東京大空襲を今に伝えるイチョウの木

 太平洋戦争の末期、今から72年前の1945年3月10日未明、東京の下町一帯は米軍のB29爆撃機の大編隊による空襲を受け、一晩で10万人以上が犠牲になりました。「東京大空襲」です。
 これまでもこのブログで触れてきましたが、新聞労連で専従役員だった時に、空襲当時の新聞記事を調べて、人的被害が全く報じられていなかったことを知りました。「大本営発表」の枠内でしか報道が許されなかったためです。実際の大本営発表がどのようなものであったかを実際の紙面で目にした初めての経験でした。
 勤務先の異動に伴い6年前の2011年、東京から大阪に移り住み、3年間を過ごしました。その間、東京に3月10日を皮切りにした大空襲があったのと同じように、大阪にも大空襲があったことを知りました。とりわけ犠牲者が数百人に上った1945年8月14日の空襲は、日本の敗北で戦争が終結する前日のことで、「あと1日」を生き延びることを許さなかった戦争のむごさが、今も強く印象に残っています。
 戦争の帰趨はとっくに定まっていたのに、「本土決戦」だ何だと戦争をやめきれずにいた間に、日本の主だった都市は空襲で壊滅的な打撃を受け、沖縄の地上戦、広島、長崎への原爆投下へと至ります。日本中、どこにでも、戦闘員だけでなく住民のおびただしい犠牲の歴史がそれぞれにあります。
そんなことを考えるようになって、3年前の2014年に東京に戻ってからは、毎年3月10日が近づくと、資料展が開催されれば見学に行ったり、多くの犠牲者が出た現地へ慰霊碑を訪ねたりするようになっています。
 ※東京大空襲に言及したこのブログの過去記事はカテゴリー「東京大空襲」を参照してください


 今年、このブログで紹介するのは、東京都墨田区の神社2カ所に残る2本のイチョウの木です。いずれも72年前の空襲を経て、当時と同じ場所に立っています。
 一カ所はJR総武線両国駅から南に歩いて10分足らずの江島杉山神社。境内南側の鳥居と並んで昭和初期に建てられた神輿庫があり、その隣りにイチョウが立っています。黒く焼かれた幹が高さ3メートルほどまで残っており、その幹を包むように若い幹がそびえ立っています。社務所でうかがった話では、東京大空襲で一帯の住居や建物は灰燼に帰し、唯一、神輿庫が残りました。隣りのイチョウが焼かれながらも、幹に水分があったために神輿庫を守ったような形になったらしい、とのことでした。イチョウは黒焦げに焼かれながら戦後、新しい芽を出し、今の若い幹が成長しました。


 もう一カ所は東京メトロ半蔵門線京成押上線押上駅から徒歩で約5分の飛木(とびき)稲荷神社です。境内の真ん中にひときわ目を引く「ご神木」のイチョウがそびえています。よく見ると、幹には真っ黒な焦げ跡があり、「身代わり飛木の焼けイチョウ」と呼ばれています。案内板によると、このイチョウはわが身を焦がしながら大空襲の火災を食い止め、町の延焼を防ぎ、そのために多くの人が助かりました。確かに、この辺りは大空襲の被災地の境界線になります。地図を見るとよく分かるのですが、江東区の深川地区や墨田区の本所地区など空襲の被災地は戦後、碁盤の目状に整然と区画が整理されました。対して空襲による焼失を免れた墨田区向島地区は、昔ながらの小路が入り組んでいます。なお、焼けイチョウは戦後、数年を経て緑の芽を吹き出したとのことです。


 日本の敗戦からことしで72年。今や戦争体験の風化が危惧されます。墨田区界隈も今や町のシンボルの東京スカイツリーがそびえ立ち、戦争の記憶は遠く薄れつつあるようにも思えます。そんな中にあって、今も生き続ける2本のイチョウの木は、かつて一晩に10万人以上が犠牲になった惨劇がこの地で間違いなくあったことを、後世に伝え続けるのだと思います。
 その役割は、ジャーナリズムもまた同じです。戦争を直接知る世代はそう遠くないうちにいなくなります。戦争を直接体験していないわたしたちは、戦争を体験した人たちと同じ体験をそのまま追体験することはできませんが、体験を記録に残し、語り継いでいくことはできるはずです。毎年3月10日は、そんなことも考える日になっています。

▽江島杉山神社 東京都墨田区千歳1−8−2
  http://ejimasugiyama.shin-to.com/

▽飛木稲荷神社 東京都墨田区押上2−39−6
  http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/13_sumida/13015.html