「平和主義者は愛国心が欠けている」ナチス・ゲーリングの警句と「だまされる罪」

 日本の敗戦で第2次世界大戦が終結してから71年のことし8月15日。東京発行の新聞各紙夕刊のうち、朝日新聞毎日新聞東京新聞は1面トップに政府主催の全国戦没者追悼式を置きましたが、読売新聞はリオデジャネイロ五輪のテニス男子シングルスで、錦織圭選手が銅メダルを獲得したことがトップで、戦没者追悼式はその隣の準トップの扱いでした。朝日新聞毎日新聞によると、追悼式で天皇は昨年に続き「深い反省」との言葉を述べた一方で、安倍晋三首相は不戦の決意を強調したものの、アジア諸国への加害や謝罪は、昨年に続き口にしませんでした。
 折しも、8月に入って沖縄県尖閣諸島周辺で、中国当局の船や中国の漁船の動きが活発化しています。領海侵入もありました。北朝鮮はミサイル発射を繰り返し、核実験もやめようとしません。また、安全保障法に基づく自衛隊の活動の拡大が実施段階を迎えようとしています。自衛隊が海外で武器を行使する事態が現実のものになるかもしれません。日本社会に目を向ければ、ヘイトスピーチは対策法はできたものの、今なお様々な差別感情がむき出しのまま存在しているように思います。神奈川県相模原市では、知的障害者施設が襲われ19人が殺害されました。元施設職員の容疑者は、ナチス・ドイツばりの優生思想を供述していると報じられています。
 そんな中で戦後71年の日を迎えて、あらためて二つの警句が頭に浮かびます。今年の年初に当たってこのブログでも紹介しましたが、ナチス・ドイツの大立者の一人であるヘルマン・ゲーリングが遺した「国民はつねに、指導者のいいなりになるよう仕向けられる」との言葉と、戦前に活躍した映画監督、脚本家の伊丹万作の「だまされることの罪」です。繰り返しになりますが、あらためて紹介します。
 ※参考過去記事
 「ヘルマン・ゲーリングの言葉と伊丹万作の警句『だまされることの罪』〜今年1年、希望を見失わないために」=2016年1月1日
 http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20160101/1451575528

 ゲーリングは第1次大戦ではドイツ空軍のエースパイロット、第2次大戦ではドイツ軍国家元帥でした。ニュルンベルグ軍事裁判では、本来はヒトラーに向けられるべきだった弾劾を一身に受け、ナチスドイツの正当性を果断に論じ、絞首刑の判決を受けた後は、刑の執行を待つことなく自殺を遂げました。そのゲーリングは1946年4月18日、独房を訪ねてきた米軍の心理分析官(グスタフ・ギルバート大尉)に次のように話しています。出典はジョセフ・E・パーシコ(Joseph.E.Persico)というアメリカの伝記作家の「ニュルンベルク軍事裁判」上・下(白幡憲之訳、2003年原書房刊)。下巻の171ページに、以下のくだりがあります。

 「もちろん、国民は戦争を望みませんよ」ゲーリングが言った。「運がよくてもせいぜい無傷で帰ってくるぐらいしかない戦争に、貧しい農民が命を懸けようなんて思うはずがありません。一般国民は戦争を望みません。ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも、同じことです。政策を決めるのはその国の指導者です。……そして国民はつねに、その指導者のいいなりになるよう仕向けられます。国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。このやり方はどんな国でも有効ですよ」

※ウイキペディア「ヘルマン・ゲーリング

ニュルンベルク軍事裁判〈上〉

ニュルンベルク軍事裁判〈上〉

ニュルンベルク軍事裁判〈下〉

ニュルンベルク軍事裁判〈下〉

 ネットで調べる限りでは、邦訳には別のバージョンもあるようですが、要は、一国の指導者が国民を戦争に駆り立てるのはいとも簡単なことで、攻撃されつつあると国民をあおり、平和主義者に対して「愛国心が欠けている」と非難すればよい、ということです。今の日本社会に置き換えてみると、例えば「愛国心に欠けている」とのレッテル張りは、政治的指導者が扇動しなくとも「反日」という言葉で既に行われているように感じます。安倍晋三首相が国民を戦争に駆り立てようとしている、とまでは思っていませんが、一方で、社会の中に中国や韓国、北朝鮮に対する反発や憎悪の感情が根強くあるのを見ていると、これもまた政治的指導者が扇動しなくとも、そうした憎悪の感情は「攻撃されつつある」との被害感情を容易に生み出すのではないかと感じます。
 どうやったら戦争が始まるのかが分かれば、どうやったら戦争を防ぐことができるのかが分かるかもしれません。70年前にゲーリングが遺した言葉は、その手掛かりの一つだろうと思います。特に「愛国心」という言葉には注意が必要だと思います。


 もう一つの伊丹万作の「だまされることの罪」は、1946年8月に発表した「戦争責任者の問題」に出てきます。内容から察するに、映画界で戦争遂行に協力した責任者を指弾し、追放することを主張していた団体に名前を使われた伊丹が、自分の考え方を明らかにして、当該の団体に自分の名前を削除するよう申し入れたことを公にした文章です。戦争が終わって、みな「自分はだまされていた」と言うけれども、だまされた人間も実は別の人間をだましていたこと、そうやって日本中がだましだまされ合っていた、ということを指摘し「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」と強調しています。
 伊丹万作は戦前に活躍した映画監督、脚本家で、この論考を発表した翌月に亡くなりました。やはり映画監督や俳優として活躍した伊丹十三さんの父親です。
 長くなりますが、わたしがこの論考のポイントだと感じた部分をあらためて引用します。

 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
 もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
 「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
 「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(せいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

 ※「戦争責任者の問題」は著作権保護期間を過ぎた作品を集めたネット上の図書館「青空文庫」に収録されていて、だれでも自由にアクセスできます。全文で7000字ほどです。
  http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html


 戦争が起きかねないような状況に陥るのを防ぐには、ゲーリングが誇ったような「戦争の始め方」の仕組みを見抜くことが必要であり、そのためには伊丹万作が看破した「だまされることの罪」を自覚しておくことが必要なのだと思います。ゲーリングの言葉は裏返しの意味を積極的に読み取るならば、警句として生かすことができます。ともに70年前に発せられたこの二つの警句を脳裏に刻んでおきたいと思います。


※「戦争責任者の問題」については、以前、このブログで紹介した記事が今も読まれているようです。
 「伊丹万作『戦争責任者の問題』と憲法96条〜『だまされる罪』と立憲主義」=2013年5月7日
  http://d.hatena.ne.jp/news-worker/20130507/1367881891