ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

ゼネコン汚職と「無敗の男」~追想:検察取材と記者

 少し時間がたってしまいましたが、思うところが多々ある政治家を巡るニュースです。わたし自身が経験してきた「記者」や「組織ジャーナリズム」への考えも含めて、書きとめておきます。
 現職の国会議員では2番目の当選回数という衆院選当選15回の中村喜四郎元建設相が9月24日、茨城県庁で記者会見し、次の衆院選に立候補せず、政界を引退することを表明しました。1994年にゼネコン汚職事件で東京地検特捜部に逮捕、起訴され、無罪を主張。最高裁まで争いましたが懲役1年6月、追徴金1000万円の実刑が確定し、衆院議員を失職、服役しました。刑期満了後の2005年の衆院選で当選し、以後も連続当選を重ねていました。
 田中角栄元首相の秘書から政治キャリアを積み、43歳で建設相に就いた自民党建設族のホープでしたが、逮捕直前に自民党を離党。その後は無所属、改革クラブ所属などの経緯の後、2019年に立憲民主党に入党したことも話題になりました。
 裁判中も選挙のたびに当選し続け、選挙の強さは際だっていました。政界引退の表明を伝えるNHKニュースは冒頭、「建設大臣などを歴任し、かつてのゼネコン汚職事件で失職したあとも当選を重ねてきた立憲民主党の中村喜四郎衆議院議員」と紹介しています。

■NHK「立民 中村喜四郎 衆議院議員 政界引退の意向を表明」=2024年9月24日16:04
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240924/k10014590641000.html

 新聞各紙のデジタル版の見出しにも、選挙の強さを強調した「無敗の男」の表記が目立ちます。
■朝日新聞「立憲の中村喜四郎衆院議員、政界引退へ 当選15回の元『無敗の男』」=9月24日12:10
 https://digital.asahi.com/articles/ASS9R756MS9RUJHB001M.html
■毎日新聞「当選15回、『無敗の男』 中村喜四郎衆院議員が政界引退を表明」=9月24日12:27(最終更新16:00)
 https://mainichi.jp/articles/20240924/k00/00m/010/077000c
■読売新聞「中村喜四郎・衆院議員、政界引退を表明…当選回数15回で『75歳になり辞めるべきだと確信』」=9月24日14:28
 https://www.yomiuri.co.jp/politics/20240924-OYT1T50098/
■共同通信「立民の中村喜四郎氏が政界引退へ 当選15回『無敗の男』」=9月24日12:21
 https://www.47news.jp/11528787.html

 冒頭に「思うところが多々ある」と書きました。この選挙の強さもさることながら、「政治家中村喜四郎」の名前を目にして思い出すのは、ゼネコン汚職事件のことです。逮捕後の東京地検特捜部の取り調べに黙秘を貫き、公判では一貫して無罪を主張しました。
 ゼネコン汚職事件はわたしも社会部の司法担当記者として取材に加わっていました。当時のことを書くなら、1993年3月にさかのぼらなければなりません。前置きが長くなりますが、わたし自身の記者としての歩みにも重なる事件の経緯に触れた上で、中村元建設相と検察のこと、さらにはマスメディアの報道のありようについて、思うところを書きとめておきます。

▽「政界のドン」逮捕から始まったゼネコン汚職
 93年3月6日、東京地検特捜部は所得税法違反容疑で、竹下登元首相の後見人であり「政界のドン」と呼ばれた自民党の金丸信・元副総裁を逮捕しました。当日は土曜日。東京国税局と合同で内偵を重ねた上での電撃的といってもいい動きでした。30代前半、社会部で司法担当記者だったわたしは、休みの日の夕方、行きつけの居酒屋でのんびりしているところに流れてきたラジオのニュースで逮捕を知り、慌てて出社しました。わたしの所属先を含めて、事前に察知していたマスメディアはありませんでした。
 特捜部は前年から、東京佐川急便元社長から政界に流れた資金の動きを追っていました。その中で浮上したのが金丸元副総裁でした。92年8月、朝日新聞が、元社長が元副総裁側に5億円を提供したと周辺に話していた、と報道。金丸元副総裁は5億円の受け取りを認める上申書を特捜部に提出しました。同9月に政治資金規正法違反罪で略式起訴され、罰金20万円の略式命令を受けました。5億円の巨額にもかかわらず、逮捕はおろか事情聴取すらないままの罰金での決着に、世論の激しい批判が検察に向かいました。東京・霞が関の検察合同庁舎では「検察庁」のプレートに黄色いペンキがかけられ、検察の威信は地に墜ちました。
 金丸元副総裁は92年10月に衆院議員を辞職しましたが、検察はその因縁の相手を約半年後、今度は巨額の脱税で正面から摘発したわけです。最終的に、18億円余りの所得を隠し、10億円余りを脱税したとして起訴しました。
 公判は持病の悪化で停止。金丸元副総裁は判決を迎えずに死去しました。元副総裁が隠していた巨額資金の中には、ゼネコン各社からの闇献金が含まれていました。特捜部は、主だったゼネコンに次々に家宅捜索に入り、膨大な資料を押収します。ゼネコン汚職事件の捜査が事実上、始まっていました。
 わたしは92年12月まで、社会部の検察取材の専従担当記者でした。93年の年明けからは、メインの担当は裁判取材に変わりましたが、金丸元副総裁の逮捕からゼネコン汚職事件にかけての取材にも加わっていました。
 ゼネコン汚職では、93年6月の仙台市長逮捕を皮切りに、当時の茨城県知事、宮城県知事が、ゼネコンからわいろを受け取った収賄容疑で逮捕され、起訴されました。いずれの事例も、自治体発注の公共工事の競争入札の際、本命業者が自治体トップの「天の声」を示して談合をまとめる、その「天の声」の見返りとしてわいろを提供するという構造的な汚職でした。贈賄で摘発された業者側も、大手、準大手がずらりと並びました。

