1966年に静岡県清水市(現静岡市)で一家4人が殺害された事件の犯人とされ、強盗殺人罪で死刑が確定していた袴田巌さんに9月26日、静岡地裁が再審無罪の判決を言い渡しました。焦点は、検察が控訴するかどうかにほぼ絞られています。この無罪判決を1日も早く確定させるべきなのは当然のことですが、検察が控訴するおそれは十分にあると危惧しています。近年の検察には、あまりにも「おかしい」と感じざるを得ない点が多々あるからです。そのおかしさに対しては、新聞やテレビのマスメディアも当事者性を免れ得ないとも感じます。思うところを少し、書きとめておきます。
袴田さんの再審無罪までの経緯を踏まえて、えん罪に対して迅速な再審で救済するための法整備の必要性が指摘されています。検察が抱え込んでいる証拠をなかなか開示しないこと、裁判所が再審開始を認めても、検察が上訴できるために、実際に再審が始まるまでに時間がかかっていることなどが挙げられています。いわば法の不備に根差す構造的な問題です。そのこともさることながら、現在の検察のおかしさは、刑事司法の根本理念にかかわるようなところにもあるのではないかと感じます。法が禁じていないなら何をやってもいいのか。そうではなくて、法に書いていなくても、法の理念を尊重するなら当然に抑制的にふるまうことが必要なこともあるはずです。それが社会の一員としての常識であり、見識のはずです。必ずしもそうならないおかしさが、今の検察にはあります。
■再審は検察の敗者復活戦ではない
えん罪の被害者を救済するための再審の理念とは何でしょうか。再審開始が確定するということは、えん罪であったことを事実上、裁判所が認定したということです。その後の再審自体は、1日も早く無罪を確定させるための手続きです。それこそが再審の理念であり、意義であると思います。
検察は、当初の有罪認定に揺るぎはないというなら、再審請求を巡る裁判(再審請求審)の中で主張と立証を尽くすのが本分です。その結果、再審開始が決まったのであれば、いわば、その時点で検察の“敗北”は確定です。
重要なのは、再審の裁判の場は、検察にもう一度、有罪立証の機会を与えているわけではないはずだ、ということです。再審は無罪を確定させる手続きであり、検察のために用意された敗者復活戦ではないはずです。しかし、袴田さんの事件では、検察は有罪主張を繰り返しました。再審の意義の理解、ひいては刑事司法の根本理念をめぐる理解がおかしいと考えざるを得ません。明文で規定しなければ従えない、というのでは、良識が欠如していると受け止めざるを得ません。
袴田さんの再審請求の審理はいったん最高裁まで上がっていました。実態としては、えん罪が綿密に証明されていく手続きでした。再審開始が確定した段階で、検察は有罪主張を放棄すべきでした。9月26日の静岡地裁の再審無罪判決は、当然のことながら検察側主張をことごとく退け、証拠の捏造まで指摘しました。検察にしてみれば、このまま控訴しなければ、再審の裁判で有罪を立証したのは何だったのか、ということになるでしょう。検察の威信にかかわる、ということになります。メンツを守るためだけの控訴-。今の検察はそういうことをやりかねません。
検察のおかしさ、危うさはほかにもあります。一例を挙げれば、自民党の派閥パーティー券裏金事件です。何度かこのブログでも触れてきました。
政治資金規正法の不備を理由に、派閥の裏金の違法な収支報告書の処理については、国会議員の訴追をいともあっさりとあきらめました。個々の議員の収支報告書の違法処理に対しては、極めて悪質なごく一部をのぞき、前例を理由に3000万円で一律線引きして、大半の議員側の刑事責任を不問にしてしまいました。
この事件は、政権党を舞台として、前例のない規模と悪質さが際立っていました。ならば、刑事処分についても前例にとらわれることなく、違法処理があった議員側はすべて訴追し、処罰が必要かどうかの判断は裁判所に委ねるべきではなかったか。特に政治をめぐる資金のことであり、三権分立にもかかわります。
検察がこんなにも甘ければ、自民党が多数与党の地位にある国会で、政治資金規正法の抜本的な改正など望むべくもありません。自民党の総裁選でも、裏金事件の解明をめぐる議論は低調でした。違法処理の議員側がすべて訴追されていたら、国会の情景もずいぶんと変わっていた可能性があるのではないかと感じます。
「政治とカネ」という民主主義の根幹が問われる事件で、政治家側に物分かりの良さを見せてやるべきことをやらず、「えん罪」という深刻な人権侵害では、やらなくていいことをやって迅速な救済を阻む。それが今の検察です。
この記事の冒頭で、検察のおかしな現状に対する新聞やテレビのマスメディアの当事者性に触れました。さすがに、袴田さんの事件では、新聞各紙の報道や社説、論説を見ても、検察に厳しい論調でそろっています。「検察は控訴すべきではない」との指摘も共通しています。しかし、パーティー券裏金事件では必ずしもそうではありません。特に、捜査の主体だった東京地検特捜部の動向を直接取材する全国紙などのメディアは、検察の結論に理解を見せる報道が主流だったように思います。社説や論説で、検察の捜査を批判を批判したのはいくつかの地方紙でした。
