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「敵兵でも人間」(吉川英治) 異国の地で生を閉じたB29搭乗員の若者たちを悼む

 第2次世界大戦末期の1945年3月10日未明、東京の下町地区は米軍B29爆撃機の大編隊の空襲を受け、焼夷弾による大火災の中、一夜で10万人以上が犠牲になりました。この「東京大空襲」を皮切りに、B29による各地の都市空襲が続き、8月6日には広島、9日には長崎に原爆が投下されました。空襲は、昭和天皇の「玉音放送」で敗戦が国民に告げられた8月15日当日の未明まで続きました。その最後は秋田市でした。日本の主要都市は焦土と化しました。
 このブログでは東京大空襲を中心に、日本本土への空襲について書きつづってきました。住民被害が中心ですが、日本軍の高射砲や迎撃機による撃墜など、米軍側の損害も決して小さくはありませんでした。今回は戦死した米兵の搭乗員のことです。

 ウイキペディア「日本本土空襲」に、米国戦略爆撃調査団による統計として、日本本土を爆撃したB29について、以下の数字が紹介されています。

 延べ出撃機数33401機/作戦中の総損失機数485機/延べ出撃機数に対する損失率1.45%/作戦中の破損機数2707機/投下爆弾147576トン。そして、搭乗員の戦死は3041名です。

 パラシュートで脱出し、日本軍の捕虜になった後に処刑された事例や、捕虜として収容されていた東京・代々木の陸軍刑務所が空襲を受け、そこで死亡した事例も記録に残っているようです。戦死した米軍搭乗員らの慰霊のために、墜落地点に建てられた慰霊碑が各地にあります。ネット上で「B29 慰霊碑」で検索すると、いくつもヒットします。戦後の日米の友好関係や、平和への願いが背景にあったのだと思います。
 米軍の日本本土空襲は、前例のない規模での都市住民に対する無差別攻撃であることは間違いがなく、その当否は勝者ではなく、歴史の審判にゆだねられるべきことだろうと思います。ただ一方で、戦死したB29の搭乗員たちも、戦争がなければ米国社会で普通の生活を送っていたはずの若者たちでした。

【B29:写真出典・ウイキペディア「B29」、パブリックドメイン】

 東京では当時の西多摩郡吉野村、現在の青梅市に1機が墜落しました。搭乗員11人のうち戦後、米国に生還できたのは4人だけでした。墜落場所にある慰霊碑を先日、訪ねてみました。
 東京・新宿からJR中央線・青梅線直通の青梅特快電車に乗って1時間ほどで青梅駅に着きます。各駅停車に乗り換えて10分余り、五つ目の駅が、戦国時代の古戦場であることに地名の由来を持つ「軍畑(いくさばた)」です。駅のホームから南に小高い山が見えます。その中腹に1945年4月2日未明、B29が墜落し炎上しました。

【軍畑駅ホームから。中央左手の中腹斜面にB29が墜落しました】

 青梅市郷土博物館でいただいた「青梅市文化財ニュース 第423号」(2023年1月15日発行)は以下のように解説しています。

アメリカ軍重爆撃機「B29」墜落地(柚木街の愛宕山中腹)
 鎌倉街道の柚木町3丁目と2丁目の境にあたる山道入口の足元に、「B29→」と書かれた小さな案内看板があります。太平洋戦争末期の昭和20(1945)年4月2日未明、B29が墜落炎上した現場近くの慰霊地を示しています。B29は多摩地方の軍需工場を大編隊で爆撃したのですが日本軍戦闘機の攻撃を受け、脱出した6人を除く5人が死亡しました。当時の村人は祖国を焦土化し同胞を殺戮するアメリカ兵は憎く、この遺体は穴でも掘って放り込んでおけばいいと思っていました。ところが、柚木に移住していた作家吉川英治の「敵兵でも人間。亡くなればていねいに葬ってやらなくてはいけない。」との言葉で、遺体は丁寧に収容され即清寺へ埋葬されました。その後、平成12(2000)年に地元のN氏が墜落現場近くに慰霊碑を建立し、平成18(2006)年には日米合同慰霊祭が行われました。当日は100人以上の地元民、横田基地副司令官をはじめとするアメリカ軍兵士等が参集し、慰霊と日米友好と平和が願われました。

 軍畑駅から慰霊碑まで、徒歩で20~30分ほどです。さして高い山ではないのですが、それなりの険しい斜面に、慰霊碑はひっそりと立っていました。近くにはハイキングコースもあり、軍畑駅で下車するハイカーもいましたが、ここは訪れる人もめったにいないようです。

 両手を合わせ、目を閉じて、墜落当時のことを想像してみました。被弾した機体はコントロールが効かず、どんどん高度を落としていたのかもしれません。パイロットは、何とか機体の姿勢を立て直そうと、必死だったはず。搭乗員たちは見知らぬ敵地の上空で、どんなにか恐ろしかったことか。
 慰霊碑のそばには「平和の鐘」と書かれた小さな鐘もありました。鎮魂と、平和への思いを込めて、そっと鳴らしてみました。チリン、チリンと澄んだ音色が、人気のない山中に響きました。

