ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

不祥事、疑惑続きでも落ちない安倍晋三内閣の支持率~1月の世論調査結果から

 1月に実施された新聞通信各社とNHKの電話世論調査の結果のうち、安倍晋三内閣の支持率について書きとめておきます。
 前回昨年12月の調査との比較で、安倍内閣の支持率は共同通信調査(1月11、12日実施)が6.6ポイント、読売新聞調査が4ポイントそれぞれアップしましたが、ほかはおおむね横ばいでした。不支持率は共同、読売調査では支持率アップの裏返しのように減少しています。ほかの調査結果は支持率と同じように横ばいのところが目立つものの、日経・テレビ東京調査では4ポイントの上昇となっています。全体に共通する傾向を見出すのは難しそうですが、強いて言えば「内閣支持率は落ちていない」ということになります。
 昨年秋以降、安倍内閣をめぐっては支持率低下につながっても不思議ではない不祥事や疑惑が続いています。経産相と法相の辞任、IR疑惑で元副大臣逮捕、そして「桜を見る会」を巡る安倍首相自身の後援会も絡んだ疑惑や、政府のずさんな公文書管理など。今年に入っては河井案里参院議員陣営の選挙違反事件(広島地検が家宅捜索)に、夫婦別姓を巡る自民党衆院議員の「だったら結婚するな」ヤジも加わりました。
 そういう中でも、悪くても内閣支持率がおおむね4割をキープしている、調査によっては支持率が上がってさえいる状況をいったいどう考えればいいのでしょうか。マスメディアの報道との関連でいえば、報道が足りないのか、そもそも報道が社会に届いていないのか。よく分かりません。

【内閣支持率】
・朝日新聞:1月25、26日実施
  支持  38%(±0)
  不支持 41%(1P減)

・日経新聞・テレビ東京:1月24~26日実施
  支持  48%(2P減)※記事では「横ばい」と表記
  不支持 45%(4P増)

・毎日新聞:1月18、19日実施
  支持  41%(1P減)
  不支持 37%(2P増)
  関心がない 21%(±0)

・読売新聞:1月17~19日実施
  支持  52%(4P増)
  不支持 37%(3P減)

・NHK:1月11~13日実施
  支持  44%(1P減)
  不支持 38%(1P増)

・共同通信:1月11、12日実施
  支持  49.3%(6.6P増)
  不支持 36.7%(6.3P減)

「拗ね者」本田靖春さんの評伝と遺作

 元読売新聞社会部記者で、退社後はノンフィクション作家として活躍した本田靖春さんが2004年12月に71歳で死去して15年がたちました。わたしは昭和58(1983)年4月に記者の仕事に就きました。わたしと同世代の、昭和50年代後半から60年代に新聞記者を志した人なら、「不当逮捕」や「警察(サツ)回り」などの作品をむさぼるように読んだ経験があることと思います。
 その本田靖春さんについて、ノンフィクション作家の後藤正治さんが、担当編集者らに丹念に取材してまとめた評伝「拗ね者たらん 本田靖春 人と作品」(講談社)が2018年暮れ、上梓されました。がんや糖尿病と闘い、両足と右目の視力を失いながら執筆を続けた最後の日々の壮絶さには息をのみます。最後の作品「我、拗ね者として生涯を閉ず」(講談社、2005年)は、本田さん自身「私はこの連載を書き続けるだけのために生きているようなものである。だから、書き終えるまでは生きていたい」と書きながら、最終回を残して絶筆になった作品でした。
 わたしはこの作品は未読でした。後藤さんの「拗ね者たらん」を読み終えて、何としても読みたいと思い、古書でしたが入手しました。読み終えて「もっと早く読んでおけばよかった」と思いました。
 本田さんは植民者の子として戦前の朝鮮で生まれ、敗戦後の引揚生活で苦労しました。日本の植民地支配の実相も肌で知っていました。それらの経験が終生、戦争を憎み、戦争を招くものには徹底的にあらがう姿勢の土台にありました。根っからの平和憲法支持者だったこともよく分かりました。
 本田さんは、社会部の黄金時代の終焉とともに1971年に読売新聞社を退社しました。社会部の黄金時代とはどんなものだったのか、実例もふんだんに書かれています。しかしむしろ、現在のマスメディアとそこで働く人たちにとって、今もなお意義があるようにわたしが感じたのは、部内で声を上げる気風が急速に失われていきつつあった中で、本田さんが若手記者たちに「野糞の精神」を説いていたというエピソードです。
 本田さん自身「下品になって恐縮だが」と断って紹介しているのは、次のようなことです。「可能ならば、全員で立ち上がって戦ってほしい。できないなら、せめて、野糞のようになれ―」「野糞はそれ自体、立ち上がることはできず、まして、相手に飛びかかって噛みつくなぞは絶望的に不可能である。でも、踏みつけられたら確実に、その相手に不快感を与えられる。お前たち、せめてそのくらいの存在にはなれよ、―と訴えたのであった」
 組織の中で、ひとり立ち上がって声を上げるのは大変な勇気が必要です。皆が続いてくれるとは限らないし、孤立すれば居場所がなくなるかもしれません。でも、もし「このままでいいのか」と思うのだったら、いきなり声を上げるのは無理でも、まずは本田さんが「せめてそのくらいの存在には」と書いたところから始めてもいいのではないか―。そんなことを考えました。
 わたしが記者の仕事に就いた1980年代前半は、本田さんに言わせれば、新聞社の社会部の黄金時代はとうに終わっていたのだろうと思います。わたしはと言えば、駆け出し時代に「不当逮捕」や「警察回り」を読み、本田さんが組織ジャーナリズムの一員として過ごした時代に重ねて、自分の記者としての未来を夢想したりしていました。あまりに無邪気に過ぎていたと、今は恥ずかしく思います。
 しかし、マスメディアの組織ジャーナリズムは今日なお、社会に必要です。わたしはそう考えています。そして、本田さんが遺した数々の作品と、とりわけ遺作の「我、拗ね者として生涯を閉ず」には、組織で動くジャーナリズムと、そこで働く者が知っておいた方がいい、いろいろなことが詰まっているように思います。わたしが思うその第一は、ジャーナリズムが何のためにあるかと言えば、戦争を起こさせないためであり、起きてしまった戦争は一刻も早く終わらせること、です。
 ジャーナリズムに身を置く、あるいは関心がある若い人たちには、まず後藤正治さんの「拗ね者たらん」を手に取ってみることを勧めます。

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拗ね者たらん  本田靖春 人と作品

拗ね者たらん 本田靖春 人と作品

  • 作者:後藤 正治
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2018/11/29
  • メディア: 単行本
 

 

