新聞記者の仕事には「抜いた、抜かれた」の競争が付き物と言われてきました。確かに、複数の新聞社、通信社やテレビ局の記者たちは、同じ持ち場、例えば警察なら警察担当の記者の間で日々、取材にしのぎを削っています。他社を出し抜く独自のニュースを書けば、所属している組織の中で褒められ、大きなニュースを抜かれれば怒られます。独自ダネを多く出せば、組織の中での評価は高まります。
若いころは、この競争に疑問を感じていました。「○○事件で○○を逮捕へ」は、事件を担当する記者にとっては、もっとも分かりやすい独自ダネの一つです。勝ち負けが明白です。しかし、時間がたてば、それも多くの場合は半日ほどで容疑者は逮捕され、当局から発表があります。いずれ分かることを、せいぜい半日から1日早く報じることにどれだけの意味があるのか、と思っていた時期がありました。
しかし、発表の前に捜査の動きをつかむには、相応の情報源をふだんから持っていなければなりません。そして、取材対象の組織の深いところに情報源を持っていることで、その組織が表に出したくない情報にもアクセスできる可能性は高まります。組織的に隠蔽された不祥事はその典型例です。組織がひた隠しにしている不祥事のことを知っているのは、それに関与した内部関係者です。
そうしたことに気付いた時に、「公権力の監視」の意味が少し分かるような気がしました。それからは、どんなささやかなニュースであっても、他に先駆けて報じる独自ダネには相応の意義があり、その意義に見合った評価がされればいい、と考えるようになりました。その報道がなければ、永遠に日の目を見ることがなかったようなこと、そして、社会がいい方向へ変わっていくきっかけになるような報道なら、最大限の評価がされていいと思います。
問題だと思うのは、その報道の意義に見合わない評価がされるケースです。記者クラブをベースにした仕事では、日々の「抜いた、抜かれた」の評価は、同じ記者クラブの同業他メディアとの比較です。その限りでは、他社を出し抜いたという意味で「独自ダネ」であり「特ダネ」です。しかし、記者クラブの中での競争とは、言ってみればランナーが新聞やテレビに限定された狭いサーキットです。社会に目を転じれば、サーキットの外でもさまざまな情報が発信され、流通しています。その視野を欠いた評価は、新聞、テレビの「内輪」だけのことに過ぎません。
インターネットが登場する以前、社会の情報流通は新聞とテレビが中心でした。とりわけ新聞の影響力は大きく、新聞が書かなければ社会にとって「ないも同然」でした。「内輪」の評価軸はそのまま社会全体に通用したかもしれません。それが内輪のことかどうかを意識すること自体が必要なかったでしょう。しかし、今は違います。新聞が書いていない情報も社会の人たちは知っています。良し悪しは別にして、新聞やテレビ以外にも、さまざまな情報が一元的にフラットに流通しています。そういう社会になっているのに、内輪でしか通用しない評価をそのまま社会全体で通じる評価のように扱うなら、そこに「情報の受け手」は意識されていないことになります。そんなことが続くなら、新聞やテレビの組織ジャーナリズムへの信頼を損なうことになりかねません。危惧しています。
※参考過去記事
新聞が書いていない情報も社会の人たちは知っている、その情報を新聞が書いていない、ということも含めて-。このことをずっと考えてきました。以下は、このブログの過去記事です。15年前も前のことなので、読みづらいかもしれませんが、一読いただければうれしいです。

【追記】2024年9月7日12時20分
「新聞協会賞、新聞技術賞、新聞経営賞受賞作」
https://www.pressnet.or.jp/about/commendation/kyoukai/works.html