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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

「オフレコ取材」と「オフレコ破り」自体の報道が少ない~「約束は守るべき」の原則論だけで理解を得られるか

 一つ前の記事の関連です。
 荒井勝喜元首相秘書官の同性婚を巡る差別発言は、発言自体のひどさとは別に、マスメディアの政治報道の観点からは「オフレコ取材」のありようを考えさせる出来事でした。「オフレコ」とは「オフ・ザ・レコード」のこと。「記録にとどめない」の意味です。オフレコ取材とは、報道の際に発言者名は明らかにしない、あるいは発言そのものを報じないことを前提にした取材です。元秘書官の発言は「オフレコ破り」によって表面化しました。オフレコ取材に利点があるとしても、メディアと取材相手のブラックボックスの中でのやり取りです。「オフレコ破り」に対しては、「約束した以上は守るべきだ」との否定的な意見もありますが、インターネットの普及とともに、マスメディアの取材もソーシャルメディアを通じて可視化されることが珍しくない中で、従来からの原則論だけで報道の受け手である社会の人々の理解を得られるのかどうか。今回、オフレコ取材自体に焦点を当てた報道が少ないと感じました。気になる点です。

 手元の控えによると、元秘書官の発言を新聞各社が自社サイト上で速報したのは毎日新聞がもっとも早く2月3日22時57分。次いで産経新聞2月4日0時04分、読売新聞4日0時30分、朝日新聞4日0時50分、日経新聞4日1時04分でした。このほか目にした限りでは、共同通信は3日23時27分ごろに、加盟社向けに、元秘書官の氏名は伏せて速報しています(後に2度目の取材を経て実名に)。毎日新聞が真っ先に報じ、次いで通信社が速報。他紙が後に続いた、という経緯でした。
 元秘書官の取材はオフレコが前提だったとされます。毎日新聞は5日付朝刊に「本紙、重大性鑑み報道 オフレコ発言」の見出しの記事を掲載して、「オフレコ破り」の経緯を明らかにしています。それによると、オフレコ取材には報道各社の記者約10人が参加。現場にいた毎日新聞政治部の記者は、一連の発言を、首相官邸キャップを通じて政治部に報告しました。報道を決めた判断について、以下のように記しています。

 本社編成編集局で協議し、荒井氏の発言は同性婚制度の賛否にとどまらず、性的少数者を傷つける差別的な内容であり、岸田政権の中枢で政策立案に関わる首相秘書官がこうした人権意識を持っていることは重大な問題だと判断した。
 ただし、荒井氏を実名で報じることは、オフレコという取材対象と記者の約束を破ることになるため、毎日新聞は荒井氏に実名で報道する旨を事前に伝えたうえで、3日午後11時前に記事をニュースサイトに掲載した。これを受けて、荒井氏は3日深夜、再度、記者団の取材に応じ、発言を謝罪、撤回した。2回目の取材はオンレコで行われた。

 わたし自身は取材記者としては社会部と支局に身を置いたことしかなく、このような政治報道の分野のオフレコ取材を経験したことはありません。ただ、報道各社が合意している取材先との約束を真っ先に破って報じることには、相応の覚悟が必要だったろうと想像がつきます。発言の内容のあまりのひどさは、岸田首相が更迭せずには済まなかったということからも、客観的にも明らかです。首相秘書官という重責を負う官僚がそのような考えの持ち主であることは、社会で共有すべき重要な情報だと思います。オフレコ破りの先陣を切った毎日新聞の判断と覚悟は妥当だと考えます。
 しかし、今回のオフレコ破りには賛否両論があるようです。新聞や放送の業界内にも「オフレコの約束を受け入れた以上は何があっても守るべきだ」との原則的な考えを強調する意見があるのを目にします。なぜ原則的な考えを強調するのかと言えば、オフレコ破りによって政治家らのガードが固くなると、オフレコを前提にしていても、当たり障りのないことしか話さなくなる恐れがあり、そうなれば国民が得ることができる情報は減り、結果として国民が不利益を受けてしまう、ということのようです。
 オフレコ取材については、日本新聞協会が1996年2月に見解をまとめて公表しています。27年前の見解ですが、新聞業界で共有されている考え方だと言っていいと思います。そこでも、以下のようにオフレコの約束を守ることを「取材源の秘匿」や「記者の証言拒絶権」と同次元のものと位置づけています。記者の仕事の職業上の規範、倫理の一つとして扱っている、と言ってもいいかもしれません。