「ペンか、パンか」の今日的意味

 新しい年、2020年になりました。
 今年10月で60歳になります。現在の所属企業も定年となります。延長雇用で、もうしばらくはこの企業で働くことになるとしても、雇用形態も変わり、社会生活の中の大きな節目になります。

 大学を出てすぐ、記者の仕事に就いたのは1983年の春でした。世の中には自分が知らないこと、人々に知られていないことがたくさんある、それらのことを自分の手で社会に知らせていきたい―。そんなことを考えていました。それから37年、新聞産業に軸足を置く通信社に所属し、組織ジャーナリズムの一員として過ごしてきました。
 1980年代から90年代は、新聞はメディアとしても、産業としても元気でした。社会の情報流通の中心的な担い手であり、発行部数も伸び続けていました。しかし、21世紀に入ると、新聞の発行部数の減少が顕著になってきます。
 日本新聞協会のまとめによると、2019年10月現在の協会加盟紙の総発行部数は3780万1249部(日刊116紙)。前年比で210万部余り、率にして5.3%の減少でした。2000年10月当時の総発行部数5370万8831部と比べれば、実に1590万部余り、29.6%もの減少です。この時期、インターネットの普及が急速に進み、同時に、社会に流通する情報量が爆発的に増えたことは、ここでわたしが言及するまでもないことです。80年代から90年代、通勤客が電車の中で新聞を読む光景は日常的でしたが、今はスマホの操作に変わりました。
 新聞業界を取り巻く経営環境は厳しさを増す一方です。紙の新聞発行に代わる収益源となるべきデジタル分野への展開は、ごく少数の例以外に成功モデルがありません。経営面では、明るい展望は見えてきません。

 一方で、新聞社などマスメディア企業が組織の存続とか、従業員や家族の生活を第一に考えることが、社会に何をもたらすのか、ということも意識していなければならない、とも思います。元共同通信編集主幹の故原寿雄さん(2017年11月に92歳で死去)が繰り返し問うていた「ペンか、パンか」の問題が、今日的な意味を持って、組織ジャーナリズムの前に立ちふさがることがありうる、あるいは既に立ちふさがっているのではないか、と感じます。
 かつて戦前にあったのは、権力との直接的な対峙の中で、パン(従業員や家族の生活)かペン(権力監視や戦争反対のジャーナリズム)かを迫られる構造でした。今日、仮に権力との対峙の構造に、新聞産業の経営の苦境という要因が絡んだときに、この「ペンか、パンか」の問いに、組織ジャーナリズムはどんな答えを出すのでしょうか。過去の歴史の教訓を踏まえて、「それでも『ペン』は曲げない」という選択をするために、今何が必要なのか―。組織ジャーナリズムの一端に長く身を置いてきた一人として、そうしたことも今後の考察テーマに加えていこうと考えています。

 引き続き、こつこつとこのブログを続けていこうと思います。
 どうぞ、本年もよろしくお願いいたします。

【参考】
▽新聞協会公式サイト https://www.pressnet.or.jp/
 ※「調査データ」のタグをクリックすると、発行部数の推移など、新聞産業を巡る各種の統計があります

▽「ペンか、パンか」の問題を巡っては、昨年7月にアップした過去記事を参照ください
「『不偏不党』と『ペンか、パンか』~故原寿雄さんが問うた組織ジャーナリズムの命題」
 http://news-worker.hatenablog.com/entry/2019/07/14/172800

news-worker.hatenablog.com


「『不偏不党』の由来と歴史を考える~読書:『戦後日本ジャーナリズムの思想』(根津朝彦 東京大学出版会)」
 http://news-worker.hatenablog.com/entry/2019/07/08/080050

news-worker.hatenablog.com

テレ朝「報道ステーション」スタッフの派遣切り 民放労連が撤回を要請

 テレビ朝日の報道番組『報道ステーション』で、2020年4月の番組リニューアルに向けて、社外スタッフを大量に契約終了させることが明らかになったとして、民放労連(日本民間放送労働組合連合会)が12月26日、スタッフの「派遣切り」の撤回を求める委員長談話を発表しました。民放労連には、テレビ朝日の正社員が加入する企業内労働組合も加盟しています。

※民放労連委員長談話 http://www.minpororen.jp/?p=1431

民放労連委員長談話
テレビ朝日『報道ステーション』
スタッフ「派遣切り」の撤回を求める

2019年12月26日
 日本民間放送労働組合連合会
 中央執行委員長 土屋 義嗣

 テレビ朝日の看板報道番組『報道ステーション』で、2020年4月の番組リニューアルに向けて、社外スタッフを大量に契約終了させることが明らかになった。社員スタッフも大幅な異動が予定されているというが、社外スタッフの契約終了は事実上の「解雇」に相当し、2008年のリーマンショックによる「派遣切り」が大きな社会問題となり、私たち放送メディアも時間を割いて放送したことは記憶に新しい。
  番組が継続するにもかかわらず、「人心一新」を理由にスタッフの雇用不安を引き起こすような人員の入れ替えを行うことは、社会に一定の影響力を持つメディア企業としてあってはならない。会社は「新たな雇用先を確保する」としているが、それでも将来に対する不安は大きなものとなることは否めない。事実、契約終了を通告されたスタッフの中には、ショックで体調を崩した人も現れたという。強引で極端な労務政策は、番組スタッフ以外にも不安を広げ、テレビ朝日で働くすべての人々のモチベーションに極めて深刻な影響を及ぼすことになりかねない。
  スタッフの声に耳を傾けず、一方的な理由で契約終了を宣告するのは、働く者の権利を踏みにじる行為であり、放送で働く労働者を組織する民放労連として看過できない。
  テレビ朝日には、今回の「派遣切り」の再考・撤回を強く求めるとともに、働く者の立場に立った企業として生まれ変わるよう、それこそ「人心一新」をはかることを求めたい。

以 上

 「報道ステーション」スタッフの派遣切りについては、12月24日に日刊ゲンダイが報じています。
 ※「テレ朝『報ステ』で大量派遣切り…年の瀬に非情な通告が」

 https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/266708

www.nikkan-gendai.com

1970年当時より今の方が近い「光る風」(山上たつひこ)が描く絶望的な近未来

 

