「同僚市民」を伝え「歴史の第一稿」を報じる〜「英国式事件報道〜なぜ実名にこだわるのか」(澤康臣 文芸春秋)

 マスメディアの報道の実務でもっとも頭を悩ませるものの一つに「実名で報じるか、匿名とするか」の問題があります。運用上のルールは「原則は実名、ケースバイケースで匿名も」ですが、とりわけ事件事故の報道では、きれいに切り分けることが難しいケースが日常的にあります。
 現在わたしは職場では整理部門に身を置いており、取材・出稿部門が出稿する記事の最終チェックを担当しています。先日、刑事事件の裁判の判決で被告名を匿名で記載した記事が提稿されてきました。小学校の男性教諭が、教え子の女児に性的暴行を繰り返し加えていたとして起訴された事件です。判決は実刑判決理由で裁判官は、犯行の悪質さ、卑劣さを極めて厳しい表現で批判しました。性的暴行の被害者を匿名で報じるのはほぼルール化しています。社会的な2次被害防止のためです。しかし事件事故の加害者が、犯行時少年であるとか、明らかに責任能力に疑問があるなどの理由ではなく、しかも公開の場である裁判の、判決を伝える記事の中で匿名になるのは極めて異例です。
 聞けば地元の各メディアに、被告名を匿名で報じるよう被害女児サイドから強い申し入れがあったとのことでした。小学校教諭だった被告の名前が報じられれば地域社会の中で被害女児が特定されてしまうから、との理由です。被告名がない判決の記事がニュースに値するのかという議論もあります。出稿を見送ってボツにするという選択肢です。出稿部門の担当デスクとのやり取りを経て、教諭による子どもへの極めて悪質な性的犯罪が裁判で有罪認定を受けたこと自体は、わたしたちの社会で何が起きているのかを知る上で、伝えるに値するニュースだと判断し、被告名を匿名にして出稿しました。わたし自身、裁判報道も長く経験してきた中で初めてのケースでした。
 「そんなこと、被害女児の将来を考えるなら当たり前ではないか」と言われるかもしれません。わたし自身は「ボツにしないのならこの書き方も仕方がない」と思う半面、今も釈然としない気持ちも残っています。
 裁判は公開の場で行われます。その趣旨は、日本国憲法が「国民の権利及び義務」の中で刑事被告人の諸権利をも定めていることからも明らかで、だれであれ秘密のうちに身柄を拘束されたり、闇から闇のうちに社会から抹殺されることがあってはならない、ということだろうとわたしは理解しています。逮捕され、訴追され、裁判を受けているのはだれなのか、その「だれ」が原則として明らかにされていること自体は、本来は社会にとって利益です。「だれ」は社会で共有すべき情報であると言ってもいいでしょう。したがって、マスメディアが社会の公器であることを前提にするなら、刑事裁判の被告名を伏せて報じることは本来はあり得ないことです。マスメディアにとって判断の余地はないに等しいはずです。
 しかし、刑事裁判に限らず、現実にはそれでは済まないケースが少なからず出てくるようになりました。「当事者の意向」を無視できずに匿名で報じるケースが増えています。背景事情として明確にあるのは、個人情報保護法の施行を契機として進んでいる個人情報の過剰保護、匿名社会化でしょうし、そのしばらく前から顕在化していたメディア不信、メディア批判でしょう。個人情報保護法に限らず、浮かんでは消えている人権擁護法案など、法的なメディア規制、表現規制の動きは、メディアスクラムをはじめとするマスメディアの取材のありようの問題も密接に絡んでいます。「実名報道=人権侵害」との指摘に対して、実務的な判断として、あつれきを避けるには匿名で報じるのがもっとも楽なやり方であることは間違いがありません。実名か匿名かの問題は、メディアの人権意識と直結するのですが、そのことにここではこれ以上触れません(また機会をあらためて書きたいと思います)。
 実名か、匿名かの問題は、日常的に目の前にありますし、そう簡単にはすっぱりと割り切れません。そうしたわたしたちマスメディアの仕事のありようを考える上で、意義深い一冊が刊行されました。

英国式事件報道―なぜ実名にこだわるのか

英国式事件報道―なぜ実名にこだわるのか

 著者の澤康臣さんは記者経験20年。共同通信で社会部を経て現在はニューヨーク支局勤務です。わたしにとっては「マスメディアの企業内記者」という仕事の広い意味での同僚であり、個人的な畏友の一人でもあります。本書は、著者が2006年秋から2007年にかけて、英国オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所の客員研究員として英国に滞在し取材した英国マスメディアの事件報道のありようです。
 なぜ英国なのか。著者は「父と娘と容疑者―序に代えて」の中で、千葉県市川市英会話学校講師の英国人女性が殺害された事件を例に挙げながら、こう述べています。