www.pressnet.or.jphttps://www.pressnet.or.jp/statement/report/960214_104.html

 オフレコ(オフ・ザ・レコード)は、ニュースソース(取材源)側と取材記者側が相互に確認し、納得したうえで、外部に漏らさないことなど、一定の条件のもとに情報の提供を受ける取材方法で、取材源を相手の承諾なしに明らかにしない「取材源の秘匿」、取材上知り得た秘密を保持する「記者の証言拒絶権」と同次元のものであり、その約束には破られてはならない道義的責任がある。

【写真】日本新聞協会の公式サイトに掲載されているオフレコ取材の見解

 ただ、以下のような一文も盛り込まれています。

 ただし、これは乱用されてはならず、ニュースソース側に不当な選択権を与え、国民の知る権利を制約・制限する結果を招く安易なオフレコ取材は厳に慎むべきである。

 「ニュースソース側に不当な選択権を与えてはならない」とも指摘しているわけです。不当な選択権を与えない、とは、何でもかんでも言われるままにオフレコを受けていいわけではない、ということだとすれば、発言の事後、オフレコ解除を通告して報道することも論理的には許容しているように思えます。ケースによる、ということなのかもしれません。

 オフレコ取材によって、実名が前提の取材では決して入手できない情報を知ることができ、結果として社会の人々の「知る権利」にとって利益になる、ということについては、わたしもそのこと自体はもっともだと思います。しかし、今、考えなければいけないことがもう一つあります。報道の受け手である社会の人々がマスメディアに向けている視線です。
 報道の内容の信頼性を担保し、ひいてはマスメディアの信頼性を高めるには、本来、情報の出所は明らかにするべきです。出所を秘匿するのは、それが明らかになれば当事者が不利益な扱いを受けたり、身に危険が及んだりする恐れが高い場合などです。どこから得た情報なのか、受け手に判断の材料が示されないのでは、受け手にしてみれば「とにかく信じろ」と上から目線で言われているのも同然です。社会のデジタル化が進み、マスメディアの取材もソーシャルメディアにさらされるようになっています。取材の可視化が進んでいるのに、情報の受け手の目が届かない場所でやり取りされるオフレコ取材を巡っては、「とにかく信じろ」との姿勢だけでは、情報の受け手に納得してもらえるか、疑問を感じます。
 新聞協会のオフレコを巡る見解にしても、新聞協会の公式サイトでは「記者クラブ」に関係する項目の一つとして掲載されています。記者クラブのありよう、とりわけその閉鎖性に対して様々に批判があることは、ここでわたしが説明するまでもありません。

【写真】日本新聞協会の公式サイトの目次

 この元秘書官の差別発言を巡る報道では、わたしの見る限りですが、オフレコ取材に焦点を当てた記事は多くはありませんでした。その中で朝日新聞が2月5日付朝刊に掲載した「『オフレコ取材』必要なら実名報道」との見出しの記事が目を引きました。一部を引用します。

 首相秘書官をはじめ政府高官らが官邸に出入りする際などに、記者団がオフレコ取材をする。取材した内容は、発言者を特定せず、記事で引用することがある。ただ、実名で報道する社会的意義が大きいと判断したときは、取材相手と交渉するなどして、オフレコを解除し、発言を報じる。

 朝日新聞の記者は2月3日夜、最初のオフレコ取材の場にはいなかったとのことです。だからこそ朝日新聞は書きやすいのかもしれませんが、「実名で報道する社会的意義が大きいと判断したときは、取材相手と交渉するなどして、オフレコを解除し、発言を報じる」と言い切っています。「とにかく信じろ」ではなく、「オフレコ取材であっても、必要な場合は書く」と公言したことの意味は小さくありません。実際に毎日新聞がオフレコ破りに踏み切ったこととともに、情報の受け手である社会の人々の信頼につながりうる姿勢だと感じます。取材手法、取材慣行に対して、それぞれのメディアが見解を明らかにすることは、信頼獲得の一助になるように思います。