光る風

光る風

  • 作者:山上 たつひこ
  • 出版社/メーカー: フリースタイル
  • 発売日: 2015/03/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  山上たつひこさんと言えば、少年警察官こまわり君と同級生らのギャグ漫画「がきデカ」で知られます。週刊漫画誌「少年チャンピオン」での連載は1974~1980年。わたしは主に高校生のころ、同時代の作品としてほぼ毎週、読んでいました。その「がきデカ」に、こまわり君に絡む重要人物として同級生の「西城ヨシオ」がいます。昨年5月、歌手の西城秀樹さんが亡くなられた際に、時代を象徴するアイコンとして「西城秀樹」はあったのだと思う、という「西城くん」と絡めた小論をこのブログに書きました。そこでは、山上たつひこさんの別のギャグ漫画「喜劇新思想体系」を紹介し、さらにそれ以前の社会派とも言うべきシリアスな作品「光る風」にも触れました。この記事をアップした後、「光る風」を今読んでみたいと思い、通販で購入しました。

 「光る風」は1970年、少年マガジンに半年余りにわたって連載された作品です。内容は、軍事国家になっている近未来の日本を舞台にしたディストピア・ストーリー。主人公の六高寺弦は代々軍人という家庭に生まれ育ちながら、芸術に関心を示す高校生。街頭で募金活動をしていた級友が目前で警察に射殺されたことを契機に、社会的にタブーとされていた風土病を巡る地下活動にかかわる同級生グループと接触を持ちます。やがて軍に拘束されて拷問を受け、病院を仮装した強制収容所に送られます。一方、国防大学を優秀な成績で卒業した兄の光高は、米国の要請に基づく国防隊のカンボジア派兵の一員として戦地に赴きますが、重傷を負って帰国。非業の死を遂げます。光高の負傷には米国の影がちらつき、恒久的な最前線軍事基地として日本を支配しようとする米国の思惑が明らかになっていきます。

 最初にこの作品を読んだのは40年余り前の高校生の時でした。発表から7、8年たったころでしょうか。1945年の日本の敗戦からは三十数年がたっていました。作中では日本はとうに再軍備しており、ベトナム戦争を背景に国防隊が海外に派遣されます。つまりは日本が「いつか来た道」を再びたどっている、という筋書きです。しかし40年余り前に読んだ際には、まだわたし自身の社会へのかかわり方が浅く、未熟だったということだと思うのですが、「いつか来た道」が現実のものになるかもしれない、といった感覚はほとんどなかったように思います。山上たつひこさんはそのころ、がきデカが大ヒットしており、そのギャグ漫画家がかつてはこんなシリアスな作品を描いていたのか、という以上の感想は持ち得なかったように思います。

 それから40年以上がたち、再読してみて思うのは、この作品が発表された当時、あるいはわたしが初めて読んだ当時よりも、この作品が描く絶望的な近未来は、ずっと今の方が近いところにあるのではないか、ということです。

 1970年は敗戦からまだ25年でした。戦争を直接体験した世代がまだ社会の中心を占めていました。戦争と、それを支えた当時の同調的な社会システムは、社会の共通の記憶に鮮明に残っていたのだと思います。しかし月日がたつとともに、戦争を経験した世代は減っていき、それにつれて、戦争に対する心理的な歯止めは弱まっているようにも思えます。「光る風」に印象的なシーンがありました。出征する兄の光高を止めようとして弦は父を殴り付け、その場で勘当されます。見送りに来ていた群衆の中から誰からともなく「非国民」との声が上がる―。今日、ネット上を中心に「反日」という批判、レッテル張りの言説はあふれかえっており、そうした言葉を用いるのに何の抵抗も感じていないかのようです。

 山上たつひこさんは「光る風」の後、「喜劇新思想体系」さらには「がきデカ」へとギャグ漫画を描き続けます。思い起こしてみると、それらのギャグ漫画でも警察や自衛隊、旧軍は徹底的に笑いの対象でした。少年警察官のこまわり君などは、設定そのものが警察の強烈なパロディです。それにとどまらず、作中の“とんでもキャラ”には教師も医師もいましたし、宗教や文壇さえも笑いの対象でした。権威の前に同調圧力は容易に生まれるのかもしれません。ならば、権威を徹底的に笑いのめすことで社会の正気を保つ―。「光る風」を再読し、今はそんなことも考えています。

 入手した「光る風」単行本の表紙をめくると、以下のような言葉が書かれています。 

 過去、現在、未来―
 この言葉はおもしろい
 どのように並べかえても
 その意味合いは
 少しもかわることはないのだ

 「いつか来た道」を決して繰り返さないように、との思いを込めて、78年前に日本が米・真珠湾を攻撃して太平洋戦争を始めた12月8日の日に、この小文を書きとめておきます。

  

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新聞労連が声明「オープンな首相記者会見を求める」

 新聞労連が12月2日、声明「オープンな首相記者会見を求める」を発表しました。このブログの一つ前の記事で紹介した、「桜を見る会」を巡る安倍晋三首相の説明への民意の不信感にもつながってくる内容です。全文を引用して書きとめておきます。

 オープンな首相記者会見を求める

 国の税金を使って、首相が主催する「桜を見る会」をめぐる疑惑が深刻化している。

 政権幹部らの後援者を大量に招待して「私物化しているのではないか」という問題に加え、マルチ商法で知られる「ジャパンライフ」の元会長が招待されたり、反社会的勢力の関係者が参加したりしていた疑惑まで浮上している。

 政府は、公文書である招待者名簿を廃棄したことを盾に説明を拒んでいるが、税金の使われ方は、民主主義の根幹にかかわる。政府は、国民から預かった税金を公正に使用していることを説明する責任を負っており、今の政府の姿勢はその責任を放棄していることにほかならない。政府は、電子データの復元などあらゆる手段を講じて、国民・市民の疑問に答えるべきである。

 とりわけ、主催者であり、多くの招待客を招いている首相の説明責任は重い。

 安倍首相は11月15日に記者団のぶら下がり取材に応じ、「桜を見る会」前夜に行われた後援会の懇親会費について、政治資金収支報告書に記載のないことは「政治資金規正法上の違反には当たらない」と主張した。しかし、明細書などの合理的な裏付けは示されず、その後、記者団が投げかけている追加の質問にもほぼ応じていない。

 また、15日に官邸で行われたぶら下がり取材は、開始のわずか約10分前に官邸記者クラブに通知されたものだった。今回の問題を取材している社会部記者や、ネットメディア、フリーランスなどの記者の多くは参加することが困難で、公正さを欠く取材設定だった。

 新聞労連は2010年3月に「記者会見の全面開放宣言」を出している。そのなかで示した「質問をする機会はすべての取材者に与えられるべきだ」との原則に基づく記者会見を開き、説明責任を果たすことを求める。記者クラブが主催する記者会見の進行を官邸側が取り仕切ることによる問題が近年相次いでいる。公権力側が特定の取材者にだけ質問を認めたり、一方的に会見を打ち切ったりするなどの、恣意的な運用のない状態で、オープンな首相の記者会見を行うべきである。