 リンゼイ事件に限らず、イギリスの新聞は大半の人たちが名前を出して登場し、描写は生々しく手加減がない。日本では、実名や露骨な表現は削ってしまうのが「配慮」と受け取られることも多く、匿名の人物、ぼかした表現が非常に多いのと対照的だ。
 議会制民主主義の伝統が長いせいなのか、イギリスの人々は議論好きで政治や社会への関わりは積極的に見える。日本ほど治安は良くないが、警察官は一部の特殊任務を除けば今でも丸腰だ。死刑制度はとっくの昔に廃止されている。デモやストは日本人の目から見ればとても頻繁だし、イラク戦争に参加したことに対しては100万人もの集会をはじめ、大規模な反対運動が長く続いた。私の住んでいた大学都市オックスフォードでは昔懐かしい鎌トンカチの共産主義マークを掲げたグループが参加する反戦デモさえ数百人規模で実施され、かつて「鉄の女」として一世を風靡したサッチャー元首相はすっかり不人気。BBCの「サイダデリック」は反資本主義、反グローバリゼーションを闘うヘンテコな「革命的」グループがマクドナルドに抗議行動をしたり、合法に大麻を吸おうとオランダに出掛けてフラフラにラリってしまったりするドキュメンタリー風コメディで、それが賞をもらってDVD化される国である。つまり、ごくごく単純化したものの見方をすれば日本よりはリベラルな言説の居場所がかなり広い。
 その国で、この報道ぶりである。日本ではリベラルな言説は事件、事故報道に抑制を強く求めるのに。
 なぜ、こうも違うのか。大事件、大事故が起きるたびにマスコミが批判される「報道被害」や「メディアスクラム」はイギリスにあるのか、それをイギリスの記者はどう思っているのか。イギリスではこんな取材報道をしてももめないのか。逆に、良い取材報道はどういうものだと考えているのか。
 私がイギリスに来たのは、それを調べるためだった。ニュースの実像を見聞きし、ニュースの内側にある人々と出会い、そして言葉を交わすための旅である。

 第1章では「ニュースの中の人々」と題して、実際にイギリスのマスメディアが事件事故をどのように生々しく、手加減せずに報じているかを紹介しています。例に挙げている売春婦の連続殺人事件の報道は、なるほど日本ではちょっと考えられないような展開です。第2章「ニュースを書く人々」は、記事を社会に送り出している記者や編集者のインタビュー。第3章「ニュースと向き合う人々」は、報道被害の救済機関である「新聞出版苦情委員会(PCC)」、事件事故の一方の当事者である警察、そして犯罪の被害者のリポートです。日本のマスメディアで社会部記者として取材・報道の経験を積んできた著者の視線を借りて、イギリスの事件報道や報道関係者へのインタビューを追体験しているかのような、そんな感覚で読み進みました。
 そして終章の第4章「匿名社会と報道」にぎっしりと書き込まれた著者の「報道」への思いに、共感を覚えました。
 著者は帰国後、報道の実務に復帰して日本では匿名報道が進んでいると感じ、あらためてイギリスの報道について次のように書きます。

 イギリスの新聞の場合、世の中の場面を書く以上はすべて書くのであり、人間中心に書くのであり、それはすなわちその人を人として名前で記すというスタンスだった。捜査機関による立件に至ろうが至るまいが、重大犯罪であろうが単なるトラブルであろうが、ひどい悲劇であろうが驚くべき出来事であろうが、そんなことはイギリスのジャーナリズムには関係ない。
 ただ克明に記録しているのである。

