1945年8月、日本無条件降伏を受諾して第2次世界大戦は終結しました。それから80年の夏です。関連の企画やイベントが全国各地で開催されています。
東京・九段にある厚労省所管の博物館「昭和館」では、特別企画展「社会を映す、動かす-ポスターにあらわれる国策宣伝の姿-」を開催。一つ前の記事で紹介した近くの「しょうけい館」での特別企画展「武良茂(水木しげる)の戦争体験」と合わせて、見学しました。
開催の趣旨は以下の通りです。
昭和12年(1937)の日中戦争勃発以降、国民の戦意高揚を図るために国策宣伝が積極的に行われました。ポスターは視覚的に効率よく宣伝内容を印象付けるものとして重要視され、官民問わずさまざまな団体によって制作されます。それらは街中に貼られ、国民に国策への協力を広く呼びかけました。
本企画展では、昭和館ポスターコレクションを通じて戦時下における国策宣伝について紹介します。
https://www.showakan.go.jp/kikakuten/special-exhibition-for-80-years-after-the-war/
日中戦争が始まって以降、戦意高揚のためにさまざまな標語とともにポスターが貼りめぐらされたことは、知識としては知っていました。その実物をまとまって目にしたのは初めてです。日本がかつて戦争をする国だったこと、日本全体を巻き込んだ戦争があったことを、あらためて実感できる機会になりました。
特別企画展は以下の構成です。
プロローグ:第一次世界大戦とポスター
Ⅰ 国家主導の宣伝活動
Ⅱ 担い手と文化の動員
Ⅲ 国策宣伝の多角的メディア展開
わたし自身が仕事として長く身を置いた「新聞」も、80年前の敗戦まで、戦意高揚の一翼を担っていました。その観点から興味深く感じたのは「Ⅲ 国策宣伝の多角的メディア展開」の展示です。
新聞社のポスターが3点展示されていました。このうち東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)の「“第二朝刊”を発行」のポスターは日中戦争が始まった1937年のものです。「新聞界空前の奉仕!」「“第二朝刊”を發行」「一日二回配達」「支那事変と我社の飛躍」。買い求めた図録には以下の解説があります。
東京日日新聞(現・毎日新聞)は昭和12年9月から既存の朝刊に加えて第二朝刊を発行した。しかし戦局の悪化により次第にページ数が少なくなり、昭和19年には夕刊が廃止された。
「第二朝刊」は今日の夕刊に相当する紙面です。当時、ラジオ放送はあったものの、情報を大量に伝達する速報メディアとして、新聞は圧倒的な存在でした。戦争が始まれば、戦況の速報は新聞の最大の売り物でした。戦意高揚は、新聞社の利益を上げることにつながっていました。そのことをこのポスターは端的に示しています。
もう一つ、朝日新聞社の「軍用機献納運動強化」のポスターは、1939年のもの。編隊を組んで飛行する迷彩模様の軍用機を背景に「朝日新聞社提唱 軍用機献納運動強化」「陸海軍献納 全日本号 100機」「千機!二千機!われらの手で!」との文面です。解説は以下の通りです。今日の感覚からすれば「こんなことまでやっていたのか」との驚きもあります。
朝日新聞社は日中戦争勃発後すぐに軍用機の献納運動を提唱し、募金を呼びかけた。献納機は「全日本号」と名付けられ、複数回にわたって陸軍・海軍に献納された。
日中戦争から1941年12月の太平洋戦争開戦へと至る時期に、日本の新聞は統合が進み、国家統制のもとに置かれました。地方紙に記事を配信していた同盟通信は政府からも資金を得ていました。戦況は軍の公式発表である「大本営発表」の枠内でしか報道されず、1942年のミッドウエー海戦で戦果が誇大に、損害は過少に発表されて以後、実相が国民に知らされないまま、戦争は進められました。その結末が、80年前の日本の敗戦です。日本にも、戦場になったアジア各国にも、戦闘要員だけでなく住民におびただしい犠牲を生んだことは忘れてはならないと思います。
戦争を通じて日本の新聞は、全国紙とほぼ単県を発行エリアとする1県1紙の地方紙の枠組みに再編されました。基本的に戦後も維持され今日に至っています。同盟通信は1945年10月末に解散し、11月1日に共同通信社と時事通信社が発足しました。
この20年間で社会の情報流通は激変し、新聞にかつてのような存在感はありません。同じ社会に生きていながら、SNSを通じて見えている風景、価値観が個々人で異なるような情報環境です。「マスメディア」の「マス」自体、社会的な意味合いを見直さなければならないとも感じています。そうであっても、「戦争とメディア」の歴史的な教訓の意義は変わりがありません。組織ジャーナリズムの中で、この教訓は継承しなければならないとの思いを強めています。

【写真】特別企画展の図録(右)とチラシ
※参考過去記事