 また、多岐にわたる疑惑を確認するには、十分な質疑時間の確保も必要だ。報道機関の対応にも厳しい視線が注がれており、報道各社は結束して、オープンで十分な時間を確保した首相記者会見の実現に全力を尽くすべきだ。

 2011年に民主党政権の菅直人内閣が平日に官邸で行われていたぶら下がり取材を中止して以降、首相に対する日常的な記者の質問の機会がなくなった。記者会見の回数も減少している。官邸の権限が増大する一方で、説明の場が失われたままという現状は、民主主義の健全な発展を阻害する。国民・市民の疑問への十分な説明を尽くすと共に、今回の事態を契機に、首相に対する日常的な質問機会を復活するよう求める。

2019年12月2日 
日本新聞労働組合連合(新聞労連)
中央執行委員長 南  彰 

 ※新聞労連トップ http://shimbunroren.or.jp/

「桜を見る会」安倍首相の説明 「納得できない」「信頼できない」が圧倒~11月の世論調査から

 11月にマスメディア各社が実施した世論調査では、安倍晋三内閣の支持率の下落が目につきました。特に、首相主催の「桜を見る会」に首相の地元支援者が多く招待されていたことが国会でも追及されるようになった11月中旬以降の調査では、読売新聞、産経新聞・FNN、日経新聞・テレビ東京、共同通信の各調査で前月比5~7ポイントの減少。朝日新聞調査では支持率は横ばいでしたが、不支持は4ポイント増えました。
 「桜を見る会」を巡る個別の質問と回答を見ると、この問題を巡る安倍首相の説明に納得できるか、首相の発言を信頼できるかを、朝日新聞、日経新聞・テレビ東京、共同通信が質問しています。回答状況は、「納得できない」「信頼できない」がそろって7割近くに達しました。
 この「桜を見る会」の問題にわたしが思うのは、安倍政権が、都合が悪いことはなかったことにしてしまおうとしているのではないか、ということです。その一例が、招待者のリストは、会が終われば即座に廃棄することになっており、誰が出席していたかは今となっては分からない、との説明を繰り返している点です。「資料を廃棄したので分からない」との言い訳は、森友学園の国有地払い下げ問題でもありました。既視感があります。世論調査で安倍首相の説明が納得できない、信頼できないとの回答が、納得できる・信頼できるとの回答を圧倒しているのも、そうしたことの反映でしょう。
 自らの支持者を招待することは、民主党政権の時にも行われていた、との指摘もあります。そうだとしても、この「桜を見る会」の問題を過小評価すべきではないと思うのは、もっぱら、安倍首相や政権の側の説明の信頼性に疑問があるからです。この問題の報道を巡るマスメディアの課題もおのずと明らかだと言うべきでしょう。

 以下に、各調査結果のうち内閣支持率と、「桜を見る会」の関連の質問と回答状況を書きとめておきます。

▼内閣支持率

・共同通信 23~24日
  支持48.7%(5.4P減) 不支持38.1%(3.6P増)
・日経新聞・テレビ東京 22~24日
  支持 50%(7P減) 不支持 40%(4P増)
・朝日新聞 16~17日
  支持 44%(1P減) 不支持 36%(4P増)
・産経新聞・FNN 16~17日
  支持 45.1%(6.0P減) 不支持 37.7%(4.7P増)
・読売新聞 15~17日
  支持 49%(6P減) 不支持 36%(2P増)
・NHK 8~10日
  支持 47%(1P減) 不支持 35%(2P増)

▼「桜を見る会」

・共同通信
 安倍首相は「桜を見る会」の人選について、以前は関わりを否定していましたが、後日「意見を言うこともあった」と発言を修正しました。あなたは「桜を見る会」を巡る安倍首相の発言を信頼できますか、できませんか。
 信頼できる 21.4%
 信頼できない 69.4%

 政府は「桜を見る会」について来年は中止することを決め、予算や人数の見直しをする予定です。あなたは「桜を見る会」を将来的に続けた方がよいと思いますか、廃止した方がよいと思いますか。
 続けた方がよい 26.9%
 廃止した方がよい 64.7%

・日経新聞・テレビ東京
 (首相の支援者が多く招待されたことなどに関する安倍晋三首相の説明に)※質問文不明
 納得できない 69%
 納得できる 18%

・朝日新聞
 毎年春に首相が開く「桜を見る会」は国の税金が使われており、著名人のほかに安倍首相の地元の支援者も多く招待されていました。安倍さんの支援者が多く招待されていたことは、大きな問題だと思いますか。
 大きな問題だ 55%
 それほどでもない 39%

 「桜を見る会」について、安倍首相は「私は、招待者のとりまとめなどには関与していない」と説明しています。首相の説明に納得できますか。
 納得できる 23%
 納得できない 68%

・産経新聞・FNN
 首相主催の「桜を見る会」について
 来年度の桜を見る会の開催中止を決めた政府の判断を評価するか
 評価する 58.3%
 評価しない 32.2%

 招待の基準やプロセスなどを明確化した上で、再び開催してもよいと思うか
 開催してもよい 59.4%
 廃止すべきだ 33.8%

・読売新聞
 安倍首相が主催する「桜を見る会」に、首相の後援会関係者が多く招待されていたとの批判を受け、政府は来年度の会の中止を決めました。この問題を巡る政府の対応は、適切だったと思いますか、適切ではなかったと思いますか。
 適切だった 51%
 適切ではなかった 35%

 

【追記】2019年12月7日
 毎日新聞が11月30日~12月1日に実施した世論調査の結果が報じられています。
・内閣支持率
 支持 42%(6P減)
 不支持 35%(5P増)
 関心がない 21%(2P増)

・「桜を見る会」
 国の税金を使って開く「桜を見る会」に、安倍首相の地元後援会関係者らが多数、招待されていたことが明らかになりました。あなたはどう思いますか。
 問題だと思う 65%
 問題だとは思わない 22%

 野党は「桜を見る会」に反社会的勢力の関係者が参加していたと指摘しています。あなたは、誰の推薦でどのような人物が「桜を見る会」に招待されていたのか、政府は明らかにすべきだと思いますか。
 明らかにすべきだ 64%
 明らかにする必要はない 21%

 「桜を見る会」の招待者名簿を取りまとめている内閣府は、野党の議員から国会で「桜を見る会」について質問を受けたその日に名簿をシュレッダーで廃棄していました。政府は廃棄と国会質問は一切関係がないと説明していますが、この説明に納得できますか。
 納得できる 13%
 納得できない 72%

