大学生が「新聞」に持つイメージ

 明治学院社会学部の非常勤講師の授業で先日、学生たちに新聞に対して持っているイメージを挙げてもらいました。「新聞に接触している人は91・3%」との調査結果が先ごろ、日本新聞協会から発表されましたが、新聞の読まれ方に年代によって差があることは各種の調査、アンケートでよく知られています。授業でメディア状況の変化を考える上で、学生たち自身の声も生かしてみたいと考えました。わたしなりに整理して紹介します。挙げてもらったのはあくまでもイメージで、実際に新聞を手にとっての感想ではありません。

  • 1日2回(朝刊と夕刊)の発行で、編集に時間をかけている。
  • 1日の流れが分かる情報が詰まっている。
  • 情報が信頼できる。
  • 受動的に構えていられる。

 「情報の信頼性」の点で好意的なイメージの代表例だと思います。

  • 批判的な内容が多い。
  • 新聞の数が多く、どの新聞の内容がいいか選ぶのに苦労する。
  • 大人向けのメディア

 新聞への「困惑」を感じます。「大人向けのメディア」と答えた学生に「『大人』とは具体的に何歳くらい?」と尋ねたら「中高年」との答えでした。

  • 大きすぎて読んでいるとバラバラになる。
  • 手が汚れる。
  • 金がかかる。
  • 文字が多い。

 記事の内容以外についてのイメージです。あまり好意的とは言えないようです。「バラバラになる」というのは、新聞を読み慣れない若い人に共通しているようです。通勤電車の中で新聞を器用に折りながら読む大人の姿も、最近は見かけることが少なくなりました。

  • 焼き芋を包むことができる。

 発言順が最後になった学生が「思っていることはほかの人たちが言いました」とした上で「あえて言えば」と挙げた答えです。思わず笑ってしまうのですが、しかしかつて、新聞紙は八百屋や魚屋では大活躍でした。たき火のたきつけも古新聞でしたし、子どものころ、小学校の工作で新聞紙を使って色々なものを作った記憶があります。「紙」のメディアであることは、新聞の特質の一つです。今後は新聞が大量の紙を消費することに対して、エコの観点から関心が高まるかもしれません。
 さて、授業は12日の前回からテーマが「新聞記者とジャーナリストの間」に移りました。このブログでも再三、触れていますが、わたしは今や必ずしも「新聞記者=ジャーナリスト」の図式は成り立たなくなってきていると考えています。新聞記者の中にもジャーナリストと呼ぶに足る記者はもちろんいますが、では新聞社に記者職として勤務していればジャーナリスト足りうるかというと、そうでもなくなってきているのではないか。また、マスメディア企業に勤務するプロ記者やフリーランスのプロ記者以外にも、ジャーナリズムの担い手たる書き手も増えています。今の社会でジャーナリスト足りうるためには何が必要かを考えていくのが授業の狙いです。
 授業ではまず「可視化されるマスメディア」をテーマに、インターネットの普及でだれもが情報発信できる社会になったことによって、マスメディアやそこで働く記者がどんな取材をしているのかが今や社会から見られていることを話してきました。次にテーマを「ソーシャルメディアの台頭とマスの崩壊」に進め、ブログやmixiなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)など次々にソーシャルメディアが登場し進化することによって、社会での情報の流通が多様化、多層化していることを考察しました。ツイッターでフォローしている人のツイートで、自分が関心を持っている分野の新しい情報を知ったときなど、わたしは「もしニュースが重要ならニュースのほうから僕を探してきてくれる」というフレーズを「その通りだな」と実感します。かつて世論調査で9割が「自分は中流である」と答えていたように、日本社会には意識の均一性がありました。最大公約数の関心に応えるニュースをパッケージにして届ける新聞は、メディアとしても産業としても黄金時代を過ごしました。その均一的な「マス」社会は既にありません。将来は一人一人が自分に最適の情報入手環境を持つことができる「マイメディア」の社会になっていく、との坪田知己さんの指摘も授業では紹介しました。
※参考過去エントリー
 「『ニュースが僕を探してきてくれる』時代」2010年5月24日
  http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20100524/1274628106
 「紙面、取材組織、記者クラブの『三位一体』的な縦割り〜ネット以前と同じ新聞メディア」2010年4月30日
  http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20100430/1272560053
 「ジャーナリズムとジャーナリストの未来像を探る〜明治学院大での非常勤講師が始まりました」2010年4月11日
  http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20100411/1270915225

 インターネット以前の社会では、情報の流通は新聞や放送、雑誌・書籍とそれらに付随する広告を含めたマスメディアか、個人の周囲のコミュニティで流通する口コミかのいずれかでした。そうした時代、ジャーナリズムはほぼマスメディアが独占していたと言っていいでしょう。取材して記事を書き社会に発信する、という行為はマスメディアを通じるよりほかにはなく、新聞記者であれば「ジャーナリスト」を名乗っても何ら違和感はない時代だったかもしれません。
 今や社会環境は大きく変わりました。情報発信の多様化、多層化とともに、伝統的な新聞社などの営利企業メディアや、そこに所属する新聞記者など職業的(プロ)記者以外にも、ジャーナリズムと呼ぶにふさわしい情報発信の担い手は登場してきていますし、今後も増えてくるでしょう。相対的に、新聞記者の仕事ぶりもジャーナリズムと呼べるかどうか、批判と評価にさらされるようになってきたと感じます。
 今後の授業では、情報流通の環境の変化、メディア環境の変化に伴うジャーナリズムのありようを、ジャーナリストという「人」の側面から考えてみたいと思います。
 次回はまず、2年前に東京・秋葉原で起きた連続殺傷事件の現場で起こったことを元に「だれもが情報発信できる」こととジャーナリズムとのかかわりの意味を話そうと考えています。学生たちには、できれば前もってわたしのブログの過去エントリーを読んでおくように求めました。
※参考過去エントリー
 「『何が起きたか』を伝えるのは誰か〜秋葉原・無差別殺傷事件で思うこと」2008年6月11日
  http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20080611/1262043868
 文中で紹介しているブログ「筆不精者の雑彙」のエントリー「秋葉原通り魔事件 現場に居合わせた者の主観的記録」
  http://bokukoui.exblog.jp/8328490