敗戦の教訓を引き継ぐ~西日本新聞のコラム「『暑いな』とデスクは言った」

 先日、フェイスブックの知人の投稿で知った西日本新聞のコラムを紹介します。3年近く前のものですが、平成最後の年明けに、「昭和が終わった日」を振り返った内容です。「当時入社7年目で警察担当だった」という筆者は、わたしと同世代のようです。
 ※「『暑いな』とデスクは言った」=2019年1月6日
  https://www.nishinippon.co.jp/item/n/477459/

 一時代の終わりを報じるという緊張感が漂う編集局で、電話受けなどをしていたところ、社会部のデスクが私に声をかけた。
 「おい永田、今日は暑いな!」
 「はあ?」
 「気象台に取材してどのくらい暑いか記事にしろ」
 「はあ?」

 「暑い」は大げさだが、確かにその日は1月にしては相当暖かかった。改めて気象台の記録を調べると、89年1月7日の福岡の最高気温は16・5度、最低気温は10・5度とある。
 とはいえ、またどうして激動の昭和が終わろうという時に、お天気の記事を書かせようとするのか。眉毛のないこわもてデスクだったこともあり、取りあえず逆らわないで気象台に電話したが、そのうち私にもデスクの意図が分かった。
 紙面を「崩御一色」にしたくなかったのだ。
 (中略)
 「『○○一色』は危うい」というのが、昭和という時代の教訓ではなかったのか。そういう問題意識があった。

 翌日の朝刊は、やはり一色で埋め尽くされた感があったものの、テレビが「天皇特番」に切り替えたことでレンタルビデオ店がにぎわったとの記事もありました。「私とデスクが心配するまでもなく、市民はごく自然体で『一色』に染まるのを拒んでいたのだった」。そして最後に「新聞は国民の日記」という言葉を紹介しています。

 「新聞は国民の日記」という言葉がある。実際「あの日の日本で何があったか」を調べるには、古い新聞を繰るのが一番早い。この記録性が新聞の重要な役割の一つである。

 昭和64年1月7日のその日、わたしは通信社で入社6年目の記者。埼玉県の支局で警察を担当していました。20代の後半でした。
 前年の夏以来、埼玉県西部では幼い女児の失跡が相次いでいました。8月に狭山市、10月に飯能市、そして12月に川越市で。そして川越市の女児は失跡から1週間後に県内の山中で遺体が見つかり、一気に連続誘拐事件の様相が強まっていました。昭和天皇の容態をにらんで、マスメディア各社が緊張していた時期に、わたしは来る日も来る日もこの事件の取材に明け暮れていました。そして迎えたこの日。土曜日でしたが、その時には全員出社とあらかじめ決まっていたように思います。支局でそれこそ天皇一色のテレビを眺めながら「ああ、これで当分は、事件で他社に抜かれることもないだろう」などと、ぼんやり考えていました。
 レンタルビデオ店がにぎわったのは埼玉でも同じでした。加えて、コンビニでは弁当やおにぎり、サンドイッチなどがあっと言う間に売り切れました。支局に向かう途中で、昼に食べる弁当を買おうとコンビニをのぞいたのですが、本当にどこも棚が空っぽだったことを覚えています。週末だというのに、テレビは荘厳なムードで昭和天皇をしのぶ特番ばかり。街も前年来、歌舞音曲を控えた自粛モードが続いており、テレビは、半旗を掲げてひっそりした東京の繁華街の様子も映し出していました。しかし、社会は「服喪」一色ではなかったのです。借りてきたビデオを自宅で見ながら、食事もコンビニ弁当で手軽に済ます人が少なくなかったのでしょう。各地の当時の新聞をめくれば、そうした記事が見つかるはずです。なお、わたしはその日、何か記事を書いた記憶はありません。

 昭和20(1945)年に日本の敗戦で第2次大戦が終結しました。明治以降、その敗戦まで、大正、昭和と日本は戦争をする国でした。「国民の日記」である新聞も、いざ戦争となれば戦意を高揚する記事で紙面を埋め尽くしました。売れたからです。そして太平洋戦争では国家を挙げての総力戦となり、報道にも統制がかかるようになっていました。戦況は「大本営発表」を元にした記事しか載らなくなり、それも虚偽ばかりになっていきました。
 最近、「言論統制というビジネス 新聞社史から消された『戦争』」(里見脩、新潮選書)という本を興味深く読みました。

 背表紙には以下のように書かれています。

 第二次大戦後、新聞社はこぞって言い始めた。「軍部の弾圧で筆を曲げざるを得なかった」と―。しかし、それは真実か? 新聞の団体は、当局に迎合するだけの記者クラブを作り、政府の統制組織に人を送り込んで、自由な報道を自ら制限した。「報道報国」の名の下、「思想戦戦士」を自称しつつ、利益を追及したメディアの空白の歴史を検証する。

 この本のことは、あらためてこのブログで書いてみたいと思います。
 戦後、新聞各紙は戦争遂行の一翼を担っていたことへの反省を紙面で表明し、再出発しました。それが言い訳だったのかどうかはともかく、新聞界で働いていたわたしたちの先輩たちの中で、敗戦の教訓の最たるものとして「『○○一色』は危うい」という感覚が共有されていたのは間違いがないことだったのだろうと思います。

 きょう12月8日は、ちょうど80年前の1941年、日本海軍が米海軍太平洋艦隊の基地であるハワイ・真珠湾を奇襲攻撃した日です。折しも今日、敵基地攻撃能力の保持が政治課題として取り沙汰されています。80年前に敵基地をたたくことで始まった太平洋戦争は、アジア各地と日本でおびただしい住民の犠牲を生みました。沖縄戦や広島、長崎への原爆投下、そして全国各地への空襲と、人々の生活の場が殺戮の場になりました。
 歴史は繰り返す、ただし違った形で、と言われます。悲惨な歴史が繰り返されようとしているのに、それと気づかない恐れがあるのかもしれません。そうならないために、歴史から教訓を引き出し、社会で共有しなければなりません。「国民の日記」である新聞には、戦後、日本が現憲法の下で曲がりなりにも直接戦争に加わることを避けてきた歴史の記録も詰まっています。
 新聞というマスメディアの形態が今後どうなるかは、わたしにはよく分かりません。しかし、新聞をつくって社会に送り出す営みを、世代を超えて受け継いできた組織ジャーナリズムにとって、最大の目的が「戦争を起こさせないこと。起きてしまった戦争は一刻も早くやめさせること」であることは、今も、これからも変わらないと、わたしは思っています。

【追記】2021年12月10日0時10分
 史実としては、日本海軍の真珠湾攻撃の1時間以上前に、日本陸軍がマレー半島に上陸して英軍と交戦しました。英国領だったシンガポールの攻略を目的としたマレー作戦の開始です。このことをもって太平洋戦争の開戦ということになります。正確を期すために補足しておきます。
 ことし12月8日から9日にかけての報道では「日米開戦80年」という見出しをしばしば目にしました。間違いではありませんが、英国やオランダとも開戦していたので、史実の一部しか表現できていません。戦争体験の継承の観点から気になります。