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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

津波で100人が犠牲になった40年前の「日本海中部地震」~新人記者の記憶と災害報道の役割

 40年前の1983(昭和58)年5月26日午前11時59分、秋田県沖の日本海を震源とするマグニチュード7.7の地震が発生しました。秋田県と青森県で震度5を観測。直後から日本海岸に津波が押し寄せました。気象庁の記録によると104人が犠牲になり、うち100人(秋田県79人、青森県17人、北海道4人)が津波による死者でした。「日本海中部地震」と呼ばれます。当時、「日本海側では津波はこない」との漠然とした風説がありました。強い揺れの後も海岸で釣りを続けて避難が遅れた人たちがいました。山あいから遠足に来て、海岸で弁当を広げていた秋田県の小学生たちが犠牲になりました。
 2011年3月11日の東日本大震災で、津波の脅威は広く知られるようになりましたが、「災害は忘れたころにやってくる」との格言があります。「日本海側でも津波はある」。記憶と記録の継承が必要だろうと思います。
 動画サイト「ユーチューブ」に、押し寄せる津波や岸に打ち上げられた船など、日本海中部地震の津波被害を記録した映像がアップされているのを知りました。

※47news・共同通信「40年前の津波、克明に記録 日本海中部地震、映像公開」=2023年5月24日
https://www.47news.jp/9362636.html

 当時は同県男鹿市の中学教諭で、現在は県内の大潟村干拓博物館で館長を務める船木信一さん(64)が撮影した。「日本海側にも津波は来る。災害への警鐘を鳴らしたい」と2020年5月に公開した約6分間の映像。
 地震は83年5月26日昼に発生した。授業中だった船木さんは突然大きな揺れを感じ、すぐに生徒をグラウンドに避難させた。グラウンド横の崖から下の日本海を見ると、大きな波が次々と押し寄せていた。
 多くの犠牲者が出たことを知り、撮影を後ろめたく感じたこともあった。しかし津波の恐ろしさ、避難の大切さを伝えることが大事だと思い、その後も生徒らに映像を見せた。

 その映像は以下で見られます。
 https://www.youtube.com/watch?v=wA07BaY9rlA

www.youtube.com

 仙台市に本社を置く河北新報社が、デジタル版の「河北新報ONLINE」上で、40年前の紙面と記事を紹介する無料コンテンツを、5月22日から公開しているのが目にとまりました。

「津波で100人犠牲の「日本海中部地震」、知っていますか? 40年前の河北新報が伝えた5月26日」
 https://kahoku.news/articles/20230517khn000021.html

 担当記者(編集局コンテンツセンター・三浦夏子さん)は最後に以下のように書いています。

 今年3月まで赴任していた秋田総局では、日本海中部地震に関する取材をしましたが、風化を強く感じました。「日本海側は災害少ないから」「日本海には津波が来ないから」。秋田県内で何度か耳にした言葉は、40年前の紙面に掲載されていた「俗説」と似ていると思います。
 5月5日に石川県珠洲市で震度6強の地震が発生するなど日本ではどこに住んでいても災害のリスクはついて回ります。26日を前にいま一度、防災グッズを確認するなど災害への備えを考えてみませんか?

 デジタルの時代にあっても、被災地の新聞社ならではのアーカイブを生かす意義のある取り組みだと思いました。

 40年前のこの日、わたしは青森市の中心部にある勤務先の青森支局にいました。その年の春、東京の大学を卒業して通信社に記者職で入社しました。本社での研修を終えて、初任地である青森に配属されたのは10日前の5月16日付でした。以下に、当日のわたし自身のことを、記憶を元に書いてみます。スマホ、インターネットはもちろんのこと、携帯電話もなく、ポケットベルすら珍しかった“アナログの時代”に、新聞記者はどんな風に働いていたのか、そんな記録としても残しておきたいと思います。