▽「バッジ」取ってこその特捜検察
 もともと特捜検察には、国政の腐敗を摘発してこその特捜部という雰囲気が濃厚にありました。「バッジを取る」という言い方も、検察担当記者の間では日常的に使っていました。バッジとは国会議員が襟につける議員バッジのこと。バッジを取るとは、国会議員を逮捕することです。
 ゼネコンの不明朗な資金提供が自治体首長にとどまり、自民党建設族を始めとした国会議員に資金が渡っていないとは考えにくく、早い時期から特捜部は政界を視野に捜査を続けていました。贈収賄事件の立件のためには、金の授受とともに、収賄側の職務権限が常に焦点になります。国会議員の職務権限は、自治体の首長ほどには明確ではなく、捜査のハードルにもなっていました。
 一時は、政界への波及はないかもしれない、という雰囲気になっていた記憶があります。最終的に1994年3月、特捜部は中村喜四郎元建設相をあっせん収賄容疑で逮捕します。任意の出頭、事情聴取を拒否したことから、特捜部は衆議院に逮捕の許諾を請求しました。金丸元副総裁の逮捕から1年がたっていました。
 「あっせん収賄」は一般にはなじみが薄いと思います。公務員が職務権限に絡んでわいろを受け取るのが収賄、職務権限に絡んで具体的な依頼である「請託」を伴っていれば受託収賄です。あっせん収賄とは、不正な行為や、やらなければいけないことをやらない(不作為)ことを公務員が具体的な依頼を受けて別の公務員に働きかけ(あっせん)、見返りにわいろを受け取ったり要求したりすることです。依頼の内容が実現したかどうかは、罪の成立には関係ありません。
 中村元建設相が問われたあっせん収賄の内容は、大手ゼネコンの鹿島に頼まれ、公正取引委員会(公取委)に談合の刑事告発をさせないようにする、というものでした。対象とされたのは「埼玉土曜会」の談合事件です。以下、便宜的に「埼玉土曜会談合事件」と表記します。
 公取委は1991年5月、談合組織「埼玉土曜会」をつくっていた埼玉県内の建設業者66社に、独禁法違反で立ち入り検査に入っていました。公共工事をめぐって談合を組織的に繰り返していたと公取委はみていました。当時、独禁法違反に対しては行政処分で対応することが多かったのですが、悪質な事例などは刑事告発する方針を公取委は表明していました。
 特捜部は、中村元建設相が鹿島から、公取委の調査の進展や告発の見通しの情報を入手し、その上で公取委の委員長へ、刑事告発すべき場合でも見送るよう働きかけてほしいと依頼を受け、報酬として92年1月、議員会館で現金1千万円を受け取ったとして、起訴しました。独禁法の運用は公取委の専権事項です。公取委に対して、判断を曲げさせようとしたことが事実なら、違法なあっせん行為に該当します。

