あの日のこと~「東日本大震災10年」なのか「発生から10年」なのか

 東日本大震災と東京電力福島第1原子力発電所事故は3月11日、発生から10年がたちました。だれもが、あの日のことは鮮明に覚えているのではないでしょうか。

 わたしは勤務先の通信社の人事異動で、東京の本社から大阪支社に整理部長として着任して10日ほどでした。新聞社の整理部は記事に見出しを付け紙面を組み上げる、いわば新聞制作の心臓部ですが、通信社は自前の紙面を持ちません。出稿部門が事前に上げてくるその日の出稿メニューを点検し、記事をチェックして配信にゴーサインを出すセクションです。勤務先の通信社の大阪支社は、全国紙の大阪本社とほぼ重なり合うエリア、近畿、中国、四国を担当します。わたしはその整理部門、記事配信の責任者でした。
 その日、遅めの出前の昼食を済ませ、午後3時から東京本社とオンラインで行われる編集会議に備えて、支社からの出稿予定を再度、点検していました。午後2時46分、最初に異変を告げたのは、付けっぱなしにしていたテレビのNHKだったように思います。東北で強い地震との速報が流れました。あるいは、その後何度も目にし、耳にすることになる緊急地震速報だったかもしれませんが、記憶がはっきりしません。支社内が騒然とする中で、大きな揺れが来ました。ゆっくりと、横揺れにゆっさゆっさと揺れたのを覚えています。編集会議は中止。仙台支社や東京本社からの速報の音声がけたたましく流れる中で、やがてNHKが映し始めた津波の様子を、息を呑んで見つめていました。

 大震災取材の初動の期間、大阪支社の主な役割は後方支援でした。支社や管内の支局から応援の記者が東北の現地に向かいました。現地から戻った記者も、次の現地入りに備えていました。大阪支社の整理部では、本社の整理部門の負担を減らすため、ふだんは本社が行っている記事配信業務の一部を引き受けていました。来る日も来る日もわたしは大阪にいて、自分の持ち場で自分の仕事に取り組んでいました。福島第1原発の原子炉建屋が爆発する映像は、傍らのテレビで目にしました。
 正直に言えば、マスメディアに身を置きながら、この未曽有の大災害の取材と報道に加わっているとの実感は持てませんでした。ジャーナリズムを仕事にしながら、被災地や被災者の支援に連なることができていないように感じ、そのことに負い目、引け目のような感情を覚えたこともありました。しかし組織ジャーナリズムとはそういうものです。だれもが最前線で取材するわけではありません。むしろ、最前線の取材を支える態勢が整っていなければ、取材活動にしても記事や写真の出稿にしても、続くものではありません。社会に届かなければ、取材も報道も意味はありません。

 その後、大阪支社で3年間を過ごした後、東京本社に戻って記事審査を担当しました。出稿のメニューは十分だったか、足りない要素はなかったか、同じテーマの他社の記事と比べて見劣りはなかったか、などを毎日点検します。そうやって、次の取材に教訓を生かせれば報道の質は上がります。大震災と原発事故の発生当初、現場から離れた場所にいたことは、この記事審査の仕事には役に立つことがあったように思います。被災地から離れた場所にいて、何か自分にできる復興の支援はないかと思いながら、報道を見ている人たちがいます。そうした人たちの目線に立つことができるように思いました。

 東京発行の新聞各紙(朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、日経新聞、産経新聞、東京新聞)は3月11日付朝刊で、いずれも多くの関連記事を載せました。以下に、各紙の1面トップ記事のリード部分を書きとめておきます。被災地の復興はいまだならず、福島第1原発の廃炉は一体どれだけの時間がかかるか分かりません。10年目の当日の朝、その現状をどんな風にとらえ伝えようとしたのか、各紙なりの違いが読み取れるのではないかと思います。
 注目していたのは書き出しです。「東日本大震災から10年」なのか「東日本大震災の発生から10年」なのか。この未曽有の災害はいまだ続いています。被災者と被災地のことを忘れないためには、どんな表現がいいのか。細かいようですが、そんなことも考えています。
 最後になりましたが、犠牲になった方々に、あらためて哀悼の意を表します。

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▼朝日新聞
「東日本大震災10年」

 死者・行方不明者、関連死を含め2万2192人が犠牲になった東日本大震災から、11日で10年を迎える。避難生活を送る人はなお4万人を超え、福島県では帰還困難区域の大半で解除の見通しが立たない。被災地は、インフラ整備が終わった後、持続可能な地域社会をどうつくるのかという課題と向き合いつつある。

▼毎日新聞
「10年 戻らぬ暮らし」

 死者・行方不明者2万2200人に上る戦後最大の自然災害となった東日本大震災は11日、10年の節目を迎えた。津波に襲われた岩手、宮城両県の沿岸部には災害に強い新たなまちが生まれた。福島県では東京電力福島第1原発事故による避難指示の解除が進んだが、帰還できない土地が残る。

▼読売新聞
「津波被災地インフラ膨張」

 2万2000人を超す死者・行方不明者を出した東日本大震災から11日で10年となる。津波で被災した岩手、宮城、福島3県で行われた高台への集団移転は計約1万2500戸が対象となる大事業となった。しかし、宅地開発に伴って、インフラの新設を余儀なくされ、上下水道と道路の維持管理費は震災前より年間131億円(50%)増えた。人口減少が続く被災地では、費用の捻出が課題となる。

▼日経新聞
「被災地 自律回復探る」

 東日本大震災の発生から11日で丸10年となった。道路や住宅など生活インフラの整備はおおむね完了し、政府による大規模な公共投資は一段落する。この先は原子力発電所事故に見舞われた福島の再生、雇用を増やす企業の振興などが課題となる。新型コロナウイルス感染拡大の影響も残る中、被災地経済は自律的な回復を探る段階に入る。

▼産経新聞
「あなたに、伝えたい」

 東日本大震災は11日、発生から10年を迎えた。津波による大きな被害があった岩手、宮城、福島3県を中心に死者、行方不明、震災関連死は計約2万2千人に上る。新型コロナウイルスの影響で昨年は開催が見送られた政府の追悼式は11日、東京都内で行われ、被災地でも発生時刻の午後2時46分に合わせ、鎮魂の祈りが捧げられる。

▼東京新聞
「悲しみの水脈から森を育てる」

 二〇一一年三月十一日の東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から十年。こういう時に「節目」という言葉が使われることがある。一区切りという意味が含まれる。連載「ふくしまの10年」で福島の人々の取材を続けてきて「区切り」はついていないと感じる。