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軍需工場やインフラへのすさまじい攻撃~旧日立航空機変電所とJR高尾駅の銃撃痕

 78年前の1945年8月、アジア全域でおびただしい犠牲を出した果てに、日本の敗戦で第二次世界大戦は終結しました。戦争の末期は日本国内で生活の場が戦場と化しました。米軍のB29爆撃機による主要都市への無差別爆撃、沖縄の地上戦、広島と長崎への原爆投下などによって、非戦闘員である住民が犠牲になりました。東京の街並みは戦後の復興、さらには近年の再開発で目まぐるしく変貌し、敗戦時の様子を想像するのは困難です。そんな中で、都心を離れた多摩地区の東京都東大和市に、空襲を受けた際の弾痕、銃撃痕などがそのまま残る建造物が保存されていることを知り、過日、訪ねてみました。東大和市指定文化財の「旧日立航空機株式会社変電所」です。戦争が、確かにこの地であったこと、その戦争のすさまじさの一端を今に示す場所でした。

 概要は、以下のサイトに説明が掲載されています。
※東大和市のサイト
https://www.city.higashiyamato.lg.jp/bunkasports/museum/1006099/1006102.html

 西武拝島線と多摩モノレールが交差する駅「玉川上水」から徒歩10分ほど。都立東大和南公園の中です。建物内部は資料室になっており、日曜日と水曜日に公開。ボランティアの方も説明もあります。見学は無料です。
 東大和市のサイトの説明によると、一帯に1938(昭和13)年、航空機のエンジンを製造する軍需工場が建設されました。翌年に「日立航空機(株)立川工場」となります。1944年には、従業員数1万3千人を超える規模の大きな工場でした。保存されている変電所は、高圧線で送られてくる電機の圧力を下げて各工場へ送る施設でした。
 この工場には1945年2月に1回、4月に2回の空襲がありました。従業員や動員された学生、周辺空民ら100人以上が亡くなりました。4月2回目の24日の空襲で、工場は8割方破壊されたとされます。
 変電所も窓枠や扉などは爆風で吹き飛び、壁面には機銃掃射や爆弾の破片による無数のクレーター状の穴ができました。しかし鉄筋コンクリート製の建物本体は致命的な損傷を受けておらず、戦後、工場がスレートや編み物機の製造など平和産業に転換した後も使い続けられたとのことです。
 ボランティアの方からいろいろとお話をうかがうことができました。変電所の建物が頑丈だったことに加え、工場の敷地内の施設であり、一般の人たちの目に触れる商業施設のように外見を気にする必要がなかったことから、空襲で受けた弾痕などはそのままに、戦後も変電所として使われ続けたようだ、とのことでした。
 ウイキペディアの「日立航空機」によると、同社は練習機の製造や、航空機用エンジンの製造が中心の企業だったとのことです。

日立航空機 - Wikipedia

 写真とともに、この史跡を紹介します。
 現地にあった説明板によると、2月17日はグラマンF6F戦闘機など50機編隊による銃爆撃、4月19日はP51ムスタング戦闘機数機、最後の4月24日はB29爆撃機101機編隊による爆撃でした。

 エンジンを4基備えた大型機のB29は高度を保って水平飛行のまま爆弾を投下しました。1人乗りで単発エンジンの戦闘機であるF6FやP51は低空まで下りて、機銃掃射を浴びせました。建物に残る無数の弾痕も、よく見ると2通りあることが分かります。直径が大きく、深くえぐれたような形状のものは、機銃の銃弾がめり込んだ跡です。比較的小さく見えるものは、飛び散った爆弾の破片が当たった跡です。

 すさまじいのは、機銃の銃弾が厚さ20センチのコンクリートの壁を貫通していることです。建物の内部からその様子が良く分かりました。

 別の場所では、窓を破って飛び込んできた銃弾が木製の階段の手すりをえぐって、さらにすぐそばのコンクリートの床も削り取っていました。

 この変電所を攻撃した米軍機のうち、F6Fは空母に搭載された海軍の艦載機、P51やB29は硫黄島などの陸上基地から飛来した陸軍機です。F6F、P51とも機銃は12.7ミリ。1階の資料室には、壁を貫通して建物の内部で見つかった銃弾が展示されています。

 資料室には、米軍がB29から撮影した爆撃の様子の写真もありました。時刻は午前8時52分。住宅密集地への無差別爆撃では夜間、焼夷弾を投下していましたが、軍需工場への爆撃では通常爆弾を使い、精密爆撃を行う必要から、視界が効く時間帯だったようです。広島、長崎への原爆投下も朝から午前中の時間帯でした。

 2階は変電設備などが保存されています。

 工場の跡地は、今は緑豊かな公園になり、周囲には団地やマンションも建ち並んでいます。

 旧日立航空機変電所を見学した後、東京都八王子市のJR中央線高尾駅に足を延ばしました。2番線ホームの支柱に2カ所、米軍機の機銃掃射とみられる銃撃痕が残っています。通し番号31番の支柱には「米軍艦載機による銃撃痕と思われます」との案内板がありますが、銃撃の日時などの詳細は分かりません。33番の支柱にも、同じような銃撃痕があります。両方ともその部分だけ、白の塗装がないので、分かりやすくなっています。

 高尾駅を甲府方向に進んでまもなくの湯の花トンネルでは1945年8月5日、正午過ぎに高尾駅(当時は浅川駅)を発車した新宿発長野行きの列車が米軍P51戦闘機数機の機銃掃射を受ける惨事がありました。犠牲者は乗客50人とも60人ともされるようです。
湯の花トンネル列車銃撃事件 - Wikipedia

 鉄道は軍事上も重要なインフラです。兵員や武器弾薬を始め、軍事物資の輸送に欠かせません。非戦闘員の犠牲が想定されようと、戦争に勝つためになら攻撃をためらうことはなかったのだろうと思います。
 第二次世界大戦は各国の国力の全てを競った戦争でした。軍の作戦部隊同士が戦うだけの戦争ではありませんでした。住民も巻き込みおびただしい犠牲を生んだことは、中国をはじめアジア各地に侵攻した日本軍も同様でした。そのことも忘れずにいなければならないと思います。戦争の教訓です。

 第二次世界大戦では、空襲によって東京都心の市街地は焦土と化しました。戦後の復興を経た現在の街並みからは、空襲被害の苛烈さはなかなか想像できません。それでも、45年3月10日に大空襲を受け、一晩で10万人以上が犠牲になったとされる下町地区を歩けば、そこかしこで慰霊碑などが目にとまります。このブログでも何度か紹介していますが、開発の手が入らなかった神社の境内には、焼け焦げた痕跡を残すイチョウの木が立っていたりもします。確かに戦争があったことを今に伝える史跡です。二度と戦争を起こさないためには、戦争体験の継承が重要です。戦争を直接体験した世代がいなくなるのもそう遠いことではありません。体験を語り継ぐこととともに、こうした「戦争の史跡」を後世に残していくことも必要です。
 敗戦の日であるきょう8月15日、このブログに、新たに「戦争史跡」のカテゴリーを作りました。戦争の爪痕を残している場所、戦争へと突き進んだ時代の出来事の舞台などを訪ねた際の記事などを、このカテゴリーに集約します。過去記事にもタグをつけていきます。