ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

朝日新聞阪神支局の記者殺傷事件を風化させない~テロであり、異論を認めない社会を是としていた二重の意味で許すことができない

 34年前の1987年5月3日夕、兵庫県西宮市の朝日新聞社阪神支局が散弾銃を持った男に襲われ、勤務中だった小尻知博記者が撃たれて亡くなりました。29歳でした。ほかに記者1人が重傷。共同通信などに届いた犯行声明は「日本民族独立義勇軍 別動 赤報隊 一同」と名乗り、「反日世論を育成してきたマスコミには厳罰を加えなければならない。特に朝日は悪質である」などと書かれていました。前後して朝日新聞東京本社なども襲撃され、当時首相だった竹下登氏や元首相中曽根康弘氏への脅迫、江副浩正元リクルート会長宅襲撃と、赤報隊を名乗った犯行が続きました。警察庁広域指定116号事件、いわゆる「赤報隊事件」です。犯人を突き止められないまま2003年3月にすべての事件の時効が成立しました。
 ことしも朝日新聞は5月2日付の社説でこの事件を取り上げました。
 ※朝日新聞デジタル「支局襲撃34年 SNSを凶器にしない」
  https://www.asahi.com/articles/DA3S14891475.html

 犯行声明を出した「赤報隊」は、朝日新聞を「反日」と批判した。そして今、ネット上には「反日サヨク」「非国民」といった言葉があふれる。標的にされるのは、広く社会・労働運動に取り組んだり、政権に批判的な発言をしたりする人たちだ。

 「赤報隊」は一連の犯行声明の中で「反日朝日は五十年前にかえれ」と要求していました。当時から50年さかのぼれば1937年。7月7日の盧溝橋事件で日中戦争が勃発した年です。1931年の満州事変から45年の敗戦まで「15年戦争」とも呼ばれる長い戦争の時代。異論を許さず社会が次第に戦争遂行一色になっていく、それにすべての新聞が加担していく、そういう時代でした。赤報隊事件は言論テロであると同時に、犯行グループが歴史に学ぶことなく異論を認めない社会を是としていた点で、二重の意味で決して許すことができません。
 事件から34年がたって今日、朝日新聞の社説が指摘するように「反日」という言葉はネット上にあふれかえっています。現実社会のヘイトスピーチでも見られます。そこには、異論を認め、対話を試みようとする意思は感じられません。

 朝日新聞社の阪神支局は、事件当時の社屋は改築されたものの場所はそのままです。わたしは10年前、2011年5月3日に初めて訪ねました(同年3月に、東京から大阪に転勤になっていました)。その日のことはこのブログにも書きとめています。あらためて読み返してみました。

※「『憲法記念日ペンを折られし息子の忌』~朝日阪神支局事件から24年」

news-worker.hatenablog.com

 憲法記念日の3日、兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局を訪ねました。一階の入り口に24年前のこの日、散弾銃で襲われ殺害された小尻知博記者(当時29歳)の遺影が花に包まれるように飾られていました。記帳、焼香して、支局3階の「朝日新聞襲撃事件資料室」を見学しました。壁にかけられていたご遺族の句が強く印象に残りました。「憲法記念日ペンを折られし息子の忌」。
 (中略)
 現在の支局は事件当時と場所は変わらないものの、建物は改築されています。3階の資料室には事件当日、小尻さんらが座っていたソファー、散弾を受けてつぶれたボールペン、体内の散弾を写し出したエックス線写真など、凶行を今に伝える数々の品が置かれています。若い記者、記者を志す若い人たちには、所属組織・企業の違いを越えてぜひ見てほしい資料だと感じました。同時に、若い記者を育てる立場の世代、さらにはその上の立場の人たちにも。

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 冒頭に紹介したご遺族の句は、旧支局に小尻さんの遺影が飾られていた様子のパネル写真と並んで、壁にかけられていました。遺影の小尻さんは当時のままの姿ですが、わたしを含めこの24年の歳月を生きた者はみなそれぞれに年齢を重ねました。事件を風化させることがないよう次の世代に語り継いでいくことは、記者の仕事を続けてきた者の義務だろうと考えています。

 さらに10年がたって、「反日」という言葉があふれている今日、事件が社会に語り継がれていくことの重要さは、いよいよ増しているように思います。わたしは勤務先で定年を迎えて、マスメディアのジャーナリズムにかかわる現役の時間を終えましたが、小尻さんと同世代の記者だった一人として、わたしなりに後続世代に事件のことを繰り返し伝えていきたいと思います。