ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

この夏 「現場」のススメ~関東大震災100年、敗戦から78年、 私家版 史跡ガイド

 東京近郊の大学で昨年春から週に1回、非常勤講師として「文章作法」の講座を受け持っています。本年度前期の授業が先日、無事に終了しました。履修生たちの文章力はそれぞれに上がっており、講師としてうれしい限りです。
 前期は作文の指導が中心でした。自分ならではの文章にするには、自分にしか書けないこと、自分だけの経験やエピソードを書くのがいちばんです。その経験やエピソードが今の自分をどう形作ってきたかをうまく書くことができれば、自分を表現し、自分をアピールできる文章になります。
 授業で紹介した参考書籍の一つに、「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」(新潮文庫)があります。作家の故井上ひさしさんが1996年11月に、岩手県一関市で3日間にわたって講師を務めた作文教室での講話と受講者の作文、井上さんの添削を収めています。冒頭に井上さんは以下のように話しています。

「作文の秘訣を一言でいえば、自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書くということだけなんですね」
「書いたものが面白いというのは、その人にしか起こっていない、その人しか考えないこと、その人しか思いつかないことが、とても読みやすい文章で書いてある。それがみんなの心を動かす」

 わたし自身、長らくマスメディアの組織ジャーナリズムに身を置き、文章を書くこと、文章をチェックすることを仕事としてきました。その傍らで、記者職を志望する大学生の作文も指導したり、勤務先では採用担当者としての立場でも、少なくない作文を目にしてきました。その経験から言っても、井上さんのこの言葉は至言だと感じます。

 ただし、40年も50年も生きてきた大人ならともかく、人生経験が20年ほどの大学生にとっては、「自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書くということだけ」と言われても、そう簡単ではありません。若いなりにまず自分の内心、内面を豊かにしていくことが必要です。
 わたしが履修生に奨めているのは、まず新聞など手間もコストもかけて発信されているニュースに日常的に触れることです。社会がどうなっているのか、何が起きているのかを知るためです。その際、複数のメディア、例えば複数の新聞を読み比べることが重要です。社会にどれぐらいの意見や考え方の幅があるのかを知ることができるからです。その中で自分の考えを持ち、その考えが社会の中ではどのようなポジションにあるのか、多数派か少数派か、などが自覚できるようになれば、書く文章にもおのずと社会性が深まってきます。
 もう一つ、履修生に奨めているのは、「ニュースの現場に足を運んでみること」です。現場に立ってみること、それ自体が自分の固有の経験です。そこで何かを感じたり、新たな気付きや学びを得ることもあるはずです。「より良い時間を過ごす」「より良い人生を生きる」ということにつながります。そうした日常の積み重ねは、文章を書く力にも反映されます。
 前期最後の授業では、夏休みに気軽に行けるところとして、履修生たちにいくつかの東京近辺の「ニュースの現場」を紹介しました。一つは、折しもことしが発生から100年の関東大震災です。9月1日に向けて、マスメディアでも多彩な報道が続きます。もう一つは戦争の史跡です。8月6日の広島原爆の日、9日の長崎原爆の日、そして15日の終戦の日と、8月は例年、1945年に日本の敗戦で終わった戦争に関連した報道がマスメディアで続きます。関東大震災は100年前、日本の敗戦も78年前のことであり、20歳前後の世代には同時代の実感を伴わない「歴史」なのかもしれません。しかし、大きな報道になるのは、今日、なお教訓として生かせること、引き継がなければならないことがあるからです。やはり「ニュース」なのです。
 以下は、わたしが履修生たちに紹介した「現場」です。その場に立ち、往事に思いを巡らせてみれば、それぞれに感じ取ることができるものがあるだろうと思います。