「秋晴れ」「笑顔」「祝福」の祝賀パレード~平穏に進む代替わり

 令和の新天皇の即位を披露するパレード「祝賀御列の儀」が11月10日、東京都心で行われました。沿道には11万9千人が集まり、警戒に当たった警察官は約2万6千人に上ったと報じられています。10日は新聞休刊日のため、東京発行各紙の11日付の朝刊はなく、このニュースの掲載は11日の夕刊になりました。各紙とも、1面で大きく扱っています。見出しには「秋晴れ」「笑顔」「祝福」といった言葉が目立ちました。
 毎日新聞の記事によると、このパレードは、即位した5月1日からの国事行為である「即位の礼」の最後の行事でした。テロやゲリラ事件もなく、平穏のうちに、平成から令和への代替わりは進んでいるように感じます。令和への代替わりの最大の特徴は、この「平穏」ということになるのかもしれません。昭和から平成への時は、必ずしもそうではありませんでした。

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 以下は平成3年(1991年)の警察白書の一節です。「極左暴力集団」は新聞では「過激派」と表記しています。

 極左暴力集団は、平成2年初頭から、「90年天皇・三里塚決戦」路線の下、皇室闘争に対する取組を一段と強め、127件の皇室闘争関連のテロ、ゲリラ事件を引き起こした。とりわけ、「即位礼正殿の儀」当日には、都内での34件を含め6都県下で40件、「大嘗宮の儀」当日にも7府県下で11件のテロ、ゲリラ事件を引き起こした。
 特に中核派は、全国各地において、新型迫撃弾、設置式爆弾、時限式発火装置等により、JR、地下鉄等の運行を妨害したり神社等を焼失させるなど、皇室関係施設以外にも攻撃対象を拡散した「無制限・無制約」のテロ、ゲリラを集中的に引き起こした。
 一方、革労協狭間派は、即位の礼・大嘗祭に向けた前段闘争において、時間をおいて爆発するなどのトリックを用いた爆弾で警視庁独身寮をねらい、警察官1人を殺害し、一般市民を含む7人に重軽傷を負わせる残忍なテロ事件を引き起こした。
https://www.npa.go.jp/hakusyo/h03/h030700.html

 11月10日は日曜日で、わたしも休日でした。思い立って、東京都中野区沼袋にある氷川神社を訪ねてみました。警察白書の中にも記述があるように、昭和から平成への代替わりでは神社もテロ、ゲリラの標的になりました。沼袋の氷川神社はその一つです。
 当時の報道によると、平成2年3月19日午前3時すぎ、本殿付近から出火し、木造平屋の本殿と倉庫計113平方メートルを全焼しました。けが人はいませんでした。ほぼ同時刻に、世田谷区船橋の神明神社、墨田区東向島の白髭神社でも出火し、本殿を全焼しました。いずれの神社の焼け跡からも乾電池、リード線などが見つかり、警視庁公安部は、時限発火装置を使った同時多発放火ゲリラ事件とみている、と報じていました。氷川神社と白鬚神社の宮司2人は、東京都神社庁が大嘗祭に向けて設けている「御大典奉祝特別委員会」の常任委員を務めていたとのことです。
 氷川神社はその2年前の昭和63年、昭和天皇の即位60年記念事業として、本殿を建てたばかりでした。それをゲリラ事件で失ったのですが、翌平成3年8月には再建します。それが現在の社殿です。

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 折しも七五三の時期で、神社には晴れ着の子どもを連れた家族らが次々に訪れていました。30年近く前のゲリラ事件を思わせるものはなく、警備の警察官の姿もありませんでした。平穏そのものの秋の1日の光景でした。

 平穏のうちに進む、平成から令和への代変わり。そのひとコマのスケッチとして、書きとめておきます。

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MICが声明「『公益性』を追加した助成金ルールの撤回を求める」

 新聞労連や民放労連、出版労連などメディアや文化関連の産業別労働組合でつくる「日本マスコミ文化情報労組会議」(略称・MIC)が10月28日、声明「『公益性』を追加した助成金ルールの撤回を求める」を発表しました。

「公益性」を追加した助成金ルールの撤回を求める
2019年10月28日
日本マスコミ文化情報労組会議

 日本社会はいま、公権力の恣意的、独善的な判断によって、憲法に基づいた自由な文化・芸術活動が危機にさらされている。
 文化庁所管の独立行政法人「日本芸術文化振興会(芸文振)」が、映画『宮本から君へ』への助成金交付を7月に取り消していたことが発覚した。
 その理由は、出演者の1人であるピエール瀧さんが麻薬取締法違反で有罪判決を受けたこと。映画の内容は薬物使用と全く無関係にもかかわらず、芸文振は「国が薬物使用を容認するようなメッセージを発信することになりかねない」と主張して、交付取り消しの判断を下した。さらに芸文振は9月27日、その判断を正当化するように芸術文化振興基金の助成金交付要綱に「公益性の観点」を追加。「公益性の観点」から助成金の交付が「不適当と認められる」場合には、交付内定を取り消すことができるようにした。
 定義が明記されていない「公益性」というあいまいな基準が拡大されると、公権力の恣意的な判断がまかり通るようになり、「検閲」につながる恐れがある。実際、芸文振は今回、ピエール瀧さんの出演シーンを「カットするなど編集できないか」と作品内容に介入しようとし、制作会社が「完成した作品の内容は改変できない」と断ると、1000万円の助成金不交付に踏み切った。改訂された交付要綱の内容は、舞台芸術、美術など映画以外の領域にも影響し、日本の文化・芸術にとって由々しき事態だ。メディア・文化・情報関連の職場で働く労働者がつくる「日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)」として、憲法21条で保障された「表現の自由」を脅かす芸文振の一連の対応に抗議するとともに、「公益性」を追加した交付要綱の撤回を求める。
 芸術文化振興基金は1990年、国際的に見て脆弱な文化予算を改善するために民間出資を入れて創設されたものだ。文化芸術基本法では、基本理念の筆頭に「文化芸術に関する施策の推進に当たっては,文化芸術活動を行う者の自主性が十分に尊重されなければならない」(同法第2条)と「自主性」を掲げており、提案者は法案審議の中で、「文化芸術活動における『表現の自由』ということは極めて重要なもので、憲法第21条で保障されている権利。法律案は、表現の自由を直接は明記してはおりませんが、文化芸術活動における表現の自由の保障という考え方を十分にあらわしている」(自民党の斉藤斗志二氏、2001年11月21日の文部科学委員会)と約束していた。
 芸文振の一連の対応は、憲法や立法の精神を踏みにじるものだ。また、制作段階では予測できない事情をもって公的助成が左右されるようになれば、安心して制作活動に取り組むことが難しくなる。
 文化芸術活動への補助金については、文化庁も9月26日に国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」への補助金の全額不交付を決めた。テロ予告などの不当な脅迫・攻撃から芸術祭を守ることに力を注ぐのではなく、「来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず,それらの事実を申告することなく採択の決定通知を受領した」(文化庁)と一方的な判断を下した。
 こうした公権力による恣意的、独善的な判断が続いては、日本社会において権力におもねらない自由な表現、文化・芸術活動が狭められる。
 MICは表現の自由を無視した公権力のあり方に対峙するとともに、公権力に屈せず「表現の自由」を守る人たちを応援する。

