西南戦争の激戦地・田原坂で考えた明治維新と日本の現代史

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 先日、熊本市を訪ねました。用件が終わり、東京へ戻る飛行機の便までの時間を利用して、明治期の西南戦争の激戦地である熊本市北部の田原坂を訪ねました。
 西南戦争の説明の一般的な例として、ここではウイキペディアを参照します。「西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)は、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、2018年現在日本国内で最後の内戦である」。
 ※ウイキペディア「西南戦争」

 1877年2月に始まった戦争は、鹿児島市の城山で西郷隆盛が死んだ同年9月24日に終わったとされます。この内戦は、明治新政府に対する不正士族の実力行使がことごとく抑え込まれた、その最後のケースでした。以後は旧士族の不満は自由民権運動の高まりへと向かいます。意思表明や要求の手段が暴力から言論へと変わっていった、と言えるかもしれません。
 戦場で実際に戦うのはだれか、という点から見れば、薩摩軍が先祖代々の武士(士族)中心であったのに対して、政府軍は武士出身の指揮官のほかは、徴兵された農民ら一般国民を中心にした兵で編成されていました。この国民皆兵の制度は1945年の第二次大戦の敗戦まで続きました。戦争が国民一人一人の生活や生命にも直接、大きな影響を及ぼしました。
 ことし2018年は明治150年です。明治維新から第2次大戦の敗戦まで77年、敗戦から現在まで73年です。わたしは1960年の生まれで、そのわたしたちの世代にとっては、敗戦は父母が少年少女だった時の出来事です。その父母の親、わたしたちの祖父母の世代からみれば、明治維新や西南戦争はその両親や祖父母が直接知る時代の出来事だったのでしょう。そんな風に考えてみると、時の流れが今日に連綿とつながっていることをあらためて思います。

 田原坂の戦闘のことを知ったのは、司馬遼太郎さんの長編小説「翔ぶがごとく」でした。読んだのは20年以上も前だったように記憶しています。西南戦争の緒戦は熊本城の攻防でした。薩摩軍の進攻に対し、熊本鎮台の政府軍は熊本城に籠城します。政府の救援部隊は北から来るため、薩摩軍は一部を熊本城の包囲に残して北上し、田原坂や周辺に防御陣地を築きました。西南戦争は大きく俯瞰すれば、薩摩軍が東京を目指して軍を進めようとした戦争でしたが、田原坂の戦闘は、熊本城救援を阻止するために薩摩軍が政府軍を迎え撃った局地戦でした。結局、薩摩軍は田原坂を守り切れず、熊本城を落とすこともできずに以後、九州の中を放浪するように移動し、最後は鹿児島に帰って全滅します。
 「翔ぶがごとく」で描かれた田原坂の戦闘の描写でよく覚えているのは、薩摩軍の刀による切り込みです。兵装の近代化は政府軍の方が進んでおり、小銃は薬きょうに入った弾を手元で込めて撃つタイプなのに対し、薩摩軍の小銃は銃身の先の銃口から火薬と弾丸を込める旧式で、雨が降ると使えませんでした。そんなときに薩摩兵は、坂道に沿って幾重にも掘った塹壕を飛び出し、抜いた刀を両手で振り上げ、独特の叫び声を挙げながら切りかかりました。薩摩藩独自の示現流は、一撃で相手を倒すことを目的とした実戦的な剣法で、子どものころから訓練された薩摩士族に対して、農民出身の政府軍の兵は太刀打ちできず、散り散りになって逃げるしかなかった―。確か、そんな描写だったと思います。

 田原坂は熊本市北区植木町(旧植木町)豊岡地区にあります。地図で見ると、熊本城から北北西に15キロ程度でしょうか。坂はふもとから南東方向に1キロ余り、標高差約60メートル。一の坂、二の坂、三の坂とあります。訪ねた日はあいにくの雨模様でしたが、明治10年3月、17昼夜に渡った田原坂の戦闘では7日間は雨やみぞれが続いたとのことで、往時に思いをはせながら、傘をさして徒歩で登ってみました。