【関東大震災】
 1923年9月1日11時58分発生
▽東京都墨田区・横網町公園
 陸軍被服廠の跡地。地震発生直後から近隣住民が、空き地だったこの地に家財とともに避難しました。近隣の火災の火の粉が家財道具などに燃え移り、火災旋風を巻き起こしました。この地だけで、3万8千人が犠牲になりました。
 ※出典:「都立横網町公園の歴史」
 https://tokyoireikyoukai.or.jp/park/history.html
 ※ガイダンス映像「炎の記憶」
 https://www.youtube.com/watch?v=tObiQYuuwQY

www.youtube.com

 アクセス 都営地下鉄大江戸線 両国駅、JR総武線 両国駅から徒歩

・東京都慰霊堂
 関東大震災の遭難者約5万8千人の遺骨を納めるための霊堂として、1930(昭和5)年に完成しました。外観は神社仏閣様式、納骨室のある三重塔は中国、インド風の様式、平面的には教会で見られるバシリカ様式(内部に列柱を設け空間を分ける)とし、内部の壁や天井にはアラベスク的紋様も採用されています。
 太平洋戦争中の東京空襲犠牲者の遺骨も慰霊塔に納められました。震災、戦災合わせて約16万3千体の遺骨を安置しています。
 堂内には祭壇、焼香台があり、震災の状況を描いた絵画、空襲を受けた後の東京の写真などが展示されています。訪ねたときはいつも、重く張り詰めた空気の中で焼香し、目を閉じて手を合わせています。
 ※出典:「東京都慰霊堂の歴史」
 https://tokyoireikyoukai.or.jp/ireidou/history.html

・東京都復興記念館
 関東大震災の惨禍を後世に伝え、官民協力して東京を復興させた大事業を記念するため、震災記念堂(現東京都慰霊堂)の付帯施設として1931(昭和6)年に建てられました。大震災の被害、救援、復興を表す遺品や被災物、絵画、写真、図表などを展示。その後、東京空襲の被害や当時の状況、復興に向けた取り組みを伝える写真、図表などの展示を加えました。
 ※出典:「記念館の歴史」
 https://tokyoireikyoukai.or.jp/museum/history.html

・関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑
 「関東大震災時の混乱のなかで、あやまった策動と流言ひ語により尊い命を奪われた多くの朝鮮人を追悼し、二度とこのような不幸な歴史を繰り返さないことを願い、震災50周年を記念して昭和48年(1973年)に『関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会』により立てられた碑です。」
 ※都立横網町公園「施設案内」
 https://tokyoireikyoukai.or.jp/park/shisetsu.html#shisetu4

▽横浜・山下公園(横浜市中区山下町)
 火災で横浜市街は壊滅しました。復興事業として、横浜市内の瓦礫などを使って海を埋め立て、山下公園が造成されました。近くの横浜開港資料館に関連資料が展示されています。
 ちなみに山下公園に隣接して係留されている貨客船「氷川丸」は戦争中、日本海軍に徴用されて特設病院船として使用されました。日本郵船の姉妹船には日枝丸、平安丸の2隻がありました。両船は潜水母艦に改造され、ともに米軍の攻撃を受けて沈没しています。氷川丸は戦争の史跡でもあるのです。
 平安丸は日本海軍の根拠地があったトラック諸島の海底で今もなお形をとどめ、ダイビングスポットになっているようです。
 ※参考過去記事

news-worker.hatenablog.com

 関東大震災の今日的な教訓は、防災、減災の観点だけではありません。混乱の中で「朝鮮人が暴動を起こした」などの流言、デマが飛び、朝鮮人や中国人らが虐殺された出来事は、ヘイトスピーチやフェイクニュース、歴史修正主義が社会の課題になっている今、史実として広く知られるべきことだろうと思います。

【戦争の爪跡】
▽東京大空襲
 1945年3月10日未明、東京の下町一帯を米軍B29爆撃機の大編隊が空襲しました。焼夷弾によって木造家屋が炎上して大火災となり、一晩で10万人以上が犠牲になったと推計されます。江東区から墨田区近辺を歩くと、犠牲者を悼む慰霊碑などをいくつも目にします。