日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)
(新聞労連、民放労連、出版労連、全印総連、映演労連、映演共闘、広告労協、音楽ユニオン、電算労)

 「定義が明記されていない『公益性』というあいまいな基準が拡大されると、公権力の恣意的な判断がまかり通るようになり、『検閲』につながる恐れがある」との指摘に同感です。

※MIC http://www.union-net.or.jp/mic/

続・即位礼の新聞各紙 社説・論説の記録(23日付)

 前回の記事の続きになります。少し時間がたってしまいましたが、令和の新天皇の「即位礼正殿の儀」に対して、翌10月23日付で新聞各紙が社説、論説でどのように論じたか、ネットなどで可能な限り見てみました(前回の記事は10月22日付の社説、論説でした)。儀式に宗教色がぬぐえないこと、玉座(高御座)の天皇よりも一段低い場所に立つ首相の発声で「天皇陛下万歳」が唱和されることなどに、憲法違反との批判が絶えないことに触れているかどうかに注目しました。
 全国紙では、朝日新聞、毎日新聞が、憲法違反との指摘がある以上、もっと時間を掛けて検討すべきだった、との論調です。ただ、毎日新聞は最後にひと言触れただけで、憲法違反の疑いそのものをきちんと指摘しているかと言えば、必ずしもそうではない印象を受けました。
 22日付で社説を掲載した日経新聞と産経新聞は、憲法違反に当たらないとの主張。23日付の読売新聞も間接的な表現ながら、憲法上の問題はないとの内容でした。地方紙では北國新聞が同じようなトーンでした。
 憲法違反の疑いがあることについては、信濃毎日新聞などいくつかの地方紙の指摘が丁寧で明快でした。

 以下に、確認できた23日付の社説、論説の見出しを書きとめておきます。憲法違反との指摘に触れているものは、反論も含めて一部を引用しています。また現時点でネット上で読めるものは、リンクも張っています。

【23日付】
▼朝日新聞「即位の礼 前例踏襲が残した課題」
 https://www.asahi.com/articles/DA3S14228225.html?iref=editorial_backnumber

 他方で、今回の代替わりにあたっての政府の事の進め方には大きな疑問がある。開かれた議論を避け、異論には耳をふさいで、多くを「前例踏襲」で押し通そうという姿勢だ。
 正殿の儀をめぐっても、天孫降臨神話に由来する高御座(たかみくら)に陛下が立ち、国民の代表である三権の長を見おろす形をとることや、いわゆる三種の神器のうち剣と璽(じ)(勾玉〈まがたま〉)が脇に置かれることに、以前から「国民主権や政教分離原則にそぐわない」との指摘があった。
 だが政府は「前回検討済み」として、見直しを拒んだ。前回の式典のあり方に対し、大阪高裁から疑義が表明された経緯などには目を向けず、天皇の権威を高めるために明治になって作られた形式にこだわった。
 (中略)
 恩赦も実施された。要件を絞って対象者は前回の約5分の1(55万人)になったものの、司法の判断を行政が一方的に覆す措置に反対論も根強かった。まして皇室の慶弔と結びつけば、支配者が慈悲を施すかのような色彩を帯びる。犯罪被害者を守り、その思いを大事にしようという社会の要請にも反する。それでも先例が優先された。
 来月に予定されている大嘗祭(だいじょうさい)の執り行い方も同様だ。
 (中略)
 どれも国の基本である憲法にかかわる話だ。誠実さを著しく欠く対応と言わざるを得ない。
 上皇さまが退位の意向を示唆するメッセージを発したのは3年前だ。議論の時間は十分あったのに政治は怠慢・不作為を決めこんだ。華やかな式典の陰で多くの課題が積み残された。

▼毎日新聞「陛下の即位の礼 多様性尊ぶ国民の象徴に」
 https://mainichi.jp/articles/20191023/ddm/005/070/040000c

 即位の儀式をめぐっては、宗教色を伴うとして憲法の政教分離原則との整合性を問う声もある。政府が十分な議論を避け、合計わずか1時間あまりの会合で前例踏襲を決めたことには問題が残った。

▼読売新聞「即位の礼 伝統儀式の挙行を祝いたい」
 https://www.yomiuri.co.jp/editorial/20191022-OYT1T50220/

 陛下は高御座と呼ばれる壇に昇られ、「国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たす」と誓われた。
 即位の儀式は千数百年前に始まったとされる。陛下は伝統を受け継ぎつつ、国民主権の憲法の下で、国民の幸せを希求する姿勢を改めて示されたと言えよう。
 (中略)
 今回の即位礼は、憲法で定める国事行為として、皇室典範の規定により行われたものだ。象徴天皇制を定めた憲法下では、平成に続き2度目となる。
 戦前の昭和天皇の即位礼では、当時の首相が中庭まで降りて天皇を仰ぎ見ながら万歳を発声した。これに対し、安倍首相はこの日、陛下と同じ殿上に立ち、お祝いの寿詞よごとを述べ、万歳三唱した。
 今回、憲法の国民主権との整合性を取った平成の即位礼の内容を踏襲したのは理解できる。

▼産経新聞(「主張」)「即位ご宣明 国柄を誇り『令和』築こう」
 https://www.sankei.com/column/news/191023/clm1910230002-n1.html

 皇陛下は即位を内外に宣明され、国民の幸せと世界の平和を常に願い、象徴としてのつとめを果たす、ご決意を述べられた。心強いお言葉である。即位をお祝いするとともに、そのお心を国民もしっかり受け止め、令和の歴史を刻んでいきたい。
 (中略)
 来年には、天皇陛下が名誉総裁をつとめられる東京五輪・パラリンピックを控えている。海外からの日本の歴史文化への関心もさらに高まるだろう。歴代天皇、皇室と国民が強い絆で結ばれてきた日本の国柄を国民は一層理解し、心一つに新時代の歩を進めたい。

