進む「軍拡」、「敵」は北朝鮮、政府批判は「反日」~ジャーナリズムの使命は戦争させないこと

 2018年になりました。うっすらと不安を感じながら迎えた年明けです。

 昨年、「米国第一」を掲げて登場したトランプ米政権は、やはり何をしでかすか予測が付きません。北東アジア情勢では、核・ミサイル開発をやめようとしない北朝鮮に対して、軍事攻撃に踏み切る可能性がマスメディアでも取り沙汰されています。

 そうした中で昨年、日本で顕著になったことの一つは「軍拡」です。年の瀬、海上自衛隊のヘリコプター搭載護衛艦「いずも」を空母に改造することを防衛省が検討しているとのニュースがマスメディアを駆け巡りました。メディアによって内容に若干の差異はありましたが、要は政府が「空母ではない」と言い張っている「いずも」を改造し、米国製の最新鋭ステルス戦闘機F35Bを運用できるようにするということです。ほかにも陸上配備型迎撃システム「イージス・アショア」は国会での論戦もなく、閣議決定だけで導入が決まりました。巡航ミサイルも防衛省の言い値で予算化されました。2018年度の防衛費は6年連続増で過去最大です。

 今や安倍晋三政権は軍拡路線をひた走っています。しかし、空母を例にとってみても、そんな米軍並みの攻撃型兵器は「専守防衛」の自衛隊には配備できません。だから各メディアとも、これまでの日本政府の憲法9条の解釈との整合性を問題視しているのですが、国民の目の届かないところでまず兵器の導入が決まり、9条との整合性は後回しになっているのが実情です。そこに憲法遵守の姿勢は見られません。それでも「軍拡反対」の民意の大きなうねりが生じるわけではないのは、やはり「北朝鮮の脅威」のゆえなのでしょう。

  北朝鮮の弾道ミサイル発射実験を巡っては昨年、ミサイルが8月29日と9月15日の2回、日本列島を越えて宇宙空間を飛行した際に、日本政府はそれぞれ全国瞬時警報システム(Jアラート)で「国民保護情報」を発出して避難を呼びかけました。このJアラート発報とその報道に対しては、このブログの昨年9月17日の記事に書いた通り、危機の実相に見合ったものではなかったとわたしは考えています。

 ※参考過去記事:「危機の実相に報道は見合っているか~『ミサイル再び日本越え』は有事ではないし、災害と同列ではない」

news-worker.hatenablog.com

 しかし日本の社会では、このJアラートによって、北朝鮮の標的になっていることが強調され、そうとはっきりとは日本政府が言わずとも、北朝鮮を「敵」と考える雰囲気が広がっているように思えます。全国各地でミサイルを想定した避難訓練も続いており、「何もやらないよりは、万が一の時に被害を軽減できるかも」との心理で、知らず知らずのうちに「危機」を受け入れ、順応する人が増えつつあるようにも感じます。そうした状況をひっくるめて、「危機」は作為的に演出されている一面があるように私には思えます。

 軍事面では、より直接的に北朝鮮を「敵」ととらえた行動が顕著です。海上自衛隊は、米国の原子力空母と日本海で共同訓練を何度か実施しました。航空自衛隊も米空軍の戦略爆撃機と日本近海上で共同演習を繰り返しています。これはひとたび有事となれば、北朝鮮を攻撃する米軍を日本は支援することを示した北朝鮮へのメッセージであり、米軍と一体となった北朝鮮への軍事的な威嚇です。日本のマスメディアは、北朝鮮に対する「圧力」や「警告」と表現していますが、言い方はどうであれ、日本国憲法が国際紛争を解決する手段として放棄しているのは戦争だけではなく、武力による威嚇、武力の行使も含まれます。ここでも憲法遵守の姿勢は希薄です。

※参考過去記事:「トランプ米大統領の「威嚇」と日本、憲法9条~思い起こすゲーリングの警句」

news-worker.hatenablog.com

 ここで思い出すのは、ナチスドイツの大立者だったヘルマン・ゲーリングがドイツ敗戦後、米軍に拘束されていた間に残した言葉です。上記の昨年11月12日の記事を始め、このブログで何度か紹介しました。国民はだれも戦争を望まないが、政治指導者が国民を戦争に駆り立てるのは簡単なことだ、我々は攻撃されかかっているとあおり、平和主義者のことは愛国心が欠けている、と言えばよい、これはどんな国にも当てはまる―。

