南洋に眠る平安丸が問い掛けるもの~企画展「グランブルーの静寂~もうひとつの氷川丸~」

 横浜市の山下公園に係留されている貨客船「氷川丸」は戦前の1930年に建造されました。シアトルへの北太平洋航路に就航しますが、太平洋戦争では海軍に徴用されて病院船に。戦後は引き上げ船として運航された後に太平洋航路に復帰し、1960年に引退しました。
 ※日本郵船:船の歴史「氷川丸」
  http://www.nyk.com/rekishi/knowledge/history_luxury/01/
 その氷川丸には、ほぼ同じ設計で同じ時期に建造された姉妹船「平安丸」「日枝丸」がありました。そのうち平安丸は戦時中、特設潜水母艦となり1944年2月、南洋の日本海軍の根拠地だったトラック諸島に停泊中に米軍の大空襲に遭い、他の多数の艦船とともに沈没しました。その海底の現在の平安丸の様子を紹介する企画展「グランブルーの静寂~もうひとつの氷川丸~」が4月22日(日)まで横浜市の「日本郵船歴史博物館」で開催。先日、見学してきました。
 ※日本郵船歴史博物館・日本郵船氷川丸
  http://www.nyk.com/rekishi/

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 トラック諸島の現在の呼び名はチューク諸島。ミクロネシア連邦に属しています。ウイキペディア「チューク諸島」によると、歴史的にはスペイン、次いでドイツの植民地を経て、第1次世界大戦終結後に日本の委任統治領となり、南洋庁の支庁が置かれました。武装化は禁止されていましたが、1933年の日本の国際連盟脱退、36年のワシントン軍縮条約失効などにより、加速度的に基地の整備が推進されました。米海軍の本拠地のハワイと米植民地のフィリピンの間に位置し、戦略上の要衝でした。一帯は広大な環礁で、ウイキペディア「トラック島空襲」によると、沈んでいる日本の艦船は約40隻に上り、うち30隻以上は平安丸のように徴用された民間の商船です。
 これらの沈没艦船は、原形をとどめているものも多く、現在はダイビングスポットになっているそうです。企画展では、貨客船時代の平安丸の写真や関連資料とともに、海底に眠る現在の様子の水中写真も数多く展示されていました。静寂に包まれた青色の光の中に浮かぶ平安丸の船体は、73年前に日本の敗戦で終結した戦争が確かにあったことを改めて訴えかけているような気がしました。

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 写真:横浜港の氷川丸


 印象に残ったのは、戦争を生き延びた氷川丸とそうならなかった平安丸の違いの解説です。氷川丸は徴用後、病院船になりました。船体に大きく十字が描かれ、戦時であっても攻撃は禁じられていました。戦場から日本本土へ傷病兵を輸送しました。対して平安丸は特設潜水母艦として、潜水艦へ魚雷や物資を補給し、簡単な修理も行うほか乗組員の休養も担当していました。直接の戦闘には参加しない補助艦ではあったものの、敵の攻撃目標でした。その船種の違いが運命を分けました。戦争では、ちょっとした偶然が生死の別を分けた例は数多くあったことと思います。船にも、人間にも似た運命の別と呼ぶべきものがあるのだと感じました。
 戦争は人間の個々、一人一人の運命を弄びます。自分で自分の未来を決めることができない。だから戦争は悲惨であり、決して正当だと認めることができないのです。見学を終えて、そんな思いも新たにしました。
 このブログでも以前、紹介したことがありますが、太平洋戦争では民間船舶や船員の大半が軍事徴用され物資輸送や兵員の輸送などに従事した結果、1万5518隻の民間船舶が撃沈され、6万609人の船員が犠牲となりました。軍人の死亡比率を大きく上回るとのことです。
 船員でつくる個人加盟の労働組合「全日本海員組合」は、それらの船の在りし日の姿を記録した施設「戦没した船と海員の資料館」を神戸市に設けています。ネット上のサイトでは、都道府県別の戦没船員の数、インド洋から太平洋にかけての戦没船のおおよその位置を見ることができます。平安丸を始めトラック諸島の沈没船も網羅しています。
 ※沈没した船と海員の資料館
  http://www.jsu.or.jp/siryo/

 ひとたび戦争となると何が起きるのか、民間船と船員の戦争被害の歴史は貴重な教訓ですし、その教訓を生かすこと、2度と戦争をしないことこそが、犠牲者の慰霊の唯一の方策だろうと思います。