ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

軍事最優先の下で人命は軽視される~オスプレイ墜落と82年前の日本の戦争の底流に共通すること

 昨年の春から2年間の予定で、東京近郊の大学で「文章作法」の講座の非常勤講師を務めています。いい文章を書くには、日ごろから社会とのかかわりを意識しておくことが大事だとアドバイスしており、その一助として授業では毎回、時々のニュースを1件取り上げて、東京発行の新聞各紙がどのように報じたか、紙面を元に比較して解説しています。同じ出来事でも新聞によって時に取り上げ方に顕著な差があることを通じて、ものの見方はみな同じではなく、この社会には多様な考え方があること、その多様性自体に価値があることを話しています。価値観の比較という面では、一覧性に優れた新聞は最適の教材です。
 先日は、鹿児島県・屋久島沖の米軍オスプレイ墜落を2週続けて取り上げました。このブログでも書いたように、墜落で浮き彫りになったことは何か。とりわけ、日本政府が住民を守るために米軍に対して何をしたのか、あるいはしなかったのかを巡って、東京発行の新聞各紙と沖縄の新聞では大きな隔たりがありました。琉球新報と沖縄タイムスは社説で繰り返し、問われているのは日本の「主権」のありようだと指摘しましたが、その視点は東京発行の各紙には希薄でした。

【写真】授業で投影したスライドの一部

 墜落から1週間がたって、米軍がようやくオスプレイ全機の飛行停止を決めたと日本で報じられたのは12月7日でした。新聞各紙にそのニュースが掲載されたのは8日付朝刊です。8日は太平洋戦争開戦から82年の日でした。いくつかの新聞には、オスプレイの飛行停止の記事とともに、「開戦82年」の記事も載っていました。オスプレイは開発段階から墜落を繰り返し、50人以上が犠牲になっていても、飛び続けていました。今回の墜落で8人もの人命が失われても、飛行停止に1週間余もかかったことは、軍事を最優先にした発想の下では人命は軽視される、ということを浮き彫りにしていると感じます。それは、82年前に始まり、アジア各地におびただしい犠牲を生んで日本の敗戦で終わったあの戦争も同じでした。

 敗色が濃厚になって日本軍が取り入れた「特攻」はその典型でした。航空機に爆弾を積み、パイロットもろとも自爆する航空特攻に対して、生みの親とされ敗戦とともに自死した日本海軍の大西瀧治郎中将は「統率の外道」という言葉を残していました。当時の日本軍には、もはやまともに戦う力が残っていなかったことを、大西がよく自覚していたことを示すものとして知られ、靖国神社の付属施設「遊就館」の展示でも、この言葉は紹介されています。それだけの劣勢なら、一日でも早く停戦に持って行くのが合理的な思考のはずです。しかし、日本ではそうした思考は機能しませんでした。
 沖縄戦では、本土決戦への時間稼ぎとして沖縄は捨て石にされ、おびただしい住民の犠牲を生みました。もし戦争が1945年8月以降も継続し、本土決戦が現実のものになっていたら、どれだけの人命が失われていたか。本土決戦を主張していた日本の軍部を「狂気」が覆っていたのではないかと思います。
 「軍隊は住民を守らない」とは、沖縄戦の大きな教訓の一つです。折しも、イスラエルのガザ地区侵攻で、イスラエル軍が人質になっていた自国民3人を誤射して殺害しました。教訓が教訓として正しいことが証明されてしまった、やるせないニュースです。
 もう一つ、ロシアのウクライナ侵攻も続いています。そういう中で迎えた「12月8日」でしたが、東京発行の新聞各紙には、関連のニュースは決して多くはありませんでした。今日のオスプレイの墜落やガザ侵攻、ウクライナ侵攻と、82年前に始まった日本の戦争は「人命軽視」という本質が通底しています。これまでのありとあらゆる戦争は、いかに仰々しい大義名分をかかげていようとも、戦争である限り「人命軽視」であることに変わりはありません。戦争体験の継承が必要な理由は、戦争のその本質を社会で共有する点にあるのだと、あらためて感じます。40年間、マスメディアの組織ジャーナリズムの中で働いてきて思うのは「ジャーナリズムの究極の役割は戦争を起こさせないこと、起こってしまった戦争は一刻も早く終わらせることにある」ということです。授業で「82年前の開戦」の記事を紹介しながら、ことしはその数が決して多くはないことを、少なからず残念に思いました。

 東京発行新聞各紙の12月8日付朝刊、9日付朝刊に掲載された「開戦82年」の関連記事で目にとまったものの見出しを、以下に書きとめておきます。

【12月8日付朝刊】
▼朝日新聞
第3社会面「真珠湾の『軍神』国民の視線一変/太平洋戦争開戦82年 たたえられた戦死 戦後はなじる人も」「プロパガンダ 現代にもあふれる/近現代史研究家 辻田真佐憲さん」

▼産経新聞
10面(オピニオン)大手町の片隅から「『真珠湾攻撃の日』に考える」乾正人(「コラムニスト」)

▼東京新聞
1面トップ「『戦争 終わらせる方が難しい』/終戦時首相 鈴木貫太郎 孫の思い/太平洋開戦82年」
社説「言葉の歯止めなき末に 開戦の日に考える」/「軽やかな平和運動」続く/世界が戦争止める力に

【12月9日付朝刊】
▼毎日新聞
第2社会面「民間空襲被害者 救済法求め集会/開戦82年」

▼産経新聞
第2社会面「戦争処理終わっていない/小野田元少尉捜索に携わった大野さん/日米開戦82年」

▼東京新聞
4面(国際・総合)「真珠湾攻撃82年『平和へ記憶継ぐ』オアフ島で式典」(時事)
第2社会面「救済 生きているうちに/開戦82年 空襲連 国会前で訴え」

 このほか、朝日新聞が12月10日付朝刊から3回続きで掲載した「戦争トラウマ」の企画は読みごたえがありました。初回は武田鉄矢さんが語る亡き父のこと。中国戦線に従軍した経験がある復員兵で、酒を飲んでは戦場での出来事を話す。その様子を武田さんは「語るなんてもんじゃなく、『うめき』みたいなものかな。バラバラな記憶が、お酒を飲んでうめき声と一緒に流れてくる」と表現しています。心を病んだ戦争帰還兵のことは、ベトナム戦争を機にPTSDとして知られるようになりました。それ以前の戦争、日本の戦争でも、同じことはあった可能性があります。今後、日本でも掘り起こしが進む可能性がある、との識者のコメントも載っていました。

【写真】12月中旬の授業日、大学のキャンパスのイチョウ並木は見ごろも終盤にさしかかっていたようでした。黄色い落ち葉が絨毯のようでした