ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

焦土を視察する天皇に土下座でわびた民衆~堀田善衛「優情」と伊丹万作「だまされる罪」

 第2次世界大戦末期の1945年(昭和20年)3月10日未明、東京の下町地区は米軍B29爆撃機の大編隊の空襲を受け、焦土と化しました。一夜で10万人以上が犠牲になったとされる東京大空襲から、ことしは79年になります。昨年、このブログで、昭和天皇が空襲から8日後の3月18日、現地を訪れ被害状況を視察していたこと、そのことを記した碑が、東京都江東区の富岡八幡宮にあることを紹介しました。
 ※参考過去記事 

news-worker.hatenablog.com

 記事を公開後、ツイッター(現X)を通じてある方から、この昭和天皇の現地視察を作家の堀田善衛(ほった・よしえ、1919~1998)がたまたま目撃していたこと、その時の様子を「方丈記私記」に書き残していることをご教示いただきました。そこに描かれているのは、天皇が到着すると、付近にいた人たちが集まって土下座し、涙を流しながら、自分たちの努力が足りなかったのでむざむざと焼いてしまったと、わびの言葉を口々につぶやく情景でした。

【写真】天皇の現地視察を伝える朝日新聞(1945年3月19日付)
 「方丈記私記」は筑摩書房の「ちくま文庫」に収録されていて、入手可能です。購入して読んでみました。
 空襲当時、富岡八幡宮の近くには堀田善衛の知り合いの女性が住んでいました。あの空襲を経て生きている見込みはまずないと思いながら、行って別れを告げたいとの気持ちから、早朝に現地へ向かいました。着いてみれば、富岡八幡宮のあたりは本当に何もありませんでした。ところどころで、疎開していて助かったか、奇跡的に空襲下を生き延びたか、焼け跡を掘り、焼け残った家財を探しているのだろうとおぼしき人々がいました。
 いったんその場を離れ、東の木場方面へ歩いていき、また富岡八幡宮のあたりに戻ってきて、思いもかけなかった光景を目にします。焼け跡が整理され、憲兵や警官、役人などが集まっていました。午前9時過ぎと思われる頃、ほとんどが外国製である乗用車の列が西の永代橋、つまり都心の方向から現れました。
 以下、本文の一部を引用します。

 小豆色の、ぴかぴかと、上天気な朝日の光を浴びて光る車のなかから、軍服に磨きたてられた長靴をはいた天皇が下りて来た。大きな勲章までつけていた。私が憲兵の眼をよけていた、なにかの工場跡であったらしいコンクリート塀のあたりから、二百メートルはなかったであろうと思われる距離。
 私は瞬間に、身体が凍るような思いがした。
 (中略)
 私が歩きながら、あるいは電車を乗りついで、うなだれて考えつづけていたことは、天皇自体についてではなかった。そうではなくて、廃墟でのこの奇怪な儀式のようなものが開始されたときに、あたりで焼け跡をほっくりかえしていた、まばらな人影がこそこそというふうに集まって来て、それが集まってみると実は可成りな人数になり、それぞれがもっていた鳶口や円匙を前に置いて、しめった灰のなかに土下座をした、その人たちの口から出たことばについて、であった。
 (中略)
 私は方々に穴のあいたコンクリート塀の陰にしゃがんでいたのだが、これらの人々は本当に土下座をして、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました、まことに申訳ない次第でございます、生命をささげまして、といったことを、口々に小声で呟いていたのだ。
 私は本当におどろいてしまった。私はピカピカ光る小豆色の自動車と、ピカピカ光る長靴とをちらちらと眺めながら、こういうことになってしまった責任を、いったいどうしてとるものなのだろう、と考えていたのである。こいつらのぜーんぶを海のなかへ放り込む方法はないものか、と考えていた。ところが責任は、原因を作った方にはなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあることになる! そんな法外なことがどこにある! こういう奇怪な逆転がどうしていったい起こりうるのか!

 そうした怒りの感情の一方で、天皇に生命の全てをささげて生きる、当時の言葉で表現すれば「大義に生きる」ことを半ば受け入れる気持ちもあり、「この二つのものが私自身のなかで戦っていた。せめぎ合っていたのである。」とも吐露しています。
 1945年3月当時、堀田善衛は26歳。「方丈記私記」はそれから25年後の1970年に発表されています。東京大空襲の自身の経験を、平安末期の戦乱や政変、天変地異などを鴨長明が書き記した「方丈記」に重ね合わせて、歴史や人間の営みの普遍性と深く向き合った作品です。昭和天皇の視察はその中のごく一部なのですが、大本営発表を元にした戦意高揚の記事しかなかった当時の報道からは知り得ない情景です。
 家を焼かれ、家族を殺されながらも、「努力が足りませんでした」と涙とともに権力者にわびる精神性を、堀田善衛は「優情」という言葉で表現しています。権力者に対して、あまりにも優しい情感ということなのでしょうか。