▼河北新報「即位礼正殿の儀/令和にふさわしい皇室像を」
 https://www.kahoku.co.jp/editorial/20191023_01.html

▼東奥日報「象徴天皇制 議論高めたい/即位の礼」
 https://www.toonippo.co.jp/articles/-/266252

▼デーリー東北(時評)
 https://www.daily-tohoku.news/archives/24788

 天皇陛下の即位をお祝いするが、儀式はこれで良いのだろうか。皇居・宮殿で挙行された「即位礼正殿の議」は1990年の平成代替わりの先例を安易に踏襲しすぎたきらいがある。神話に由来する高御座や三種の神器の剣と勾玉の使用などが、憲法の政教分離の原則や国民主権と抵触する懸念があり、今も憲法問題は解決済みではない。
 一代一度の重要儀式に皇室の伝統を生かすのは自然だ。平安絵馬さながらで美しい。しかし政府の式典委員会は突っ込んだ議論もなしに前例踏襲を決定した。末永く国民に親しまれる皇室を願うのならば、諸儀式の細目などを国会で検討し、論議を尽くすべきだ。
 特に今回は考慮すべき多くの事情がある。地震、台風など自然災害に直面している国民感情を軽視できないし、財政赤字は深刻。経費削減、儀式の簡素化は不可避だ。そのような折、いかに憲法に基づく天皇の国事行為とはいえ、180カ国余の代表ら2千人以上を招待し、さらに祝宴「饗宴の儀」に約2600人も招いたのは妥当だったのか、疑問が残る。

▼秋田魁新報「即位の礼 皇位継承議論の契機に」
 https://www.sakigake.jp/news/article/20191023AK0015/

▼山形新聞「天皇陛下、即位の礼 皇位の安定継承も重要」
 https://www.yamagata-np.jp/shasetsu/index.php?par1=20191023.inc

▼岩手日報「即位の礼 国民の苦難に寄り添い」
 https://www.iwate-np.co.jp/article/2019/10/23/66712

 即位の礼は、三種の神器の安置などを巡り、憲法が定める政教分離の原則や国民主権に反するとの声もある。同時に行われた政令恩赦についても批判が出ている。
 天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基(もとづ)く」。憲法1条を読み返したい。象徴の在り方を決めるのは主権者・国民であることも、この機に改めて確認したい。

▼福島民報「【即位宣言のお言葉】思いを深く胸に刻む」
 https://www.minpo.jp/news/moredetail/2019102368838

▼茨城新聞「即位の礼 国民的議論を高めたい」
▼山梨日日新聞「【天皇陛下 即位の礼】象徴の在り方 国民的議論を」

▼信濃毎日新聞「即位の儀式 踏襲は政府の責任放棄」
 https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20191023/KT191022ETI090004000.php

 政府の対応には問題が残った。「正殿の儀」などは前回に引き続いて国事行為として行われた。議論を深めることなく、様式もほぼ前回を踏襲している。
 儀式には、憲法に反するという指摘が根強い。まず政教分離だ。高御座は天孫降臨神話に由来する。皇室の祖神とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)が授けたと神話で伝わる「三種の神器」の剣と璽(じ)(勾玉(まがたま))も高御座に安置した。天皇に神話的な権威を与えかねない。
 明治以降、国家と結び付いた国家神道で天皇を神として崇拝し、天皇が治める国家への忠誠を国民に強いた。その結果、戦争で多くの国民の命が失われた。
 現憲法は国などに宗教的活動を禁止し、天皇の地位を「日本国民の総意に基く」と規定した。儀式は憲法の規定や精神に合わない。
 次に国民主権の問題だ。陛下は約1メートルの壇上から、安倍晋三首相を見下ろす形で、万歳三唱を受けた。主権は国民にある。位置関係は憲法にそぐわない。
 平成への代替わりでは、政府が首相の立ち位置を中庭から床上に変え、服装も衣冠束帯から、えんび服に変更し宗教色を薄めた。
 それでも大阪高裁は1995年の違憲訴訟の判決で、請求は退けたものの、政教分離規定違反との疑いを否定できないと指摘。首相の立ち位置も「憲法にふさわしくないと思われる」と言及した。
 儀式の骨格は、明治期の1909年に儀式の細目を定めた登極令(とうきょくれい)に基づく。現在に合っているのか検証するのが当然だ。

▼新潟日報「即位の礼 平和願う強い意思世界へ」
 https://www.niigata-nippo.co.jp/opinion/editorial/20191023502834.html

 陛下は古式装束をまとい、天孫降臨神話に由来する「高御座(たかみくら)」に上り、即位を宣言した。
 戦前の様式に倣い、現行憲法下で初めて催された平成時を踏襲した。
 これには、天皇に神話的権威を与え、高い位置から首相らを見下ろす形になるなどとして、憲法が定める国民主権や政教分離の原則に反するとの声が前回からあった。
 11月14、15日に皇居で執り行われる一世一度限りの重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」についても、宗教色が強く、国費の支出は政教分離に反するとの批判がある。
 政府は正殿の儀に合わせて政令恩赦「復権令」を公布、即日実施したが、世論調査で反対が60・2%に上るなど国民の理解は得られていない。
 政府は同じやり方に固執するのではなく、時代の変化や国民感情を見据えながら、必要があれば見直すことをためらうべきではない。

▼北國新聞「即位礼正殿の儀 国民の幸せ願う心伝わった」

 正殿の儀で陛下は神話に由来する玉座「高御座(たかみくら)」に上って即位を宣言した。神話的な権威を印象付け、国民の代表である首相を見下ろす形式に対しては、憲法が定める政教分離や国民主権に反するという批判も出る。しかし、国民に寄り添うと語った陛下の真摯な姿勢は、多くの国民から温かく受け入れられたのではないか。
 即位の重要な儀式で古式装束の「黄櫨染袍(こうろぜんのほう)」をまとった陛下の姿からは、新しい時代の皇室のあり方を探りながら、綿々と受け継がれた伝統を大切にする思いも伝わってきた。

▼福井新聞「即位の礼 新たな象徴像へ一歩一歩」
 https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/958864

 一方で、儀式の在り方など課題も残った。代替わりに際して時間があったのにもかかわらず、準備委員会は3回、計1時間余の会合で「前例」踏襲を決めた。このため、政教分離など憲法に触れかねない要素も踏襲された格好だ。

▼京都新聞「即位の儀式 課題残した議論なき踏襲」
 https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/49061