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 坂の入り口は国道208号から「田原坂公園入口」の信号を入ってすぐ。JR鹿児島線の木葉駅から1キロほどでしょうか。川に石造りのアーチ橋「豊岡眼鏡橋」がかかっており、旧植木町教育員会の案内板によると、政府軍はこの一帯を田原坂攻撃部隊の出撃拠点にしていたとのことです。
 坂へと続く側道に入って間もなく一の坂に。結構な傾斜を感じました。当時と今では様子が変わっているのかもしれませんが、切り通しで道の両側は壁状になっており、竹や木に覆われたところは晴れの日でも薄暗いのではないかと思います。この林の中から刀を振り上げた薩摩兵が奇声とともに飛びかかってきたのかと思うと、政府軍の農民兵が味わっただろう恐怖が少しだけ分かったような気がしました。

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 当時は未舗装だったものの道幅は4メートルほどあったというので、今も戦争当時の雰囲気は残っているのかもしれません。大砲などの大型の武器や資材を熊本城まで運べる道はこの田原坂だけで、政府軍は熊本城救援のために、ここを通るしかなく、従って薩摩軍も救援を阻むために防衛線を設定したという、戦略上の要衝だったようです。一の坂を登りきると、あとは二の坂、三の坂とも緩やかで、歩くのにさほどの苦労はありませんでした。ところどころにミカン畑が広がるのどかな風景が続き、やがて田原坂公園に着きました。眼鏡橋からゆっくり歩いても30分かかりませんでした。

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 田原坂公園には「熊本市田原坂西南戦争資料館」があります。入館料は大人300円。充実した展示で、じっくりと見て回りました。

 ※資料館のサイト
 http://www.city.kumamoto.jp/hpkiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=16402

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 館内の一角には、陣地を再現したジオラマがあり、暗闇の中で戦闘シーンをリアルに再現した映像が、砲弾の着弾音や小銃の発砲音とともに流れていました。両軍の服装や食事の内容まで再現した展示もありました。

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 一帯では当時の小銃弾が今でも見つかるそうで、資料館にも両軍が撃った実際の銃弾や、砲弾の破片が展示されていました。砲弾は政府軍が薩摩軍の陣地に向けて盛んに撃ちこんだとのことです。手に取ることはできませんでしたが、恐らくはずっしりと重い鉄の破片が、高速で回転しながら着弾点周辺に飛び散ったはずです。死をすぐそばに感じながら薩摩兵も必死で恐怖に耐えていたのではないかと思います。

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 明治150年の特別企画として「会津と熊本 会津戦争 そして熊本戦争」の展示がありました。戊辰戦争で会津藩は政府軍の攻撃を受け降伏し、生き残った藩士も青森・斗南に移封され辛酸をなめました。その9年後に西南戦争が勃発しました。「戊辰戦争は明治維新の開始を、西南戦争はその終わりを告げた戦いでした。明治維新は戦争に始まり、戦争に終わった激動の時間だったともいえます。多くの悲劇を生み大きな犠牲を払ったこれらの内戦は、ともに明治国家が近代化という大海に漕ぎ出す号砲となったのです」との解説が展示の冒頭にありました。
 一般にどこまで知られているのか分かりませんが、西南戦争では政府軍に士族である警察官からなる部隊も加わっていました。薩摩軍の刀による切り込みに対抗するため、政府軍は警視庁の部隊の中から特に剣術の上級者で「警視抜刀隊」を編成し、刀を持たせて戦場に送り込みます。このため西南戦争は、双方が日本刀で切り合った最後の戦争という側面もあるようです。

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 この抜刀隊には旧会津藩士も多く含まれていたことを、展示では具体的な個人名も挙げて詳しく解説していました。熊本県内に埋葬された警視隊の死者数を出身地域別に並べた表もあり、それによると最多は鹿児島の80人、続いて東京63人の順。3位が福島の46人で、4位の地元熊本の23人の倍となっています。
 旧会津藩士が会津戦争の復讐のために抜刀隊に志願したという逸話はよく耳にしますが、展示によると、後に総理大臣となり五・一五事件で暗殺される犬養毅が従軍記者として、抜刀隊の会津士族が「戊辰の復讐」と叫び、傷を負いながらも奮戦したことを記事で伝えているとのことです。

