双方を満たしているかが重要だと思います。そしてその双方とも、現在の法規制論では不十分だと思います。
 また、そもそも論というか、法による規制の大前提として「もはや法で規制しなければ青少年を守れない」という状況なのかどうかが最大の問題でもあるでしょう。この点でいえば、関係業界による自主的な取り組みが既に始まっており、まずはその推移を見極めるべきであり、法による規制は、仮に百歩譲るとしても時期尚早だとわたしは考えています。

 前回のエントリーと関連しますが、「法規制の前に、まず自主的な取り組み」は、1990年代後半以降、表現規制の立法化の動きの中で既存のマスメディアに常に突き付けられている課題でもあります。広く指摘されていることですが、個人情報保護法の原案や人権擁護法案が、常に新聞や放送の取材行為を直接の規制対象に含めてきたことは、いわゆるメディアスクラムなどマスメディアの人権侵害行為がなくならないことと関係しています。導入が来年に迫っている裁判員制度をめぐっても、裁判員への予断と偏見の排除の観点から、事件事故報道の表現のありようが論議されています。裁判員法の中に直接、報道機関の表現への規制を盛り込むことは見送られましたが、そのことは逆に言えば、「無罪推定の原則」を踏まえた既存マスメディアの自主的な事件事故報道の見直し努力が問われていることでもあると、わたしは受け止めています。
 ネット規制論議に話を戻すと、もはや法による規制しかないのか、それとも関係業界の自主的な取り組みを尊重するのか、という論点は、既存のマスメディアがこの10年ほど、そのまま経験してきたことです。確かに「学校裏サイト」がいじめの舞台になっていたり、硫化水素の製造法の情報がネットにあったりするのは事実ですが、そうしたネットの負の側面を取り上げ、そこで報道が終わってしまうのでは、結果的に(メディア側が意図しているかどうかは別としても)「だからネットは法で規制するしかない」という論調に勢いを与えるだけでしょう。この10年の経験からマスメディアは「表現の自由」「知る権利」と法規制の問題に何も教訓を得ていない、ということになりかねません。多様な意見を取り上げ、社会的な議論に必要な情報として発信していく積極的な姿勢が、既存のマスメディアには必要だと痛切に感じています。
 前回のエントリーでも紹介した藤代裕之さんの日経「IT-PLUS」コラムに5月16日付で、法規制に反対している高等学校PTA連合会の高橋正夫会長のインタビューがアップされました。一連の関連記事を通じて、藤代さん流のジャーナリズムの実践だと感じています。
 インタビューの中でも指摘されていることですが、ネットと青少年育成の問題はリテラシーの問題に尽きるのだと思います。さまざまな情報があふれかえっている社会の中で、一つ一つの情報が持っている意味を読み解いていく能力、という意味で、わたしは「リテラシー」という言葉をとらえていますが、その能力をいちばん身につけていなければならないのが、わたしを含めてマスメディアの側だと思います。既存のマスメディア、中でも新聞は、ネットとの関係の論議の中では「自分たちこそ情報のプロ」と主張する傾向があります。情報の受け手の側から「新聞こそ情報のプロ」と言ってもらえるのなら、それはありがたいことなのですが、自分たちの方からそう言うのは、わたしは控えた方がいいと考えています。ネットだけではなくマスメディアも、受け手の側に立って考えてみれば、等しく同列に「リテラシー」の対象なのです。受け手の側は、既存のマスメディアが発信していない情報にも、ネットで接しています。そうした受け手からは既存のマスメディアはどういう存在と受け止められるかを、わたしは常に意識していたいと考えています。

*追記(2008年5月18日午後1時45分)
 昨日(17日)は朝からずっと外出していてニュースチェックが甘かったのですが、政府の教育再生懇談会が「小中学生に携帯電話を持たせるべきではない」とする内容を、6月にまとめる第1次報告に盛りこむことを決めたと報道されています。産経新聞のサイト記事を一部引用します。

 政府の教育再生懇談会(座長・安西祐一郎慶応義塾塾長)は17日、都内のホテルで会合を開き、子供を有害情報から守るため「小中学生に携帯電話を持たせるべきではない」とする内容を、6月にまとめる第1次報告に盛りこむことで一致した。
 有害サイトを通じて犯罪に巻き込まれたりいじめが起きたりしていることや、子供が携帯電話を持つ必要はないとする福田康夫首相の持論を反映させることになった。
 (中略)
 山谷えり子首相補佐官は会合終了後の記者会見で、子供に携帯電話を持たせることについて「メリットよりも大きな害があることをよく考えてほしい」と強調した。

 やや感情的であることを自覚しつつ、率直な個人としての感想を書けば「そんなの関係ねえ!」の一言に尽きます。携帯電話にメリットの一方で大きな害があることも否定はしませんが、だから「取り上げよ」というのであれば、リテラシーは身につきません。メリットとデメリットの双方があることを知った上で、メリットを生かしデメリットを排除する使い方を、大人、保護者が自身のリテラシーを高めながら、子どもと一緒に考え実践していくべきだと思います。
 再生懇の議論の詳細は承知していませんが、短い報道からも、福田首相や再生懇に「保護者がいっしょに考える」という姿勢を感じ取ることはできません。子どもは国家の専有物ではありません。家庭や保護者、あるいは地域とのつながりの中に子どもはいます。個人の集まりが国家を形成しているのであって、その発想が逆転し、子どもを管理監督するのは国家と考えているのだとしたら、それは戦争社会につながる道です。マスメディアは、再生懇への反論を紹介していかなければならないと思います。