今年春から大学で「文章作法」の非常勤講師を務めていることは、以前の記事に書きました。授業では日々の新聞報道の比較、解説も行っています。先日の授業では、12月8日の太平洋戦争開戦81年の報道を取り上げました。
日本の新聞は戦前の統制で、いくつかの全国紙と1県1紙の地方紙に再編され、戦争遂行の国家体制に組み込まれました。一足先には、新聞社に記事を配信する通信社が、同盟通信社1社の体制になっていました。
1945年8月の敗戦を機に、新聞各社は再出発を期します。もう20年近く前になりますが、わたしは新聞労連委員長だった当時、敗戦直後や、1947年5月の日本国憲法施行前後の時期の各紙の社説を調べたことがあります。戦争遂行に加担したことへの反省に立ち、国民主権の下で戦争放棄と戦力不保持を明記した憲法を尊重する姿勢の内容が共通していました。同盟通信社も1945年10月いっぱいで解散し、11月1日に共同通信社と時事通信社が発足しました。共同通信社は編集綱領の最初の項で「世界の平和と民主主義の確立および人類の幸福を念願して、ニュース活動を行う」と掲げています。
敗戦を経験した新聞にはそうした「戦後の原点」があるからだと思います。あの太平洋戦争の節目の出来事の日には、今も関連の記事を載せます。特に8月は、6日の広島原爆の日、9日の長崎原爆の日、15日の敗戦の日と続くこともあって、多くの記事が載ります。時に、平和を考えるのはこの時期だけなのか、と揶揄するように「8月ジャーナリズム」と呼ばれることもあります。仮にそうだとしても、戦争の教訓を忘れず、社会で共有することの意味は小さくなく、そうした報道の継続は必要だと考えています。
太平洋戦争開戦の12月8日も、そういう日の一つです。
81年前の1941年のこの日、日本軍は陸軍がマレー半島上陸作戦を開始し、英軍と交戦状態に入りました。その1時間後、米国ハワイ・真珠湾では、日本海軍の航空母艦から飛来した攻撃部隊が米海軍の太平洋艦隊に第1弾を投下しました。奇襲が成功したこと、戦果が大きかったこと、空母機動部隊の有効性を実証したことなどから、「12月8日」と言えばどうしても日本海軍の真珠湾攻撃に目が行きがちですが、それだけではこの戦争の全体像が見えにくくなってしまうことは、昨年、このブログに書いた通りです。
https://news-worker.hatenablog.com/entry/2021/12/11/101914
さて、昨年は開戦80年の節目とあって、新聞各紙も多くの記事を載せました。それに比べると今年は記事自体は少ないのですが、いくつか目を引く記事がありました。
読売新聞は12月8日付朝刊の社会面トップで、太平洋戦争に出征し軍人恩給を受けている元兵士らの平均年齢が100歳を超えたことを報じました。直接、戦争を体験した人の証言を記録に残せる時間は、いよいよ少なくなっていることを実感するデータです。読売新聞は「戦争体験者が次々に世を去る中で、記憶を語り継ぐ努力は今なお続く」として、陸軍のインパール作戦に参加した103歳の男性と、フィリピン・レイテ島へ戦後、戦友の遺骨収集のため29回訪ねた102歳の男性の証言を紹介しています。
毎日新聞は8日付朝刊に、鹿児島県の知覧特攻平和会館が、米国立公文書館から入手した映像を展示していることを伝えました。映像は日本軍の特攻機の攻撃には四つのパターンがあることを紹介し、それぞれへの対抗策を解説する内容です。米軍がいかに日本軍の特攻を研究していたかが分かります。同館は特攻による戦死者の遺書を収蔵していることで知られます。記事は「特攻の史実を、特攻隊員の視点だけでなく米軍の視点でも知ることで、より多角的に考えることができるのではないでしょうか」との同館の学芸員の言葉を紹介しています。
翌9日付のいくつかの新聞の朝刊では、ハワイで開かれた真珠湾攻撃の犠牲者の追悼式典の様子が報じられました。朝日新聞は、ロシアによるウクライナ侵攻で戦争が再び起きていることへの懸念を口にした92歳の男性を紹介しています。