 薩摩軍には少年も少なくなかったとのことです。田原坂のことを下調べする中で、熊本県に「田原坂」という民謡があり、「雨は降る降るじんばは濡れる こすにこされぬ田原坂」(「じんば」は「人馬」「陣羽」の二通りあるようです)に続いて「右手に血刀 左手に手綱 馬上ゆたかな美少年」とうたわれていることを知りました。このことにちなんでか、資料館にはアニメ風の美少年のイメージキャラクター「山口雄吾」がいました。

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 資料館が2015年から毎年発行している年刊「田原坂」の表紙も美少年キャラクターです。若い世代の歴史への関心が高まるとすれば、こういった試みも悪くはないと思います。年刊「田原坂」は各号とも表紙、裏表紙を含めて8ページとコンパクトですが、各号のテーマに即して資料館の収蔵資料を組み合わせて西南戦争と田原坂の戦いを解説しており、とても密度の濃い内容です。資料館で無料で配布していました。

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 田原坂公園にはほかに、おびただしい銃弾を受けた「弾痕の家」が復元されているほか、西南戦争の薩摩軍、政府軍の犠牲者計約1万4千人の慰霊塔も建っています。季節には桜やツツジが咲き誇る静かな公園として整備され、わたしが訪ねた際にはモミジが赤く色づいていました。その中でひときわ目を引く巨大なクスノキがあります。根元には、馬にまたがり右手の刀を前方にかざす少年の像。台座には民謡「田原坂」の歌詞が刻まれています。傾斜地での戦闘、しかも小銃弾や砲弾が飛び交う戦場を、刀を手に本当に少年兵が馬で駆け抜けたとは考えにくいのですが、ではなぜこういう歌詞が残っているのでしょうか。

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 以下はネットであれこれ調べていて、たまたま目にした郷土史家の講演録と思われる文書に記載があったことです。民謡「田原坂」が成立したのは昭和になってから。この戦いを生き延びた人たちが往時を振りかえり、いつしか酒席の場で口にするようになったのが始まりだろう。おそらく、景気がよくなった日露戦争のころから。「美少年」は若かった自分たちのこと。イケメンだったかどうかは関係なく、「あの頃は自分も若かった。よく戦った」との思いが込められた表現だったのではないか。西南戦争は小銃弾が1日に32万発とか34万発も飛び交った近代戦で、そうした中を馬で疾走すればたちまちハチの巣になる。「馬上豊かな美少年」は元武士らしい美意識の比ゆ的な表現ではないか。また「じんばは濡れる」の「じんば」も「人馬」や「陣羽」ではなく、当初は「陣場」だった。薩摩軍は塹壕の陣地を築いており、雨によって陣地内は水浸し。ぬかるみでわらじの緒も切れ、木綿の衣服は重くなる。雨で大変だったなあ、との経験者ならではの述懐が込められている―。以上のようなことです。なるほどと思いました。この講演録は直接引用して紹介したいのですが、いつ、どのような場での講演なのか、この郷土史家がどのような方なのかがまったく分からないので、ここではこの程度の紹介にとどめます。

 いずれにせよ、この田原坂の地では薩摩軍、政府軍ともあまたの若者が命を落としました。薩摩軍の西郷隆盛も死亡時49歳。戦争終結の翌年に暗殺された政府中枢の大久保利通も47年の生涯でした。2人とも今日の感覚で言えば早い死です。あまりにも多くの命が奪われました。しかも若い命が。それが明治維新の一つの側面です。
 西南戦争をもって内戦は終結しましたが、以後の日本は日清、日露の両戦争、台湾、朝鮮半島の植民地支配、そして中国との戦争、太平洋戦争へと突き進みます。戦場で殺し、殺された日本兵は平時なら社会で生活を営む一般の国民でした。戦場となった地域の住民にもおびただしい被害が出ました。今日の価値観で当時のことの当否を論じるには慎重さが必要だと思いますが、重要なのは歴史から何を学び取るのかだろうと思います。今は、一般の国民が徴兵されて戦場に送られることはありません。このこと一つとっても守り続けなければいけないことだと思います。そして、戦争となれば民は被害者でもあり、加害者になることもある。だから戦争は絶対悪であるということを忘れてはいけない―。田原坂の地を歩きながら、そんなことをあらためて考えました。

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