 実名と匿名の問題を考えることは、「ニュースとは何か」を考えることでもあり、著者が「最も明快で感銘を受ける」として引用しているのは、ワシントン・ポスト社主だったフィリップ・グレアムの「ニュースは歴史の第一稿」という言葉です。そして著者は「関係者を守るためとはいえ、人名や企業・団体名など固有名詞を失った記録はどの程度『歴史の第一稿』たり得るのだろうか」と自問します。
 たとえば1936年の「阿部定」事件は今ならどんな報道になるか。さらには、1958年の小松川事件の李珍宇や、1960年の浅沼社会党委員長刺殺事件の山口二矢、1968年の連続ピストル射殺事件の永山則夫(死刑判断の「永山基準」で現在もしばしばその名前が報道されています)らについて、事件当時少年だったにもかかわらず、少年法が今ほど厳密には遵守されずに逮捕段階から実名で報じられたこと。だからこそ彼らの一人ひとりの生き方や背景、事件の悲劇を生みだした社会背景が論議になり、多くの出版物が刊行されたことは、社会にとっては共有財産になっていることを指摘します。そして著者は「報道によって傷つき失われるものはあまりにも大きい。どのような報道形態を取っても、いや少年の名前を伏せた程度では取材や報道が当事者に与えるインパクトをなくすことは決してなく、常に原罪のようにつきまとう」「そして、報道の価値は報道された当事者の苦しみとは全く関係のない文脈で存在している。『ニュースは歴史の第一稿』というフィリップ・グレアムの言葉はそのことを明確に言い表している」と述べます。暗黒社会を描いた近未来小説としてあまりにも有名なジョージ・オーウェルの「1984年」では、独裁者による歴史の書き換えとともに思想犯の逮捕が知らされない社会が描かれていることも指摘しています。
 一方で、日本の報道の現状の一例として著者が丁寧に紹介しているのは、田中真紀子氏の長女の離婚を報じた週刊文春が2004年、東京地裁から当該記事を削除しなければ販売を認めないとの事前差し止め命令を受けた事件です。結論としては、この命令は東京高裁で覆り紛争も収束したのですが、著者は「イギリスの新聞ならこの場合、結婚離婚の事実どころか長女の元夫も名前と写真を掲載しているだろう。それが何らかの理由で無理だとなると、じゃあくだらないから報道自体やめた方がいいとさえ言い出しそうなのがあの国のジャーナリストたちである」と書きます。そして「日本ではむしろ、ものごとを伝えるのに名前を明示しない方が普通であるかのような認識が広まりつつあるのではないか―と、現場にいて時々感じる」として、実際に実名で報道された当事者がメディアを訴えたほかの例も紹介しています。
 この終章はいくつかの項に分かれているのですが、最後の最後に付いている小見出しは「匿名社会と同僚市民」。「同僚市民」とは聞き慣れない用語ですが、「ニュースは歴史の第一稿」とともに、著者がたどり着いた結論がこの言葉に凝縮されているように感じます。
 著者は「匿名」について「報道に限ったことではなく、社会全体の心がけとも受け取れる。自分がどこで何をしているのか人から知られぬよう、自分もまた人に介入しないように」「『社会』という言葉は明治期に『ソサエティ』の翻訳語として作られた。『ソサエティ』はもともと人間同士の関わりのことである。だから福沢諭吉は当初『人間交際』という訳語を当てていた。今、『匿名社会』という自己矛盾に満ちた概念が生まれ、育とうとしている」と述べた後、この終章を次のように結んでいます。

 ニュースは人であり、人はみなそれぞれがこの社会の主人公である。ジャーナリズムはすぐれて民主主義的な価値で、主権者である私たちが主権者として行動するため欠かせない「知る」ということを提供している。王様や一握りのエリートが社会を動かし、市民は彼らにお任せにしてただついていくというのなら、大衆的な情報伝達は必要ない。その場合「取材される迷惑」「知られる苦痛」のほうがはるかに勝ることになろう。
 だが、民主主義のもとでは一人一人が考え、議論し、決めることを求められている。社会問題やトラブル、二度と起きてはならないような悲劇―大小どんな出来事でも社会の中で起きたことならば、一部の優秀なエリートが把握して対策を取るのではなく、できるだけ多くの人が知り、考え、みんなの意見を決める。そのやり方は痛みや非効率を伴うものであっても、それが民主主義である。民主主義の社会では一握りの人だけが主役になるのではなく、観客席とステージがつながっているかのように、どんな「私人」であっても誰もが意見を言い、意見を求められる。その中にあって記者は、つらい立場の人を気遣いながらも、声の小さい人や少数派である人ほどに多くの意見を言ってくれるよう促し、励ます存在でありたい。それも衝立の向こうではなく、こっちに来て話してくれませんかと。私たちの社会で生きる隣人、一人一人の人間としての同僚市民に心を寄せ、お互いの声を響かせ合うマス・コミュニケーションとなるために。

 一般的に、新聞記者が書く本や言説はよく言えば論旨が明快、悪く言えば独善的で「〜すべきである」と「上から目線」で断じ、異説には専ら攻撃的に反論するものが少なくないとの印象があるのですが、本書では随所に著者の迷いや当惑が率直に記されています。同業の同僚であるわたしにとっては、その点が本書の最大の価値でした。巻末には映画監督・作家の森達也さんが書かれた解説が収録されています。「ジャーナリストは自問自答し続ける。」とのタイトルが付いたこの小文も、著者と同業の同僚であるわたしには大きな価値です。