ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

付記:1985年8月12日夜のこと~事件事故を報じる意義、労働組合の役割など

 一つ前の記事(「沈まぬ太陽」山崎豊子さんインタビューの紹介~ジャンボ機事故から39年)への付記として書きとめておきます。39年前の日本航空機墜落事故のことです。
 1985年8月12日、羽田から大阪・伊丹に向かっていた日本航空123便のボーイング747ジャンボ機が群馬県の山中に墜落、520人が犠牲になりました。夕方、羽田を離陸して間もなく機体がコントロール不能になり、ダッチロールを続けた後、レーダーから消えました。自衛隊の偵察機が山中で炎上を確認したものの、救助要員が現地に入ることができたのは翌13日朝になった-。そんな風に記憶しています。
 当時、わたしは記者になって3年目。勤務先の通信社の青森支局にいました。事故当夜、各新聞社の東京本社の社会部や関東近辺の支局の記者は全員呼び出しで、乏しい情報しかないことにもどかしさを感じながら、考えつく限りのルートで、何グループにも分かれて現場を目指しました。放送局も同様でした。直接の取材に加わっていなくても、おそらく全国の新聞記者が、やきもきしながら推移を見守ったはずです。
 わたしはその数少ない例外だったと思います。唯一だったかもしれません。事故を知ったのは13日付の青森県の地元紙、東奥日報の朝刊を見た時でした。見出しは覚えていませんが、1面トップの大きな扱いでした。自衛隊の偵察機が撮影したという、暗闇に炎が浮かぶ写真が載っていた記憶があります。丸まる一晩、事故を知らずにいました。
 実は2泊3日で下北半島に、天然記念物の「北限のサル」とカモシカの取材に行っていました。宮城県の大学に北限のサルの研究者がいて、毎年8月、学生と現地に泊まり込み、自然保護の活動をしている民間グループと一緒に、生息数などのフィールド調査をしていました。同行させてもらい、後日、ルポ風の長めの記事を書こうと考えていました。
 墜落事故は2泊目の夜のことだったと思います。宿舎はユースホステルで、テレビを見るという場所ではありませんでしたから、ニュースも見ていませんでした。何よりその日は朝4時ぐらいに起床し、日の出とともに、山の中の道なき藪を、サルやカモシカの姿を求めて走り回っていました。疲れ果てて、夕食後は早々に就寝していたと思います。
 翌朝、朝食の時に新聞を見て驚きました。ネットはもちろんのこと、携帯電話もない時代でした。世の中の情報流通は新聞とテレビ、ラジオでした。驚きはしましたが、比較的冷静に受け止めていたようにも記憶しています。仮に前夜のうちに事故を知ったとしても、経験が浅い若い記者が、現場からも、所属の支局からも遠く離れた場所にいてできることは、ほとんどなかったはずです。
 その日の午後、青森市の支局に戻りました。本社が全国の支社局から大学山岳部出身の記者を集めて、墜落現場の取材班の編成を進めていました。隣の支局の同期が山岳部出身でした。事故発生当夜のうちに、道具をそろえて自発的に準備を始めていたと後日、知りました。わたしの支局では、わたしを含めてそうした経歴の記者はおらず、いつもと同じ夏の日々が過ぎて行きました。
 現場は凄惨を極めていたと聞きました。今なら、惨事取材を経験した記者には精神的に大きな負荷がかかっており、組織としてメンタル面のケアに努めることが必要との知見は、マスメディア企業にも一定程度、広がっていると思います。当時はそうではありませんでした。困難を精神論で乗り越える、という気風はあちこちに根強くあったように思います。
 事故機は東京から大阪に向かっていたこともあり、犠牲になった乗客も東京近辺と関西圏に集中していました。遺族取材などの関連取材も青森ではありませんでした。そんな中で覚えているのは、新聞各紙が犠牲者の身元をただ報じるのではなく、どういう事情で123便に乗り合わせていたのかも伝えていたことです。乗客では、歌手の坂本九さんがよく知られています。基幹路線、夏休みの行楽、帰省シーズンとあって、出張のビジネス客や家族連れも多く乗り合わせていました。伊丹空港に着けば、それぞれに次の予定と行動があったはずでした。個々人の事情を読んで、その日常が不意に奪われた惨事だったことがよく分かりました。
 大規模惨事の取材では今なお、メディアスクラムなど解決しきれていない課題があります。その解決に努めるのは当然として、マスメディアの組織ジャーナリズムが事件や事故を取材し、報じ続けるのは、それによって教訓をくみ取り、社会で共有し、再発を防ぐためです。その意義はこれからも変わりません。

 この事故にわたしは、取材記者としては関わることはありませんでしたが、後年、労働組合運動の中で、あらためてこの事故のことを考えるようになりました。一つ前の記事に書いた通りです。きっかけは山崎豊子さんの小説「沈まぬ太陽」でした。その後の航空界の労組の方々との交流から「空の絶対安全」の意味を知りました。航空機の安全運航は航空会社の責任ですが、実際に運航にかかわるのは現場で働いている人たちです。一人一人の権利と生活が守られていなければ、安全運航も危うくなります。そこに労働組合の役割と意義があります。
 翻って、組織ジャーナリズムはどうでしょうか。社会の人々の「知る権利」に奉仕し、報道の自由、さらには表現の自由を守ることができるのは、そこで働く一人一人の権利と生活が守られてこそだろうと思います。

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