 このブログで初めてこの言葉を紹介したのはちょうど2年前、2016年の元日にアップした記事でした。

※参考過去記事:「ヘルマン・ゲーリングの言葉と伊丹万作の警句『だまされることの罪』〜今年1年、希望を見失わないために」

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 2年前は、さすがに安倍政権も日本が他国から攻撃されかかっているとまでは言っていませんでした。しかし今はまさに、北朝鮮を「国難」と呼び、ミサイルからの避難訓練を繰り返しています。一方で、敵基地を先制して攻撃することにも使える巡航ミサイルやF35B戦闘機、空母などの攻撃型の兵器の導入を図り、武力には武力で対抗する軍拡の道を歩んでいます。まさに日本は北朝鮮から攻撃されかかっている、あるいはすぐにでもそうなる可能性がある、との雰囲気が醸し出されつつある、というのは考え過ぎでしょうか。

 「平和主義者には愛国心が欠けている」とのレッテル張りは、もう既にわたしたちの社会で始まっていることのように思えます。沖縄の米軍普天間飛行場の辺野古移設を巡り、現地で反対、抗議活動をする人たちには、激しい誹謗中傷が加えられています。中国や韓国との歴史問題でも「自虐史観」などの用語で批判が加えられ、近年ではより直接的に「反日」という言葉も、主に安倍晋三政権を批判する人たちや組織に対して用いられるようになっています。

 「軍事」を「国防」「防衛」と言い換えながら、無理を重ねて軍拡を続けていけばどうなるかは、73年前にわたしたちの社会は経験済みのはずでした。わたしはマスメディアのジャーナリズムを職業として選び取って、まもなく35年になります。この間、マスメディアの労働組合運動に一時期、身を置く中で、かつて日本の新聞が戦争遂行に加担した歴史を学び、その中から、ジャーナリズムの使命は第一に戦争を防ぐこと、起きてしまった戦争は一刻も早く終わらせることにあるとの確信を持つに至りました。それこそが、ジャーナリズムに職業として関わる者の責任であり、矜持であると考えています。その意味で、ゲーリングの言葉が現実のことになりつつあるように思える現在の日本社会で、戦争を起こさせないためにジャーナリズムが負っている責任は極めて重いのだと自覚しています。

 2年前のブログ記事では、戦前の映画監督、脚本家で、俳優、映画監督の伊丹十三の父、伊丹万作の警句についても紹介しました。伊丹万作は1946年に発表した「戦争責任者の問題」で、戦争はだます者だけでは起こすことができず、だまされる者がいることで起こると説き、こと戦争については「だまされていた」ということで何ら責任を免れるものではない、むしろ、だまされることは罪であると看破していました。

 これは2年前にも書いたことですが、仮にゲーリングが言うように国民があおられ、平和主義者が誹謗中傷を受けるとしても、「だまされることの罪」を社会の側が自覚しているならば、戦争への道は決してゲーリングの言うように「どこの国でも有効」とはならないのではないか、そう言う意味で、希望は失わずに済むのではないかと思います。

 幸いなことにわたしは、同じように多くの人たちが戦争に反対していることを知っています。決して絶望することなく、マスメディアの組織ジャーナリズムの一角で働く一人として、自分の立場でできることを悔いの残らないように一つずつやっていく1年にしたいと思います。

 本年も、よろしくお願いいたします。

 

※参考 

 ゲーリングの言葉について、日本で入手可能な確実な出典を探して手にしたのは、ジョセフ・E・パーシコ(Joseph.E.Persico)というアメリカの伝記作家の「ニュルンベルク軍事裁判」上・下(白幡憲之訳、2003年原書房刊)という本でした。その下巻の171ページに、以下のくだりがあります。 

 「もちろん、国民は戦争を望みませんよ」ゲーリングが言った。「運がよくてもせいぜい無傷で帰ってくるぐらいしかない戦争に、貧しい農民が命を懸けようなんて思うはずがありません。一般国民は戦争を望みません。ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも、同じことです。政策を決めるのはその国の指導者です。……そして国民はつねに、その指導者のいいなりになるよう仕向けられます。国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。このやり方はどんな国でも有効ですよ」  

  

ニュルンベルク軍事裁判〈上〉

ニュルンベルク軍事裁判〈上〉

  • 作者: ジョゼフ・E.パーシコ,Joseph E. Persico,白幡憲之
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2003/06/01
  • メディア: 単行本
  • クリック: 4回
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ニュルンベルク軍事裁判〈下〉

ニュルンベルク軍事裁判〈下〉

 

 

 「戦争責任者の問題」は著作権保護期間を過ぎた作品を集めたネット上の図書館「青空文庫」に収録されていて、だれでも自由にアクセスできます。全文で7000字ほどです。
  ※伊丹万作「戦争責任者の問題」
  http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html