ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

苦痛と絶望の中で、沈黙のまま死んでいったあまたの被爆者を忘れない~日本被団協のノーベル平和賞受賞決定に思う

 ことし2024年のノーベル平和賞は、日本全国の被爆者らでつくる日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が受賞することが10月11日、ノルウェーのノーベル賞委員会から発表されました。授賞理由は「核兵器のない世界の実現に尽力し、核兵器が二度と使われてはならないことを証言を通じて示してきた」ことだと報じられています。ひとたび核兵器が使われると人間に何をもたらすか。被爆者が身をもって体験を証言し続けてきたからこそ、「核兵器の廃絶」が国境を越えて人類が目指すべき共通の目標となることができたと思います。受賞決定を心から喜んでいます。
 11日夜、職場のテレビに同委員会の発表の中継が映り始めました。同時通訳の「被爆者」と話す声が耳に入ってきて、まもなく日本被団協の受賞決定だと分かりました。正直に言えば、最初はピンと来ませんでした。事前の予想でも名前は上がっていませんでした。何より、もっと早くに受賞のタイミングはあったと思っていました。
 毎年、ノーベル賞の発表の時期に合わせて、マスメディアは候補者をリストアップし予定稿を整備します。わたしも報道の現場にいた時には、その作業に加わったこともあります。日本被団協は20年以上も前から候補に入っていました。2009年に米大統領に就任して1年もたっていなかったオバマ氏が、核なき世界を呼びかけ行動したことを評価されて受賞した際には、「被爆者ではなく、原爆を投下した国の指導者に贈るのか」と、平和賞の政治性に疑問を感じたこともありました。
 その平和賞がこのタイミングで日本被団協に贈られるのは、ウクライナ侵攻を続けるロシアのプーチン大統領が核兵器を威迫に使ったり、中国が核戦力の増強に努めたり、などの情勢が背景にあるのだと思います。昨年のG7広島サミットでは、あろうことか被爆地で、抑止を大義名分に核兵器の保有を肯定し積極評価する「広島ビジョン」が採択される出来事もありました。そんな中で、核兵器廃絶を求めて声を上げ続けてきた被爆者たちの活動に平和賞が贈られることは、同じ思いの世界中の人たちを励まし、背中を押す大きな力になると思います。
 同時に、もう一つ思うことがあります。とりわけ、組織ジャーナリズムにかかわる上で忘れてはいけないことです。今でこそ、被爆者たちの声は世界中の多くの人たちに知られ、支持されています。しかし、最初からそうではなかった、ということです。それどころか、沈黙したまま、苦痛と絶望のうちに死んでいった、そうしたあまたの被爆者がいました。
 わたしがそのことを自覚したのは20年近く前です。通信社の社会部デスクを休職して新聞労連の委員長を務めていました。戦後60年の2005年8月、長崎で新聞や放送などマスメディアの労組が開いた集会に参加しました。テーマは「被爆60年・平和とメディアの役割」でした。パネルディスカッションで、長崎新聞論説委員(当時)の高橋信雄さんが指摘された言葉の数々を、少し長くなりますが、2005年当時にわたしが運営していた旧ブログ「ニュース・ワーカー」から引用します。

 なかでも高橋さんの指摘にはハッとさせられた。地元紙として曲がりなりにも被爆者の声を伝え、核廃絶を求める市民の声を代弁してきたが、これまで伝えきれなかったものも大きい、という。本当に支援が必要だった被爆者が、自らの思いを語ろうにも語れないまま、沈黙するしかないまま、とうの昔に絶望のうちに皆死んでいった、との指摘だ。
 今でこそ、新聞も被爆者の被爆体験を積極的に発掘し紹介しているが、これは実は最近のことなのだという。戦後20年間、被爆者は自らの体験を口にすることができず、沈黙するしかなかった。なぜか。被爆者差別があったからだ。長崎という地域社会の中にすら、被爆者に対する差別があった。日本人はみな、戦争の被害者という立場では同じはずなのに、差別ゆえに被爆者は声を上げることができなかった。メディアもまったく動かなかった。被爆者は身体的な苦痛に加え、精神的にも苦しまなければならなかった。そして、絶望のうちに死んでいった。
 多くの被爆者がそうやって死んでいった、死んでいくしかなかったことに、メディアはようやく気付いた。被爆者たちが死んでいった、まさにその当時は気付いていなかった。そのことに高橋さんは「痛恨の思いがある」と語った。そして、同じ戦争の被害を受けた者同士の間に差別を生み出したのは何かを考え続けることが、地元メディアの責務だと話した。
 また、戦争体験の風化があるとすれば、それはジャーナリズムから始まるのではないかとも訴えた。常に、戦争体験を掘り起こし、社会に伝えていく努力をしていれば風化は起こりえない。風化が始まるとすれば、ジャーナリズムがその努力を怠るようになったときだという。記者は被爆者の被爆体験を追体験することはできないが、体験を掘り起こしていくことで、被爆者の気持ちに近づくことはできるはずであり、ジャーナリストは被爆者が亡くなった後に、現代の語り部の役を果たさなければならない、と訴えた。

※ニュース・ワーカー「長崎で考えさせられたこと」=2005年8月11日
 http://newsworker.exblog.jp/2478939/

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 今回の平和賞受賞は、直接には声を上げ続けてきた被爆者たちへのリスペクトなのだと思います。しかし、それに先立って、身体の苦痛と精神の絶望の中で沈黙したまま死んでいったあまたの被爆者がいたことを忘れてはなりません。その同時代に、組織ジャーナリズムは無力でした。組織ジャーナリズムを長く仕事にしてきた先行世代の一人として、後続世代に受け継いでほしいことです。