 墜落した機体は「Filthy FayⅡ」。直訳すると「汚れた妖精」でしょうか。B29以前に同名の機体があって、2代目ということなのでしょう。墜落直前、4基のエンジンのうち一つが脱落しました。戦後長らく、近くの多摩川に放置されていましたが、1979(昭和54)年に地元の方たちが引き上げ保管。その後、青梅市郷土博物館に寄贈されました。玄関を入ってすぐのホールに展示されています。実物を見学しました。B29の本土空襲の貴重な直接資料です。

 展示資料には、所属基地で撮影したと思われる「Filthy FayⅡ」を背に並んだ搭乗員たちの写真がありました。みな若く、恐らくは20代でしょう。英語表記の氏名も読み取れます。第2次大戦では米国も戦時体制に移行し、多くの若者が軍に動員されました。もともと自動車が発達した社会で車の運転に慣れていたので、航空機の操縦の上達も早かったようです。そんなところにも日米の国力の差があったとの指摘を、どなたかの著書で目にした記憶があります。

 B29のエンジンと並んで、日本陸軍の爆撃機「飛龍」のエンジンも展示されています。説明文によると、終戦4日前の1945年8月11日、やはり柚木の山中に墜落し、乗員12人全員が死亡しました。何らかの機体トラブルが原因だったようです。もう少し生き延びていれば、戦後日本の復興の力になったはずの人たちでした。

 「青梅市文化財ニュース」の記事中に登場する作家の吉川英治は「宮本武蔵」や「新・平家物語」などの代表作で知られます。1944年3月に東京都心から吉野村に移住し、1953年8月まで9年5カ月を過ごしました。戦前から邸宅を購入するなど準備していたようで、単なる戦時疎開ではなかったようです。邸宅と書斎は現在、青梅市が運営する吉川英治記念館として公開されています。
 「鬼畜米英」といったスローガンが横行していた戦時社会で、著名な作家とはいえ一人の民間人が「敵兵でも人間」と言って戦死者を丁寧に葬るよう求めるようなことは、よほどの信念に加えて、胆力がなければできることではなかったはずです。このエピソードについて「武士道」によるものとする解釈も目にします。そういう側面もあるのかもしれませんが、ほかにも吉川英治には個人的な強い思いがあったのではないか、とわたしは考えています。

【死亡した搭乗員が葬られた即清寺】
 吉川英治にはかわいがっていた養子の娘、つまり養女がいました。女子挺身隊員として動員され、都心に残っていました。吉野村にB29が墜落する約3週間前、3月10日の東京大空襲で行方不明になっていました。連絡を受けた吉川英治は連日、吉野村から都心に出かけ、行方を探しました。手掛かりは何も見つけられないまま、ある時、大空襲当夜に、墨田区にあった墨田電話局の交換手の女性たちが最後まで職場を離れず殉職したと聞いて、養女のことをあきらめて吉野村に戻りました。
 戦後、そのときのことを吉川英治自身が電電公社総裁との対談で語った時の様子が、「吉川英治記念館」のブログにありました(今はこのブログは閉鎖されているようです)。吉川英治の言葉を引用します。

 それをききましてぼくは、ああ、そんなにまで純真なおとめたちがあったのに、ぼくの養女一人がみえなくなったからっていって、そう途方にくれたように幾日も探し歩いてもしようがない、たくさん、日本のいい娘たちが、そうして亡くなったんだから……と思って、ぼくもそこですっかりあきらめて、ついにその晩雪のなかを奥多摩へ帰ったことがありました。その話を、ぼくはいつまでも忘れかねるんですね。

 B29が吉野村に墜落したのはその直後だったのではないでしょうか。戦争で前途有為の若い人たちがたくさん死んでいくことの虚しさ、無情を感じていたことが、例え敵国の軍人であっても、異国の地で無念の死を遂げた若者に対して「敵兵でも人間。亡くなればていねいに葬ってやらなくてはいけない」との気持ちにさせ、周囲にも強く語ったのではないか。そんな風に想像しています。

【吉川英治記念館として保存されている書斎】
 吉川英治の養女のことは、このブログの5年前の3月10日の記事で触れました。墨田電話局の跡地には慰霊碑が立っていて、吉川英治の自筆の追悼の碑文もあります。そこには「人々よ 日常機縁の間に ふとここに佇む折もあらば また何とぞ 一顧の歴史と 寸時の祈念とを惜しませ給うな」と刻まれています。
以下の記事に詳しく紹介しています。どうぞ、お読みください。

news-worker.hatenablog.com

 軍畑駅からスタートし、B29搭乗員の慰霊碑、吉川英治記念館、死亡した搭乗員を埋葬した即清寺、青梅市立郷土博物館と歩いて、たっぷり半日の行程でした。戦争の勝敗は相対的なことで、本質は敵であれ味方であれ、個人の「生」をすり潰すように奪っていくことです。個人は抗いようがありません。だから、戦争は最大の人権侵害です。そのことを改めて考えた道のりでした。

■付記
 旧吉野村のB29墜落をめぐっては、ユーチューブに「中央大学FLP松野良一ゼミ」の制作著作の動画「『61年目の祈り ~青梅に墜落したB29~』第28回 多摩探検隊」があります。敗戦から61年の2006年8月に合わせて制作されたようです。墜落当夜についての吉川英治の息子さんの証言、慰霊碑建立の経緯や、日米合同の慰霊祭の模様なども収録されています。非常にクオリティの高い動画です。
https://www.youtube.com/watch?v=EdO9hBLK6Uc

www.youtube.com