強く印象に残っているのは、7月の検事総長交代の際の報道です。新しく就任した畝本直美検事総長には、検察の現状に対する認識や、どんな改革が必要だと考えているのか、具体的にどんなことに手を付けていくのか、などが問われているはずでした。しかし、新聞やテレビの報道は、「史上初の女性の検事総長」に終始した観がありました。
袴田さんのえん罪は、新聞や放送にとっても検察のおかしさが分かりやすい事例です。しかし、新聞や放送が見過ごしている、あるいは「おかしい」と指摘しない事例も少なくありません。それが検察に甘えを許しているのではないか。そこにマスメディアの当事者性があります。
▽参考過去記事
※他にもあります。カテゴリー「2023~24自民党の裏金事件」のリンク先からお読みください
■マスメディアと権力の近さ
袴田さんの事件に対して、マスメディアにはもう一つ、直接的な当事者性があります。袴田さんが逮捕され起訴された当時の「犯人視報道」です。
逮捕とは、容疑=疑いが持たれているに過ぎない段階であり、「無罪推定の原則」があります。「犯人である」との立証を検察が行い、裁判所が認定しない限り、無実、無罪と扱われなければなりません。しかし、実施には、逮捕されれば、あたかも犯人であるかのように報道されていました。
この点について、袴田さんの再審無罪のタイミングで、東京発行の新聞各紙では朝日新聞、毎日新聞、東京新聞が9月28日付の朝刊に関連記事を掲載。毎日新聞、東京新聞は袴田さんへの謝罪も表明しています。
検察への甘さ、えん罪に加担する犯人視報道に共通する要因は、マスメディアと公権力の距離の近さです。個々の記者に限りません。組織の問題でもあると思います。記者が検事や警察の捜査員と日常的に顔を突き合わせる生活を送る一方で、所属組織の中で、捜査の進展をめぐる情報、突き詰めていけば「検察や警察は誰を逮捕するのか」を取れるかどうかが、記者の仕事の評価軸になってしまっては、記者個々人も組織も、発想が検察や警察寄りになってしまうのは当然です。
「検察や警察は誰を逮捕するのか」の情報に意味がないとは考えていません。しかし、それだけになってしまっては、公権力の監視という組織ジャーナリズムの役割は果たせません。わたし自身、反省があります。
記者クラブを舞台に他社との競争にさらされている記者は、自分だけが他社の記者と違って捜査を批判したりすると肝腎の情報が取れなくなるのではないか、と迷いを抱きます。あるいは、捜査の批判を書いても所属組織の評価につながらないと考えている場合もあります。そんなときに、記者個々人を組織が後ろから支えることができるのも組織ジャーナリズムです。
【追記】2024年10月1日9時50分
■鎌田慧さん「客観報道の罪」
今の検察のおかしさとマスメディアの当事者性について、東京新聞の10月1日付朝刊の特報面「本音のコラム」で、ルポライター鎌田慧さんが「客観報道の罪」のタイトルで、朝日新聞の報道に触れています。
袴田さんの再審無罪判決について、朝日新聞は9月27日付の朝刊に元最高検次長検事の伊藤鉄男弁護士のコメント、いわゆる「識者談話」を掲載しました。判決が検察側の証拠を捏造と指摘したことに対し「捜査機関が三つの証拠を捏造したとすれば、大がかりな行為が必要になる。にもかかわらず、目撃者はいない。捏造をしたという具体的な裏付けが示されているとは言えず、非常に不満が残る判決だ」としたうえで「難しい判断にはなるが、控訴をする可能性は十分考えられる」としています。
わたしは27日に一読して、法務検察の大先輩が後輩たちに対し「控訴すれば自分は支持する」とのメッセージを送っているようなものだと感じました。この伊藤弁護士のコメントは、袴田さんの再審開始決定を出した当時の静岡地裁裁判長だった村山浩昭弁護士のコメントと対になっています。村山弁護士は、検察は控訴せずに判決を確定させることと再審の制度改正を求める内容です。
多様な考え方、ものの見方を提供するという点では、この朝日新聞の報道のように、異なった意見を組み合わせて報じることは新聞ではよくあります。鎌田さんは東京新聞のコラムで、その「客観報道」は罪だと批判しています。
鎌田さんの指摘でなるほどと思ったのは、袴田さんの再審無罪判決を伝える中で、毎日新聞と東京新聞が袴田さんへの謝罪を表明したのに、朝日新聞は謝罪がなかったことです。
このブログ記事の本文でも触れましたが、朝日新聞は袴田さんの逮捕、起訴当時の過熱報道に触れた記事は掲載しましたが、袴田さんへの謝罪はありませんでした。特に毎日新聞との対比で、過熱報道への当事者意識が希薄であり、あたかも高みから過去の出来事を眺めているような視線だなと感じていました。
鎌田さんは、謝罪がない朝日新聞が、一方で伊藤元次長検事のコメントを掲載したことを「後輩を激励させている」ととらえています。そして以下のように結んでいます。
捜査機関の発表記事に対する、冤罪被害者の無実を叫ぶ声が取り上げられることはない。捏造による死刑判決は殺人罪にも匹敵する。その加害者の『控訴の可能性』を示唆する両論併記は、あまりにも権力寄りだ。
明白な人権侵害があり、公権力の監視の役割を負っているはずのマスメディアも当事者性が問われているときに、「客観報道」に徹していていいのか、との鎌田さんの批判だと受け止めました。