授業では、これらの記事を一つひとつ取り上げて解説するとともに、この戦争の結末を開戦前に予言していた2人の人物のことも紹介しました。一人は「抵抗の新聞人」桐生悠々、もう一人は「最後の海軍大将」(戦争末期に中将から大将に昇進しました)として知られる井上成美です。
【写真:授業で使ったスライド】
桐生悠々は長野県の地方紙、信濃毎日新聞の主筆だった1933年8月、陸軍が東京周辺で行った大規模な防空演習、つまり敵機の襲来に対する訓練を痛切に批判する社説を書きました。「関東防空大演習を嗤ふ」です。東京の空に敵機を迎え撃つような事態になれば、撃ちもらした敵機に爆弾を落とされ、木造家屋が密集する東京は一挙に焦土になるだろうと説き、「敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである」と喝破しました。それから12年後の1945年、東京は米軍機の空襲で焦土と化しました。
この社説の結びは、以下の通りです。
要するに、航空戦は、ヨーロッパ戦争に於て、ツェペリンのロンドン空撃が示した如く、空撃したものの勝であり空撃されたものの敗である。だから、この空撃に先だって、これを撃退すること、これが防空戦の第一義でなくてはならない。
敵機の侵入を許さないよう迎撃態勢を固める必要を説いているのですが、実は真骨頂は「空撃したものの勝であり空撃されたものの敗である」の部分だと思います。桐生悠々が生きた時代、日本は戦争をする国でした。首都を空撃されないために、その手前で敵機を撃滅する発想は当然だったかもしれません。しかし81年前に始まり、日本中が焦土と化して終わったあの戦争を教訓にすれば、今日の日本に必要なことは、軍事力ではなく外交によって攻撃を未然に防ぐことだろうと思います。
折しも岸田文雄政権は、軍事費を大幅に増やし、敵地を直接攻撃できる兵器の保有に踏み切ろうとしています。危うさを感じることの一つは、軍拡が先行していて、外交が追い付いていないことです。北朝鮮とは長らく、直接の対話すらできない状況が続いています。
桐生悠々のことを知ったのは、岩波新書の「抵抗の新聞人 桐生悠々」(井出孫六著)によってです。大学生の時に読みました。久しぶりに本棚から引っ張り出してみました。1980年8月発行の2刷。40年以上もたっていたとは、少し驚きました。今は岩波現代文庫で入手可能です。桐生悠々のことは今日、もっと知られていいと思います。
「関東防空大演習を嗤ふ」は著作権フリーの「青空文庫」に収蔵されています。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000535/files/4621_15669.html
井上成美は海軍航空本部長当時の1941年1月、及川古志郎・海軍大臣宛てに「新軍備計画論」(建白書)を提出しました。その中の「日米戦争の形態」の一節で、仮に日米が戦った場合のこととして「日本が米国を破り、彼を屈服することは不可能なり」「米国は、日本国全土の占領も可能。首都の占領も可能。作戦軍の殲滅も可能なり。又、海上封鎖による海上交通制圧による物資窮乏に導き得る可能性大」と述べていました。ことごとく、現実のこととなりました。
【写真:授業で使ったスライド】
戦争の結末を見通していた卓見が軍部の中にもありながら、なぜ無謀な戦争を始めてしまい、途中でやめることもできずに、国家の破局へと突き進んだのか。井上成美のこの逸話は、歴史の大きな教訓のはずです。岸田政権の軍事費の大幅増によって何が起こるのか。果てしない軍拡競争に陥り、その先に何が待っているのか。現代の日本政府や防衛省、与党に、井上成美のような慧眼を持った人材はいないのでしょうか。
井上成美は戦前、海軍大臣米内光政、海軍次官山本五十六のもとで海軍省軍務局長を務めました。このトリオはドイツ、イタリアとの三国同盟締結に反対を貫き通したことでも知られます。戦後は表舞台に出ることなく、生活は困窮を極めました。その実直で壮絶な生き方は、阿川弘之さんの評伝小説「井上成美」に詳しいです。
週に一度通っている大学のキャンパスにはイチョウ並木があります。秋になって、毎週訪れるたびに黄葉が深まるのが楽しみでした。