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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

焦土を軍服の天皇が視察、終戦までさらに5カ月~東京大空襲から78年の教訓

 第2次世界大戦末期の1945年3月10日未明、東京の下町地区は米軍B29爆撃機の大編隊による空襲を受けました。大量の焼夷弾の投下で木造家屋の密集地帯は焼き尽くされ、一夜で10万人以上が犠牲になったとされます。以後、米軍は日本中の主要都市の大半を空襲で焼き尽くしていきます。その3月10日の最初の東京大空襲から今年は78年です。このブログでもこの空襲のことは何度も触れてきましたが、最近になって初めて知ったこともあります。空襲から8日後の3月18日、昭和天皇が現地を訪れ、惨状を目にしていたことも、その一つです。
 45年3月19日付の朝日新聞を縮刷版で見ると、1面トップに軍服姿で辺り一面の焼け野原の中を歩く昭和天皇の大きな写真が載っています。焦土と昭和天皇の組み合わせの写真は珍しく、あちこちで引用される有名な写真ですが、今まで、撮影日や場所、天皇がなぜ焼け跡を歩いているのかなど詳細は知りませんでした。写真のキャプションは「御徒歩にて焦土を臠はせ給ふ 東京都深川富岡八幡宮にて謹写」。「焦土を」の後の漢字を目にしたことがなく、調べました。この字を拡大します。 「みなそ(はせ)」と読むようです。意味は「ご覧になる」。「御徒歩にて焦土を臠はせ給ふ」は「徒歩で焦土を視察」の最大級の敬語表現ということでしょうか。

 「東京都深川富岡八幡宮」は、東京都江東区富岡にある富岡八幡宮のことです。わたしは大阪勤務のころ、休日に京都や奈良の寺社を巡ることが習慣になり、東京に戻ってからも、都内や近郊の寺社巡りは続いています。富岡八幡宮も何回も足を運んでいるのですが、昭和天皇がここで空襲被害の実相を自分の目で見ていたことは知りませんでした。境内に、4年前の2019年3月に有志が建立した石碑があることをたまたまネットで知り、過日、見てきました。
 富岡八幡宮は東京メトロ東西線、都営地下鉄大江戸線の門前仲町駅が最寄り。下町のいわゆる深川地区の中心にあり、近くの深川不動尊とともに多くの参拝客が訪れます。明治維新で京都から東京に移った明治天皇が、東京の鎮護を祈願した「東京十社」の一つです。大きな神輿と「わっしょい」のかけ声の深川祭は、富岡八幡宮の例大祭です。
 永代通りに面した大きな赤い鳥居をくぐって境内に入ると、左手の手水舎の手前に石碑が二つあります。一つは「天皇陛下御野立所」の碑。東京都が1960年に建立したようです。その隣に、「昭和天皇 救国のご決断と富岡八幡宮」の石碑がありました。昭和天皇の視察の様子を記した銘板と、この地で被害状況などの説明を受ける昭和天皇の写真のレリーフがはめ込まれています。

 説明は以下のように記されています。

昭和天皇 救国のご決断と富岡八幡宮

 昭和十九(一九四四)年十一月に、アメリカ軍による東京空襲が始まった。昭和天皇はこの年十月に靖国神社例大祭に行幸されたのを最後に、皇居から出られなかった。
 天皇は三月十日に東京大空襲が行われると、被災地を視察されたいと仰言せられた。軍は天皇の抗戦のご決意が揺らぐことを心配して強く反対したが、天皇が固執された。
 宮内省と軍が「御巡幸」の日時について打ち合わせ、三月十八日日曜日午前九時から一時間と決定された。
 御料車からボンネットに立つ天皇旗を外し、いつもは沿道に警官が並ぶが、天皇であることが分からないように、できるだけ少なくし、交通を寸前まで規制しなかった。
 御料車が永代橋を渡り深川に入ると、見渡すかぎりの焼け野原だった。
 天皇は富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で降りられると、大達内相の先導によって、延焼を免れた手水舎の前に向かわれた。粗末な机が置かれていた。
 内相が被害状況の御説明を終えると、天皇は「こんなに焼けたか」としばし絶句されて、立ちすくまれた。
 この時に、昭和天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の御決意をされたにちがいない。
 大戦が八月十五日に終結した。八月十五日は江戸時代を通じて、富岡八幡宮の例大祭に当たった。終戦は富岡八幡宮の御神威によるものだった。
 新日本の再建は、富岡八幡宮から始まった。