▽元公取委委員長と検察
 中村元建設相は、逮捕後の取り調べ段階では黙秘を貫きました。雑談にも一切応じないほどで、その徹底ぶりは私たち取材記者にも伝わっていました。迎えた公判。鹿島からの現金は政治献金だったとした上で、公取委への働きかけを否定して無罪を主張しました。
 検察側の立証、ひいては有罪確定の最大のカギを握っていたのは、埼玉土曜会談合事件を調査していた当時の公取委委員長でした。公判に証人として出廷し、中村元建設相から2度訪問を受け、告発を見送ってくれとの趣旨の申し入れを執拗に受けた、元建設相と押し問答を繰り返した、と証言しました。2人が面会していたのは事実としても、そこでどんなやり取りがあったかは密室の中の出来事で、当事者にしか分からないことです。どちらかがウソを言っている、という構図であり、どちらの主張に信ぴょう性を認めるのかが、この事件の最大の焦点でした。
 元公取委委員長は国税庁長官まで務めた大蔵省(当時)官僚でした。そのような経歴の人物が、わざわざ作り話のウソを言う理由はない-。そう考えるのが常識的なのは、その通りだと思います。結果として、元委員長の証言が有罪認定の決め手になった形でした。
 しかし、埼玉土曜会談合事件を巡って、政治家が公取委に圧力を加えたという図式には、わたしは「引っかかり」を感じていました。この談合事件は最終的に刑事告発が見送られていました。検察自身が一貫して告発を受けることに消極的だった、ということが当時、検察を取材していた私たち担当記者の間では共通の認識でした。何も政治家が圧力を加えずとも、放っておいても、刑事告発には至っていなかった可能性が高かったわけです。
 奇しくも、ゼネコン汚職事件の捜査が終わった後、わたしは部内の配置換えで、司法担当を離れて公取委を担当することになりました。談合やカルテルなどの独禁法違反事件を中心に取材する日々でした。日常的に公取委や周辺をウオッチする中でも、やはり同じ感触を得ました。埼玉土曜会談合事件の告発を巡っては、当時は公取委の側でも「検察が受けてくれない」との雰囲気が支配的だったと感じました。
 もちろん、告発見送りの要因が検察の消極姿勢だったとしても、国会議員が刑事告発見送りを公取委に執拗に迫っていたのだとすれば、事情は分けて考えるべきです。告発見送りの直接の要因とは関係なく、国会議員の行為にあっせん収賄罪が成り立つことは十分にありうると思います。
 ただ、埼玉土曜会談合事件の刑事告発を巡る協議の当事者である検察と公取委は、中村元建設相のあっせん収賄事件では、捜査・立証の主体である検察と、立証の決め手である重要証人の公取委元委員長という関係になっていました。何としても「バッジ」を取りたかった、国会議員を立件したかった特捜検察と、埼玉土曜会談合事件を巡って検察とさまざまにやり取りを重ねていた元公取委委員長。因縁めいた関係の両者の間で、どんな思惑の交錯があったのか。わたしの「引っかかり」を突き詰めると、この点に行き着くように思います。
 この「引っかかり」は今も消えていません。疑問を感じたら調べるのが記者の仕事です。検察と公取委と、その両方の取材経験があったわたしですが、この「引っかかり」を解消させるために、自分で取材に取り組む気が当時あったかと言えば、「あった」とは言えません。ハードルの高さに、あきらめが先に来ていたように思います。そんな過ぎてしまったことにこだわっても、記者としての評価につながるとは考えていなかったようにも思います。今となっては、当時の自身の未熟さも恥じ入るばかりです。

▽特捜検察の奢りとマスメディア
 東京地検特捜部が、衆議院への許諾請求を経て、ものものしく中村元建設相を逮捕した際の新聞各紙やテレビ各局の報道のことも思い出します。幾多の困難を乗り越えて、ついに国会議員の逮捕に至った、との礼賛のトーンが基調にありました。特捜部の幹部同士が健闘をたたえ合った、というような報道までありました。この事件に限ったことではありません。地検特捜部が手がける事件は、常に大きく、好意的なトーンで報じていました。中でも国会議員の立件は、最大級のニュースの扱いでした。
 マスメディアの中では、特捜部の捜査の動向を正確に把握できるかどうかが、検察担当記者の評価に直結していました。検察取材に限ったことではありませんが、捜査にかかわる情報を得ようとすれば、捜査に対してネガティブなことを書くことに心理的なハードルが高くなりがちです。
 やがて、信じられないようなことが起きました。2010年の大阪地検特捜部の証拠改ざん、隠蔽事件です。検事が証拠として押収していたフロッピーディスクの中のデータに手を加えていました。堕落の極みです。何をしても許される、との奢りがあったとしか思えませんでした。
 その奢りはなぜ生じたのか。自問しながら、その大きな要因に、マスメディアが特捜検察への礼賛を重ねてきていたことがあると考えるようになりました。特捜検察の堕落に、マスメディアは当事者性を免れ得ません。わたし自身もその中の一人、当事者の一人です。

 今また、検察におかしさが目立っています。このブログでも何度か書いてきました。目の前のこととしては、袴田巌さんの再審無罪判決に対して、検察が控訴することを危惧しています。
 マスメディアにとっては、どう検察と向き合うか、正念場だと思います。わたしの経験が反面教師の教訓として、現場のデスクや記者にとって何らか役立つことを願っています。

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