ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

「中立」の壁を越えるジャーナリズムへ~MBS「記者たち~多数になびく社会の中で~」(視聴を推奨します)

 大阪市に本社を置く民放準キー局のMBS(毎日放送)は毎月1回、日曜深夜の0時50分から自局制作のドキュメンタリー番組「映像‘24」を放送しています。1980年4月に「映像‘80」で始まって以来、40年以上も続いており、質の高さで知られます。3月3日に放送された「記者たち~多数になびく社会の中で~」を、見逃し配信サイトのTVerで見ました。以下は、MBSの公式サイトにある番組内容の紹介の一部です。

 新聞もニュースも、なくなる日が近づいているのだろうか。過酷な現実は見たくない。エンタメに心地よく浸っていたい。日本の新聞の発行部数は、20年前の半分近くに激減した。
 社会の成熟度は、腐敗する権力を適切にチェックできるかどうか、よりマシな方向へ修正できるかにかかっている。だが、主権者である国民の判断を左右するニュースは弱っている。
 PV数など過剰な数字主義に走って、ニュースを「コンテンツ」扱いする。取材に時間をかけた調査報道より、炎上狙いのお手軽なコンテンツがネット言論で大量拡散される。記者たちを軽蔑し、叩く声がSNSに溢れる。言葉が軽く飛び交う社会でマイノリティーたちには差別が襲いかかる。
 こうしたなか、思いを託される記者たちがいる。隠される情報を掘り起こし、理不尽なことに真正面から闘って記者本来の仕事から撤退しない人たちだ。

 ※ https://www.mbs.jp/eizou/backno/24030300.shtml

【写真】MBSの公式サイト
 登場する記者は3人。琉球新報東京支社で防衛省を担当する明真南斗さん、毎日新聞記者を辞め、初任地だった広島に戻り被爆者の取材を続ける小山美砂さん、川崎の在日コリアンへの攻撃を始めとしたヘイトクライムを止めるために、時に街頭でレイシストから罵倒を浴びせられながらも、身を体して取材し書き続ける神奈川新聞川崎総局の編集委員、石橋学さんです。
 それぞれがどのような記者なのかは、実際に番組を視聴していただくのがいちばんだと思います。ここでは、わたしなりの感想を少し書きとめておきます。
 3人に共通するのは、「中立」の壁を超えたジャーナリズムだと感じました。マスメディアの報道現場でしばしば耳にするのは「中立公正」という言葉です。「中立公平」と呼ばれることもあります。どの立場、どの勢力にも与さず、客観的な立場で報道する、というのが本来の意味だと理解しています。
 例えば、あるニュースを深く理解するための一助として、その問題の専門家に取材して、新聞で言えば20行ほどの記事にまとめることがしばしばあります。「識者談話」と呼びます。一人だけではなく、異なった見解を持つ複数の専門家に取材し記事にすることで、多様な意見、ものの見方を紹介することができます。
 そうした「中立公正」は必ずしも悪いことではないと思います。しかし、自らの判断を抑えて、単に相対する意見をそれぞれ紹介すれば事足りる姿勢となるとどうでしょうか。特に人権に絡む問題では、人権侵害を止めることができるような変革が社会に必要で、そのために事実を社会に知らせるのがジャーナリズムの役割です。人権を侵害している側と、侵害を受けている側を対等に扱う、それが「中立」であり「公正」「公平」である、というようなスタンスで、その役割を果たせるでしょうか。「中立」は壁になってしまいます。その壁を乗り越えられるか、問われるのは報道する側の「人権」への感覚です。そのジャーナリズムの根源的な問題に、この番組は焦点を当てていると感じました。

 番組の冒頭は、琉球新報の明さんが入社2年目の2015年夏、米軍普天間飛行場の移設先として日米両政府が合意している辺野古で、反対運動を取材しているシーンです。番組の中で、明さんが口にしたいくつかの言葉が、印象に残ります。
 東京で過ごした大学時代、友人に「基地がないと沖縄はやっていけないんでしょ」と言われ、何も答えられなかったことが悔しくて、新聞記者になったこと、東京で取材するようになって気付いたのは、大手メディアの取材が政府や与党にばかり向かっていること、野党でもだれでも、等しく取材する沖縄のメディアと随分違うと感じると―。
 思い起こすのは、20年近く前、新聞労連の専従役員として初めて沖縄を訪ね、辺野古を見学した時に聞いた、地元紙の労組の方の言葉です。
 「東京から閣僚や与党議員が何度も視察に来ています。記者もたくさん付いてきます。でも皆さん、向こう側(閣僚や与党議員の側)からしか見ない。わたしたちと一緒に、こちら側から見れば、いろいろなことが見えてくるはずなのに」
 わたしが、沖縄の基地の過剰集中を自分自身にかかわる問題として意識した原点を、明さんの言葉で改めて自覚し、再確認できた気がしました。

 沖縄の基地の過剰集中の問題も、小山さんが取材する被爆者の認定の問題も、石橋さんが取材するヘイトクライムの規制の問題も、当事者は強大な国家権力や公権力と正面から対峙することを迫られています。力関係は全く対等ではありません。そして、問題の本質が広く知られることがなければ、この非対称は揺らぎません。権力にとってこれほど楽なことはありません。番組のサブタイトル「多数になびく社会の中で」の「多数になびく社会」とは、そういうことなのだろうと感じます。
 ではジャーナリズムにとって、「中立」に代わる言葉は何か。私見ですが「独立」ではないかと考えています。だれかのために報道するのではない。自分が「おかしい」と思ったら、それが取材の原動力になる。当事者が非対称の関係にあるのなら、立場の弱い側の声をより丁寧に聞き、社会に届ける。だけれども立場はあくまで「独立」。記者個々人のそうしたモチベーションを、マスメディアが組織として大切にすることも必要です。

 「記者たち」のディレクターは「教育と愛国」なども手掛けてきたことで知られる斉加尚代さんです。記者の仕事に関心がある若い人たち、記者の仕事に就いてまもない若い人たち、何よりも記者の仕事に「壁」を感じ、疑問を抱き始めた人たちに、ぜひ見てほしいと思います。
 TVerで来週いっぱいは視聴可能なようです。
 https://tver.jp/episodes/ep8zb6rg50