 富岡八幡宮友の会一同
 加瀬英明

 富岡八幡宮友の会のホームページでは、会について以下のように説明しています。

「富岡八幡宮友の会」は、富岡八幡宮という江戸時代から日本を代表してきた神社の由来に深く思いを起こし、感謝を込めて、これからの東京の発展と、日本の安全と繁栄を願い、世界に貢献することを誓う有志が集まり、設立を企画したものです。

 石碑にも名前がある加瀬英明氏は昨年死去した著名な外交評論家です。「この時に、昭和天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の御決意をされたにちがいない」とは、加瀬氏の推測なのでしょう。ただ史実としては、1945年2月には天皇側近の重臣たちの間で、終戦工作への動きが本格的に始まっていたとされます。加瀬氏の父親の外交官、俊一氏もその動きに連なっていたようです。昭和天皇が「こんなに焼けたか」とつぶやいたということについて、石碑の説明文の中に出典は見当たりません。ただ、昭和天皇の心中は、加瀬氏が想像したとおりだったとしても不思議はないように、わたしも思います。

 仮に昭和天皇が東京の惨状を目のあたりにして、戦争を終わらせることを決心したとしても、実際の戦争終結までにはさらに5カ月を要しました。戦争終結を願うムードが社会に出てきたのかと言えば、そんなことはありませんでした。視察を報じる3月19日付の朝日新聞に戻れば、以下のような見出しが並んでいます。

 畏し・天皇陛下 戦災地を御巡幸
 焦土に立たせ給ひ
  御仁慈の大御心
   一億滅敵の誓ひ新た

 戦災の焦土にあっても、陛下はわれわれ臣民のふがいなさを慈悲の大きな心で受け止めてくださっている、一億の国民すべて、敵を全滅させる誓いを新たにすべきだ-。
 そんな文意でしょうか。記事の本文は、天皇に対する敬意の見慣れない表現もあって非常に読みづらいのですが、見出しだけからでも雰囲気は感じ取れるのではないかと思います。要は、戦意高揚の報道に変化はなく、社会は戦争遂行一色のままでした。
 ひとたび戦争が始まり、社会が戦争遂行を最優先にしてしまうと、その流れを止めるのは容易ではないことを改めて思います。この年の8月、日本が無条件降伏を受け入れて戦争が終結するまでに、沖縄の地上戦、広島、長崎への原爆投下、全国主要都市への空襲などで、多くの命が奪われました。非戦闘員の住民の犠牲の多さは、この時期の特徴です。
 ロシアのウクライナ侵攻が2年目に入った中で迎えたことしの3月10日です。戦争は終わらせるのが難しい、だから始めさせてはいけない、戦争につながる可能性をはらんだありとあらゆることに、ふだんから敏感でなくてはいけない-。それが78年前に日本の敗戦で終わった戦争の教訓です。ロシアで反戦の言論や報道が弾圧の対象になっていることを見ても、戦争遂行と自由な表現活動は相いれないこともまた明らかです。岸田文雄政権が敵基地攻撃能力の保有と大規模な軍拡路線を進めている中で、マスメディアが表現の自由を守り、戦争を起こさせないようにしようとするなら、今はまだあるその自由を適切に行使していくことが重要だと思います。

 富岡八幡宮を訪ねた日は、ちょうど東京マラソンが開催されていました。富岡八幡宮の大鳥居の近くが折り返し点になっており、海外からの参加も含めて、色とりどりのウエアのランナーたちが次々と、大きな川の流れのように、途切れることなく駆けていきました。沿道では多くの人がランナーたちに声援を送っていました。平和の光景でした。