8月29日付の東京新聞朝刊に、興味深い記事が掲載されていました。1974年8月の三菱重工爆破事件など、74年から75年にかけて起きたいわゆる「連続企業爆破事件」を引き起こした「東アジア反日武装戦線」のうち「抗日パルチザン義勇軍 さそり」を名乗ったグループのメンバーで、服役中の黒川芳正(76歳)との手紙のやり取りです。同紙のサイトで読むことができます。
▽「桐島聡容疑者『どうしよう。こんなことになるなんて』 連続企業爆破事件の仲間に見せた動揺 逃げ続けた理由は…」=2024年8月29日
https://www.tokyo-np.co.jp/article/350426
※紙面掲載後に届いた手紙の内容も反映させているため、紙面掲載の記事とは異なるようです。
黒川受刑囚と同じく「さそり」に所属して指名手配され、約半世紀にわたる逃亡の末に今年1月、名乗り出た桐島聡に触れています。桐島聡のことは、このブログの以前の記事で触れました。名乗り出た時には末期がんで、直後に死亡しました。警視庁の捜査員に対し「最期は本名で迎えたい」と話していたとのことです。この一言が気になっていました。以前のブログ記事では以下のように書きました。「大道寺夫婦」とは、三菱重工爆破事件などを引き起こした大道寺将司、あや子夫婦のことです。
「最期は本名で」とは、自分は最後まで逃げ切ってみせた、ということを歴史に残したかったのか。そうではなくて、何らか過去を総括したかったのかもしれない、とも思います。爆弾事件に至った思いや心情などを残しておきたい、ということだったのか。大道寺夫婦の軌跡は「狼煙を見よ」という優れた作品によって後世に残ります。犯罪は犯罪として、「桐島聡」が何かを語り残せば、それも歴史の記録になっていたはずです。いずれにせよ、もはや「最期は本名で」の真意は想像するしかありません。
この「最期は本名で」と口にした桐島聡について、東京新聞の記事は黒川受刑者の見方を、以下のように一問一答で紹介しています。
爆弾の設置役だった桐島は当時、負傷者が出たとの報道に接し「まいったな、どうしよう。こんなことになるなんて」と話していた。ショックを受けて動揺し、自責の念にかられていたようだ。私の「(活動を)続けよう」との説得を受け容れつつも、その時の表情や雰囲気で「心底からは納得していないな」と感じた。
だから桐島は被害者への贖罪(しょくざい)として、服役以上に過酷な、死ぬ日までの逃亡生活を選んだのではないか。桐島にも日雇い労働の経験があったこと、人当たりの良さと、自制心の強さがそれを成功させたと思う。
—最後に名乗り出た理由をどう考える
贖罪行為としての逃避行の終了通知であり、自身の存在を歴史に残すためだったのではないか。桐島が名乗り出たことは驚きで、自分も改めて当時の行為を深く思索し、書き残そうとしている。もし当時、非暴力の手段で戦争という究極の暴力をなくせる方法が分かっていれば、あの(事件という)選択には至っていなかった。
「自身の存在を歴史に残すためだったのではないか」との見方を示していることを興味深く感じました。「もし当時、非暴力の手段で戦争という究極の暴力をなくせる方法が分かっていれば、あの選択には至っていなかった」との述懐も、歴史の記録にとどめておいていいと思います。