・言問橋と隅田公園の慰霊碑
東京メトロや東武線の浅草駅前にある吾妻橋から一つ、隅田川の上流にあるのが言問橋(ことといばし)です。大空襲の当夜、炎に追われた避難者が、浅草側と向島側の双方から言問橋でぶつかり、隅田川に落ちて水死した犠牲者も少なくありませんでした。言問橋の親柱(台座)は当時のままです。
 犠牲者の遺体は各地で仮埋葬されました。隅田川沿いにある隅田公園もその一つです。言問橋の北側には慰霊碑が立っています。供花が絶えることはありません。

 ※参考過去記事 

news-worker.hatenablog.com

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・殉職した電話局職員の慰霊碑
 「NTT石原ビル」 東京都墨田区石原4丁目36-1
 大空襲の当夜、この地にあった墨田電話局では前夜から男性職員3人、女性交換手28人が勤務しており、最後まで職場にとどまって全員死亡しました。「由来」の説明プレートによると、最年少の交換手は15歳だったとのことです。通信インフラ網の維持は戦争遂行にとっても重要なことであり、早期に職場を離れて避難することなど、許されることではなかったのだろうと、容易に想像が付きます。若年労働力を根こそぎ動員せざるをえなかった、無謀な戦争の一面もあらためてよく分かると感じました。

 ※参考過去記事 

news-worker.hatenablog.com

・焼け残ったイチョウの木
 戦後の東京はめざましい復興を遂げ、今も再開発が進んで街並みは日々、変化しています。しかし、よく目を凝らしていけば、戦争の爪痕は街の中に残っています。戦前から場所が変わらない神社の中に、そうした場所があることに気付きました。紹介する二つの神社では、大空襲で焼かれながらも戦後、新たな芽を出し“復活”したイチョウの木を見ることができます。幹に残る焼け焦げた後が、一帯がかつて未曽有の空襲に見舞われたことを確かに物語っています。
 東京には、ほかにも同じような場所があるだろうと思います。
 江島杉山神社:東京都墨田区千歳1−8−2

 飛木稲荷神社:東京都墨田区押上2−39−6

 ※参考過去記事 

news-worker.hatenablog.com

news-worker.hatenablog.com・昭和天皇が被害を視察
富岡八幡宮:東京都江東区富岡1-20-3

※参考過去記事

news-worker.hatenablog.com

 

▽二・二六事件の史跡
 直接の戦争の史跡ではないのですが、先日、渋谷の慰霊像を訪ねて「東京の街角にこんな場所があったのか」と少なからず驚いたこともあり、紹介します。

1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて発生した日本のクーデター未遂事件。
 皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて蜂起し、政府要人を襲撃するとともに永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠したが、最終的に青年将校達は下士官兵を原隊に帰還させ、自決した一部を除いて投降したことで収束した。
※出典・ウイキペディア「二・二六事件」

・刑死した反乱将校、事件の犠牲者らの慰霊像
  東京都渋谷区宇田川町1−10 渋谷税務署前交差点付近
反乱軍の将校らはその年と翌年に、代々木の陸軍刑務所で銃殺刑に処せられました。慰霊像は1965年2月に建立。場所は刑務所跡地の一角です。

 ※参考過去記事 

news-worker.hatenablog.com

・高橋是清元首相、蔵相の私邸
  高橋是清翁記念公園 東京都港区赤坂7丁目3-39
  高橋是清邸・母屋 東京都小金井市・江戸東京たてもの園

 ※2階寝室で反乱軍が高橋是清を殺害

 ※参考過去記事 

news-worker.hatenablog.com

・岩手県奥州市水沢区 斎藤実記念館
 東京近辺からは遠く離れていますが、二・二六事件で暗殺された内大臣、元首相、元海軍大将の斎藤実の記念館が出身地の水沢にあります。血に染まった衣類や、銃弾でヒビが入った鏡台など、事件の生々しい資料が多数、展示されています。夫人が事件後も手元に残していました。

 ※参考過去記事 

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