 一方で、天孫降臨神話に由来する玉座から国民を見下ろす形となる儀式のあり方には、憲法に定めた国民主権や象徴天皇制と矛盾するとの指摘も根強い。
 即位礼正殿の儀は、国内外の賓客を招いての「饗宴(きょうえん)の儀」や延期されたパレード「祝賀御列(おんれつ)の儀」とともに憲法上の国事行為とされ、国費が充てられた。
 皇室儀式は宗教的性格を持ったものも多く、政教分離との関係がしばしば問題となる。
 上皇さまの事実上の退位表明から陛下の即位まで、十分な時間があった。憲法の趣旨と儀式のあり方について、国民的な議論が必要だったのではないか。
 しかし政府は、平成の代替わり時の前例を踏襲する方針を早々に決めてしまった。さまざまな意見が出ないうちに、異論を封じ込めたようにもみえる。
 (中略)
 儀式に関する本質的な問題を無視するのは、こうした議論が皇室のあり方への問いかけにつながり、安倍晋三政権が否定的な女性宮家創設や女系天皇実現などの論争に発展するのを避けるためではないのか。
 政府がこんな姿勢では、安定的な皇位継承の議論にも入れない。憲法が定める象徴天皇制の将来を危うくしかねない。

▼中国新聞「即位の礼 象徴天皇、探り続けねば」
 https://www.chugoku-np.co.jp/column/article/article.php?comment_id=581779&comment_sub_id=0&category_id=142

 一連の行事は、政府の意向で約30年前の平成の代替わりをほぼ踏襲した。古式や伝統にのっとれば妥当かもしれない。とはいえ、時代は移り変わり、国民の意識も変化している。柔軟な発想がもっと必要ではないか。
 憲法1条は、天皇を「日本国民統合の象徴」と位置づける。その在り方を私たちも問い続けなければならない。
 (中略)
 高御座から見下ろす形で即位を宣言し、首相の発声に続いて参列者が万歳三唱した。国民に寄り添う象徴天皇の姿とは隔たりがある。万歳は祝意を表しただけにすぎないとしても、戦前回帰と受け止められないように丁寧な説明が必要だ。
 三種の神器のうち剣と勾玉(まがたま)をそばに置くスタイルも含め、政教分離に反するとの指摘も専門家から絶えない。本番まで準備期間は十分あったのだから、時代に即した儀式のありようをもっと議論できたはずだ。
 費用総額は前回より3割増の163億円に上る見通しだ。人件費や資材価格が高くなっているとはいえ、国の財政状況を考えれば議論の余地がある。

▼山陰中央新報「即位の礼/国民的議論を高めたい」
 https://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1571797688555/index.html

▼愛媛新聞「即位の儀式 象徴にふさわしい姿深く議論を」

 即位礼では陛下が玉座「高御座(たかみくら)」から宣言し、三種の神器のうち剣と璽(じ)が使われた。前回の時も、これら調度品は宗教色が濃いとして、憲法が定める国民主権や政教分離の原則に反するとの異論があったが、政府は早々に前例踏襲を決めた。
 高御座は古事記や日本書紀の天孫降臨神話に由来し、剣と璽は天皇に神話的権威を与えるとの指摘がある。政府には退位特例法が2年前に成立した後も、こうした課題を検討する時間があった。議論らしい議論をしなかったのは政治の怠慢と言われても仕方がない。
 来月には一世一度限りの重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」が皇居である。神道形式で執り行われるため、政教分離の原則に反するとして国費の支出に反対する訴訟も起きている。秋篠宮さまも昨年秋の会見で、国費ではなく天皇家のお手元金で賄うべきだとの思いを明かされたが、国に見直しの動きはうかがえなかった。
 天皇の地位は「国民の総意に基づく」と憲法に定められている。一人でも多くの国民が、わだかまりなく祝える儀式を目指すことが肝要だ。国民の象徴にふさわしい様式はどうあるべきか。将来の代替わりも見据え、国会で議論を続けていかなければならない。

▼大分合同新聞「即位の礼 皇室の在り方に国民的議論を」

▼宮崎日日新聞「即位礼正殿の儀 安定継承に国民的議論必要」
 http://www.the-miyanichi.co.jp/shasetsu/_41669.html

▼佐賀新聞「即位の礼 国民的議論を高めたい」 ※共同通信
 https://www.saga-s.co.jp/articles/-/444689

▼熊本日日新聞「即位の礼 象徴天皇の新たな起点に」
 https://kumanichi.com/column/syasetsu/1231727/

 一方で「正殿の儀」など代替わりの行事の多くは前例踏襲となった。伝統重視とされているが、その内容の多くは天皇が神格化された明治期に形づくられた。政教分離など戦後憲法との整合性の問題は、今回もくすぶったままだ。
 特に今回の前例踏襲で多くの国民が違和感を抱いたのが、「正殿の儀」に合わせ実施された恩赦だろう。共同通信社が今月5、6日に行った世論調査では、賛成の24・8%に対し、反対は60・2%にも及んだ。
 三権分立の枠を政府が政令で一方的に外す恩赦に、国民の反対を押し切ってまで実施する意味はあるのか。これも明治憲法下で天皇の大権によると規定されていた行為を引き継いだものである。時代に即した方法を検討すべきだ。

▼南日本新聞「[即位の礼] 皇室の姿 考える契機に」
 https://373news.com/_column/syasetu.php?storyid=111645

▼沖縄タイムス「[即位の礼]新たな時代の象徴像を」
 https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/487946 

 新憲法下で2度目の即位の儀式だ。陛下は、天孫降臨伝説を模したとされる玉座「高御座(たかみくら)」に上り、神話に由来する「三種の神器」のうち、剣と璽(じ)(勾玉(まがたま))が用いられた。内閣の助言と承認が必要な国事行為にもかかわらず、神道の宗教色が強く、憲法が定める政教分離に反するという批判が根強い。
 政教分離は、戦前の国家神道が軍国主義の精神的基盤になったことへの反省が背景にある。伝統儀式であっても、憲法との整合性が問われるのは当然だ。
 高御座に上った陛下を前に安倍晋三首相がお祝いの言葉を述べた。首相ら三権の長が見上げる形は国民主権の観点から疑問視されている。
 政府は前回の様式を踏襲するだけで、現憲法の象徴天皇に見合う儀式のあり方についての検証と議論を尽くしたといえない。
 11月に予定されている「大嘗祭(だいじょうさい)」は新天皇が即位した年の収穫物を神々に供え、自ら祈る儀式だ。神道色が強く、国事行為ではなく、皇室行為とされている。宮廷費が充てられるが、国費であることには変わりはない。
 前回の大嘗祭について、1995年、大阪高裁は「儀式への国庫支出は政教分離規定に違反するのではないかとの疑いは否定できない」という判決を出している。
 皇嗣(こうし)秋篠宮さまも「宗教色が強い。それを国費で賄うことが適当かどうか」と発言した。憲法上の疑義が生じないあり方を求めたい。

 

 10月23日付の東京発行新聞6紙の朝刊は、いずれも即位礼正殿の儀が1面トップでした。

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