 日課であるお昼の地元民放テレビ局のニュースをチェックし、チャンネルをNHKに切り替えてほどなく、揺れが来ました。部屋中がゆっさゆっさと揺れ、座っていたソファにしがみついているのが精いっぱい。窓越しに、交差点の向かいにある農協のビルがたわむように揺れているのが見えました。割れた窓ガラスがバラバラと歩道に落ちていました。
 青森市内の揺れは「震度4」でした。秋田市内のほか、青森県では西海岸の深浦町がこの地震の最大震度の「震度5」でした。当時は現在と震度の測定、表記が異なっていました。あの「震度4」は、今なら「震度5弱」か「震度5強」に相当するのではないかと思います。いずれにしても、わたしがそれまで経験したことがない大きな揺れでした。「怖い」というより、驚いた、ただただびっくりしたことを覚えています。
 揺れが収まると、すぐにカメラを手に支局を飛び出し、農協のビルに行ってみました。どんな写真を撮ったか覚えていません。当時はモノクロのフィルムカメラ。撮影後は記者が暗室にこもり、自分で現像の作業をしていました。新聞紙面も写真はモノクロだけ。カラー印刷が普及してくるのは数年後だったと思います。職員がビルから避難していました。けが人はいないようでした。
 支局に5人いる記者のうち、2人は出張中で青森を離れていたと記憶しています。先輩記者1人が無線機を持って、県警本部に張り付きました。県内の警察署から、次々に被災情報が県警本部に入ります。それを支局に連絡するのに、電話がつながりにくい時には無線機が威力を発揮します。先輩が読み込んでくる情報を別の先輩が聞き取り、仙台の支社に専用回線で吹き込んでいました。原稿用紙に書き取って、ファクスで送っていたかもしれません。そうやって、秋田支局や青森支局が集めた情報、さらには東京本社の社会部や政治部が取材する気象庁や政府からの情報が、次々に速報として流れて行きました。
 わたしはと言えば、支局にいる先輩から「いちばん被害が出ていそうな現場に行ってもらうから、そのつもりでいて」と、待機を言い渡されていました。なぜ「すぐに現場に行け」とならないのか、よく分かりませんでした。新人記者であっても、青森県内に3人しかいない貴重な取材力の1人です。やみくもに現場に行かせればいいというものではない、ということが、今は分かります。安全を確保できるか、可能な限りの情報を集めて判断する必要もありました。
 津軽半島の西側に、日本海に面した十三湖という湖があります。地元ではシジミの産地で知られます。その一帯で、釣り人が何人か津波にのまれ行方不明になっていることが分かってきました。地上は車での移動が可能なようでした。タクシーを支局に呼んで、十三湖に向けて出発しました。地震の発生から2時間ぐらい後のことだったように思います。もう少し早かったかもしれません。
 初めての土地に赴任して10日。本当に右も左も分かりませんでした。自分で向かった、というよりは、タクシーに連れて行ってもらった十三湖の海岸は、不明者を捜索する警察や消防関係者にメディアの取材も入り交じって、騒然としていました。沖では捜索の漁船が行き交い、陸上自衛隊のヘリが上空から不明者を捜しているのも見えました。NHKの中継車は、隣県の岩手のナンバーでした。
 まず、現場到着の連絡を入れなければなりません。近くの住宅で頼み込んで、電話を借りました。当時、企業のオフィスではボタンを押すプッシュホンも見かけていましたが、一般の家庭ではダイヤルをジーコ、ジーコと回す黒電話がまだ一般的でした。
 青森支局に電話して、とりあえず、見たままを伝えました。本社での研修では、事件や事故の現場ではいちいち原稿用紙に記事を書いている余裕はないこと、目にしたこと、耳にしたこと、五感で感じたことを頭の中で記事に組み立て、その場で電話で読み込めるようになれ、と教えられていました。経験を積んだ記者なら可能です。歌舞伎の「安宅」の有名な場面、弁慶がまったく別の巻物を、さも勧進帳であるかのように朗々と読むシーンになぞらえて、「勧進帳」と呼ばれるスキルです。「じゃあ、『勧進帳』で50行読み込みます」というように使われます。電話の向こうで別の記者が原稿用紙に書き取ります。経験値ゼロの新人記者にはとてもできない芸当でした。その後は仙台支社に直接、連絡を入れるように、との指示を受けて、いったん電話を切りました。電話代として、10円玉を何枚か置いてお礼を言い、その家を出ました。
 40年前のことで、どういう経緯だったか記憶がはっきりしないのですが、釣りをしていて津波にのまれたものの九死に一生を得た男性がいる、との話を聞き込みました。猪突猛進でした。「ニュースだ」と思い、どうやったかは覚えていないのですが、自宅に戻っていたその男性を捜し当てました。十三湖がある村の隣り村でした。
 手元のスクラップブックに当時の掲載記事があります。35歳のタクシー運転手の方でした。快く取材に応じてくれました。津軽弁がまったく分からない私に合わせてくれたのでしょう。言葉が聞き取れなかった、分からなかったという記憶はありません。仕事は休みで朝から釣りをしていたこと、激しい揺れを感じたが、この辺り(日本海側)では津波はないと思い込んでいたこと、周囲の釣り人と「津波が怖くて釣りができるか」と笑いながら話していたこと。やがて、沖合から波が迫ってくるのが見え、あっという間に足を波にすくわれ、ひっくり返るようにのまれたこと、クーラーボックスにつかまることができ、救助されたこと-。男性から聞いた話は、ひとつながりの映像のように、記憶に残っています。
 取材を終えた時には、もう暗くなっていました。電話を借りて仙台支社に連絡を入れました。迫真の証言が聞けた、と気持ちが高ぶっていました。わたしが聞いた話は、十三湖の様子をまとめた記事の中に15行ほど盛り込まれ、配信されました。

