黒船来航の地に残る、日本海軍を支えた「浦賀ドック」

 江戸時代末期の1853年、ペリー率いる米国の東インド艦隊の艦船4隻が浦賀に来航しました。日本になかった蒸気船は「黒船」と呼ばれました。江戸幕府は開国を与儀なくされ、さらには武家政権の終焉と明治維新に至ります。15年後の1868年のことです。「黒船来航」は、近代国家日本の幕開けの大きな出来事として、歴史の教科書に載っています。
 浦賀にはペリー来航後、幕府によって造船所が作られました。明治期に閉鎖されますが、1897(明治30)年、民間造船会社である「浦賀船渠」が設立されました。2年後にはレンガ作りのドライドックが竣工。旧海軍とつながりが深く、特に駆逐艦を数多く送り出しました。敗戦後も造船所の操業は続きましたが2003年に閉鎖。最後に作ったのは海上自衛隊の護衛艦「たかなみ」でした。
 そうした明治以来の歴史を持つ近代産業史跡の「浦賀ドック」を昨年12月、見学する機会がありました。

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 浦賀は神奈川県横須賀市に属しています。京浜急行本線の終点、浦賀駅を出ると細長い入り江が東京湾に続いています。その最奥部、浦賀駅に面するように浦賀船渠の後身、住友重機械工業浦賀工場の跡地が広がります。
 浦賀船渠は戦後、浦賀重工業に社名を変更した後、1969年に住友機械工業と合併して住友重機械工業となりました。2003年の閉鎖までに、浦賀で製造したり修理したりした艦船は1000隻以上に上るとのことです。昨2021年にレンガドックを含む敷地の一部、約2万7000平方メートルが横須賀市に寄付されました。「浦賀」は黒船来航の地として高い知名度を持っており、市はレンガドックを保存して観光拠点として整備する構想を持っています。そのためのデータ収集の意味合いもあるのだと思いますが、昨年10月からことし1月23日まで、レンガドックが一般公開されました。

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 わたしが訪ねたのは昨年12月中旬でした。工場の建物や、レンガドックの脇にあった2基のクレーンのうち大型クレーンは老朽化に伴い撤去されていましたが、第2次大戦末期の1945年6月に設置された小型のクレーンは残っていました。
 地上からドックを眺めるだけなら無料でしたが、せっかくの機会でしたので有料のガイドツアーに参加して、ドックの底部まで降りてみました。
 ※この記事で紹介している「浦賀ドック」の概要や歴史は、このときのガイドさんの説明や、現地で購入した「浦賀ドック オフィシャルガイドブック」に拠っています

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 日本で築造された初期のドライドックはほとんどが石造りだそうです。材質が固く、耐久性に優れているのですが、難点は費用がかかること。石に比べるとレンガは安価でしたが、それがレンガ造りにした理由なのかどうかはよく分かっていないとのことです。ただし浦賀でも、作業員が歩く通路部分はレンガの上に石を積んで、耐久性を持たせていました。ちなみに明治期、日本海軍の一大拠点が置かれた軍事都市、横須賀市内には、今も多くのレンガ構造物が残っています。
 創業時のレンガドックは全長約144メートル、幅28.2メートル、深さは8.2メートルでした。戦後、何度か拡張を重ねます。全長は約180メートルに、深さは約10メートルになりました。底部の一部はさらに掘り下げられ、船底にソナーの出っ張りを備えた護衛艦などの入渠も可能にしました。船底に近い両舷に横揺れ防止のフィンをつけた船も扱うことから、ドックの真ん中付近の左右の壁面を一部削る改造も行われました。

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 ガイドさんの後に付いて、深さ10メートルのドック底部まで降りてみました。地上見上げるような高さです。一般のビルで言えば3~4階に相当するでしょうか。ドックの大きさを実感しました。この造船所では戦前、青函連絡船の船舶や民間の船舶とともに、海軍の駆逐艦が数多く建造されました。ドライドックにも海軍の艦艇が入渠し、修理などが行われていたのかもしれません。日本の軍事力を支えた施設の跡地に立って、かつて日本が戦争をする国であったことに思いをはせました。

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 黒船来航の地である浦賀が、軍需工場の町でもあることを知ったのは、米内光政や山本五十六ら日本海軍の提督を取り上げた故阿川弘之さんの一連の伝記小説を読んでのことです。
 日米開戦時に日本海軍の作戦部隊トップ、連合艦隊司令長官だった山本五十六の海軍兵学校の同期生に、首席で卒業した堀悌吉という軍人がいました。山本とは早くから盟友であり、かつては山本以上に将来を嘱望された逸材でした。しかし、米英との軍縮条約を是とする条約派として、軍縮に反対していた艦隊派との海軍内の抗争に巻き込まれる形で1934年、中将の時に予備役に編入され、キャリアを断たれました。51歳でした。
 その堀は日米開戦の年、1941年に浦賀船渠の社長に就いていました。山本は駐在武官の経験もあって米国の国力をよく知っており、日米戦で日本が最終的に勝利を収めることは不可能だったことは分かっていたはずというのが定説です。盟友であった堀も同じ考えだったのではないかと思います。山本は1943年4月、南方の前線を視察中に、日本軍の暗号電報を解読した米軍によって搭乗機が攻撃を受け戦死しました。その報に接した堀が、この戦争はもうだめではないか、という趣旨のことを口にして嘆いた、とのくだりが阿川さんの小説にありました。
 信頼する山本が指揮を執っていればこそ、どこかで米国を相手に講和に持ち込むことも期待できたかもしれないが、もはや破滅の道を進むしかないのではないか―。堀の嘆きとはそんなことではなかったかと想像しています。その「堀悌吉」の名前とともに、「浦賀」の地名はわたしの頭にありました。

 敗戦後、日本は現行憲法の下で「不戦」を国是として復興を果たしました。戦争の時代も、復興と平和の時代も、浦賀では変わらず船が作られ続けていました。目を閉じて、往時の造船所の労働者たちの息遣いを想像しました。わたしにとっては、戦争と平和を考える場所になりました。

【参考】
・「浦賀レンガドック」
  https://www.wakuwaku-yokosuka.jp/uragarengadock.php
・ウイキペディア「浦賀船渠」
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E8%B3%80%E8%88%B9%E6%B8%A0
・ウイキペディア「堀悌吉」
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%82%8C%E5%90%89

 

※追記 2022年1月24日22時20分

・「黒船来航の地に残る近代造船の史跡『浦賀ドック』」から改題しました。

・堀悌吉は山本五十六肉筆の「述志」を戦後も手元に残していました。対米開戦日の1941年12月8日付の便せん2枚と、山本が海軍次官時代の39年5月31日付の同3枚です。堀の出身地である大分県の県立先哲史料館(大分市)に保存されているようです。一般に公開される機会があれば見てみたいと思います。 

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