本年もよろしくお願いいたします〜「大大阪」の繁栄があった地で

 新しい年、2012年を迎えました。昨年はこのブログに多くの方にご訪問をいただき、ありがとうございました。

 昨年3月11日、東日本大震災東京電力福島第一原子力発電所事故が起きました。わたしはその直前の2月、勤務先の人事異動に伴い、20年ほど住み続けていた東京を離れ、家族とともに大阪に転居していました。関西では被害と言うほどの被害はありませんでした。しかし、原発事故一つをとっても、「ありえない」とされていた深刻な事態が現実のものになっていました。関連の取材や出稿に関わりながら「どうやらわたしたちの社会は3月11日以前とは全く異なった位相に移ったのだ」と、慣れない土地で日々を過ごしながら感じていました。
 昨年の5月、日帰りでしたが大震災後、初めての上京の機会がありました。煌々と明るかった東京の盛り場の夜は、節電のためにすっかり様変わりしていました。ビルの中も、電車の車内も照明を落としている中で、同僚たちは「慣れればどうということはない」「今までが明るすぎたのかも」と話していましたが、もう東京の街はわたしの知っている東京ではなくなったように感じました。「わたし」という個人の位相も、もう後には戻れない、以前いた場所はもはや同じ場所ではないことを知りました。

 ほぼ同じ時期に、大阪で暮らしながら知ったことの一つに「大大阪(だいおおさか)」という呼び方があります。大阪市は1925(大正14)年4月1日、市域拡張によって人口が200万人を超え、東京をしのいで世界6位の大都市になりました。関東大震災はその2年前の1923年9月。東京から大阪への住民の移住や企業の移転も相次いでいました。以後、昭和初期にかけて大阪は黄金時代=「大大阪」時代を迎え、産業、文化、芸術の中心として繁栄を謳歌したと語り継がれています。
 これも大阪に来るまではよく知らなかったのですが、現在の大阪城天守閣が完成したのは1931(昭和6)年、「大大阪」の時代でした。当時の市当局が主導したプロジェクトだったようですが、費用は市民の寄付だったという点に、市民の気質、協同で何かをつくっていこうとした心根の優しさと強さのようなものを感じます。それだけ民情にも余裕があったということなのかとも思います。
※参考:ウイキペディア「大大阪時代」
 昨年11月の大阪府知事大阪市長のダブル選挙で、地域政党大阪維新の会」を率いる橋下徹氏が市長に、維新の会幹事長の松井一郎氏が知事に当選しました。圧勝と呼んでいい勝ちっぷりでした。掲げた公約の中心は、大阪市堺市を解体し、大阪府とともに再編する「大阪都」構想です。わたしは、橋下氏が訴える都市間競争や国際競争の壮大な枠組みはともかく、橋下氏の構想通りに統治機構を組み替えた先に「民」の生活がどうなるのか、将来像は何ら見えてはいないと感じています。
 東日本大震災の「復興」は被災地だけの問題ではあるはずもなく、社会全体で共有すべき課題です。片や「大阪を変え、大阪から日本を変えていく」と主張する橋下氏が主導する大阪の動向は、大阪という一つの地域にとどまらず、社会のさまざまなところに影響を及ぼしそうです。大阪のマスメディアにとって、ことしを通じての最重要の取材テーマです。そこに身を置くわたしにとっても、大震災と原発事故以来、やはり以前とは異なった位相に移ったはずのマスメディアのありようを考える上で、大きな考察テーマに位置付けたいと思います。

 相も変わらずのつたない文章ですが、引き続きコツコツと書いていくつもりです。本年もよろしくお願いいたします。

大大阪モダン建築 輝きの原点。大阪モダンストリートを歩く。

大大阪モダン建築 輝きの原点。大阪モダンストリートを歩く。

 昨年、映画が話題になった「プリンセス・トヨトミ」の原作者、万城目学さんが文庫本のあとがきで推薦しているのを読んで買い求めました。大阪市役所の裏手にある大阪府中之島図書館、大阪市中央公会堂、市役所の向かいの日本銀行大阪支店、北浜の大阪証券取引所など、現在の大阪にも「大大阪」時代を経た数々の近代建築物が残っています。通勤の途次、これらの建物をめぐり歩きながら、往時の大阪に思いをめぐらし、これからを考える日もあります。大阪の街歩きにお奨めの一冊です。