 「突然遠くの海がグンと盛り上がった感じで、あっという間に水位が上がり、逃げる暇もなく流された」と恐怖の一瞬を振り返る。

 (中略)「仲間と一緒に流されたとき、とっさに釣り用のクーラーボックスをつかんだ。クーラーが浮き袋になって助かった。漂流中に近くでおぼれている仲間の姿も見えたがどうすることもできなかった」

 わたしが吹き込んだ内容を、仙台支社の先輩記者が読めるような文章にまとめてくれたのだと思います。多くの新聞に掲載されました。
 仙台支社からは、十三湖に支社から応援の記者が3人向かったので合流するように指示がありました。先輩たちと落ち合ったのは夜遅くだったと記憶しています。宿は弘前に次ぐ津軽の中心都市の五所川原に確保できました。幸い、陸上では都市機能は失われていませんでした。五所川原の街で先輩たちと夜食のような夕食を取ったことをぼんやりと覚えています。昼食は食べていなかったはずですが、空腹感を覚えた記憶はありません。無我夢中だったのだろうと思います。翌日早朝、十三湖に戻って、先輩たちの指示を受けながら取材を続けました。

 青森支局で4年を過ごし、埼玉の支局で3年の勤務を終えた後は東京本社の社会部に長く在籍しました。大きな地震や災害では、支社局の記者だけでなく社会部からも記者が現場に行きます。
 1995年1月の阪神淡路大震災の時も、社会部に在籍していました。本社から同僚が次々に交代で神戸に取材に向かいましたが、わたしは東京の持ち場に居残りでした。この年は3月に地下鉄サリン事件があり、オウム真理教に捜査のメスが入りました。山梨県上九一色村(当時)の教団施設(「サティアン」と呼ばれていました)にも記者が張り付きましたが、やはりわたしは居残りでした。
 東日本大震災は、大阪支社に管理職で着任したばかりでした。現場で取材するのではなく、記事の配信をマネジメントするのが仕事でした。マスメディアの組織ジャーナリズムを仕事にして40年になりますが、大きな自然災害での現場取材の経験は、この新人時代の日本海中部地震だけです。現場取材の経験が乏しいまま、現役記者の時間を終えたことに引け目がないわけではありませんが、それも巡り合わせだと思っています。
 それでも、こうやって当時のことを思い返してみると、あらためて「災害は忘れたころにやってくる」という格言の意味が分かります。日本海側では津波はないと思い込んでいたこと、「津波が怖くて釣りができるか」と笑っていたこと、などの証言は、あれから時間がたった今こそ、意味があるようにも思います。
 災害の経験と教訓は風化させてはいけない、社会で継承していかなければなりません。それが次の災害で命を救うことにつながります。マスメディアの災害報道にはその役割と責任があります。40年前の災害を今の視点で報じることにも、大きな意義があります。