 そうしてさらに、もう一つ私が考え込んでしまったことは、焼け跡の灰に土下座をして、その瓦礫に額をつけ、涙を流し、歔唏しながら、申し訳ありません、申し訳ありませんとくりかえしていた人々の、それは真底からのことばであり、その臣民としての優情もまた、まことにおどろくべきものであり、それを否定したりすることもまた許されないであろうという、そういう考えもまた、私自身において実在していたのである。
 もしそうだとしたら、そういう無限にやさしい、その優情というものは、いったいどこから出て来たものであるか。またその優情は、情として認められるものであるとしても、政治として果たしてそれをどう考えるべきものか。政治は現実に、眼前の事実として、のうのうとこの人民の優情に乗っかっていたではないか。政治がもしそれに乗ることが出来ない、許さるべくもないものであるとしたら、たとえ如何なる理由つけがなされても、のこのこと視察に出て来るなどということは、現実に不可能なことでなければならないであろう。
 支配者の側のこととしても、人民の側のこととしても、私には理解不可能であった。なぜ、どうして、というのが、二十五年前の焼け跡を歩いての、私の身体にいっぱいになっていた疑問であった。それは疑問である。つまりは、考えてみた上での、疑問であり、もしその疑問をトータルに提出しないとすれば、しかし、一切は、実はきわめて明瞭であって、理解も理解不可能もへったくれも、実はないのである。天皇陛下とその臣民であって、掌をさすが如くに明快であり、その明快さの上に居直ってだけいるとするなら、そこに何らの疑問の余地もありはしない。

 「優情」をめぐる堀田善衛の考察を目にして思い起こすのは、戦前に映画監督、脚本家として活躍した伊丹万作が敗戦翌年の1946年8月に発表した「戦争責任者の問題」と題した文章です。俳優、映画監督の故伊丹十三さんの父親です。
 「戦争責任者の問題」のことは、このブログでも何度も触れてきました。最初のブログ記事は2013年5月。安倍晋三首相(当時)が、悲願の改憲のハードルを下げるために、要件を定めた憲法96条の改変を模索していた時期です。
 ※参考過去記事

news-worker.hatenablog.com

 この過去記事で詳しく紹介していますので、関心を持たれた方は、お読みいただければと思うのですが、「戦争責任者の問題」は、内容から察するに、映画界で戦争遂行に協力した責任者を指弾し、追放することを主張していた団体に名前を使われた伊丹万作が、自分の考え方を明らかにして、当該の団体に自分の名前を削除するよう申し入れたことを公にした文章です。
 この中で伊丹万作は、敗戦後に多くの人が「今度の戦争でだまされていた」と言っていることを挙げ、「多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである」と指摘します。「一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う」というわけです。そして「だまされていた」と釈明することで戦争責任を逃れることができるのかと、たたみかけ、さらには「『だまされるということ自体がすでに一つの悪である』ことを主張したいのである」と強調しています。以下は、この文章の真骨頂だと感じた部分です。

 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

 さらには、日本国民の将来への「暗澹たる不安」をつづっています。

 「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

 堀田善衛が「優情」と表現した権力側の非を問おうとしない精神性は、伊丹万作が批判した、「だまされていた」と釈明することで免罪されるとの思考と表裏一体、ないしは通底しているようにも思えます。
 敗戦後、天皇は日本国憲法によって国民の統合の象徴と位置付けられ、政治からは距離を置くことになりました。では今、日本社会に権力者に対する優情はないのでしょうか。民主主義の社会では、権力は選挙によって合法性と正当性が備わります。だから、社会の一人一人が主権者として当事者意識を持ち、権力者が何をやろうとしているかをいつも見ていることが重要です。仮に、政治への関心を失い、「だれが政治をやっても同じ」と選挙にも行かないようなことになれば、それもまた形を変えた権力への「優情」ではないのかと感じます。戦争を始めるのは、いつの世でも、どこの世界でも権力者です。後で「だまされていた」と悔やむことのないように、今、自分自身に「優情」がないか、あるのならどうやって克服していくか、自身の内面と向き合うことが必要ではないか。そんなことを考えています。

 ※ウイキペディア「堀田善衛」
 ※ウイキペディア「伊丹万作」
 ※「戦争責任者の問題」は著作権フリーの青空文庫で読めます

www.aozora.gr.jp

 ※堀田善衛「方丈記私記」をご教示いただいたハンドルネームrakuseijinさんのブログ記事です。あらためてお礼申し上げます。ありがとうございました。

rakuseijin.exblog.jp