尾身会長の直言に向き合わない菅政権

 政治と科学、ないしは政治と科学者の問題は、人間の歴史の普遍的なテーマの一つだろうと思います。開発されて間もない核分裂の技術が即座に広島、長崎への原爆投下に使われたことは、その一例だと思います。そういう意味でも、歴史の記録に残しておかなければならない事態が、新型コロナウイルスと東京五輪を巡って進行しています。
 政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長が先週の国会審議で、現状のまま東京五輪を開催することに強い懸念を示し、いくつも踏み込んだ発言をしました。菅義偉政権は正面から受け止めるつもりはないようです。
 マスメディアの報道に基づいて、尾身会長の主な発言を以下に書きとめておきます(順不同)。一言一句そのままではないと思いますが、発言のおおよその趣旨と流れの記録です。

▼「プロフェッショナルの責任」
▽6月1日(火):参院厚生労働委員会
「我々は五輪を開催すべきかどうかの判断はするべきでないし、するつもりはない。しかし仮に五輪を開催する決断をなされた場合、分科会は我が国の感染をどう下火にするか助言する立場にある」
▽6月2日(水):衆院厚生労働委員会
「今の状況で(五輪大会を)やるのは、普通はない」
「何のために開催するのか、明確なストーリーとリスクの最小化をパッケージで話さないと、一般の人は協力しようと思わない」
▽6月3日(木):参院厚生労働委員会
「パンデミックでやることが普通ではない。やるなら強い覚悟でやってもらう必要がある」
「五輪は普通のイベントとは規模が違う。当然、人の流れが生まれる。スタジアムの中だけを考えてもしっかりとした感染対策はできない」
「ジャーナリストやスポンサーが(規則集を)順守してくれるか。選手より懸念があるのは、専門家の一致した意見だ」
「開催すれば国内の感染や医療の状況に必ず何らかの影響を起こす。感染のリスクや医療逼迫への影響について評価するのはプロフェッショナルの責任だ」「なるべく早い時期に、われわれの考えを正式にしかるべきところに表明しようと思っている」「政府に言っても、IOCに届かないと意味がない」
▽6月4日(金):衆院厚生労働委員会
「リスクについて述べるということはわれわれの責任だ。それ以後の話、判断はわれわれの責任の外にある」
「スタジアムの中での感染はそれほど心配していない。お祭り騒ぎのような雰囲気をテレビで見て(自粛中)の人々がどう思うか。理解と共感を得ることが非常に重要だ」
「お祭りムードになって普段会わない人と飲み会をすると、感染者、重症者が増え、死亡者が出てくることもあり得る」「感染リスクについて近々、関係者に考えを示したい」

▼「全く別の地平」?
 火曜日と金曜日は定例の閣議が開催され、終了後に閣僚はそれぞれ記者会見に応じるのが慣例です。
 4日の金曜日の記者会見で田村憲久・厚生労働相は、尾身会長が五輪開催による感染拡大リスクに関する専門家たちの提言を出すと表明していることに対して「参考にするものは取り入れていくが、自主的な研究の成果だと受け止めている」と述べました。また、五輪の新型コロナ対策調整会議に感染症の専門家2人が入っていることを理由に「専門家の意見として反映している」との見解も示したとのことです(毎日新聞の記事)。東京新聞は田村厚労相の発言の記事に「政府、正式提言と認めず」の見出しを付けています。
 趣旨がよく分からなかったのは、丸川珠代・五輪担当相の発言です。4日の記者会見では「われわれはスポーツの持つ力を信じて今までやってきた。全く別の地平から見てきた言葉をそのまま言ってもなかなか通じづらいと実感する」(東京新聞)と述べたとのこと。「全く別の地平」とはどういう意味なのでしょうか。担当相として、五輪と新型コロナウイルス感染拡大の防止には当然、大きな関心を持っているはずです。ここにきて、尾身会長と言葉が「通じづらい」とは、どういうことでしょうか。記者会見の実際のやり取りはどうだったのかを知りたいと思い、政府のサイトを検索しましたが、4日の会見の抄録はまだアップされていないようです(6日午後の時点)。
 尾身会長は、このパンデミックの中で五輪を開催するなら、何のための開催なのか、その意義を分かりやすく訴えないと、一般の人たちの協力は得られない、と指摘しています。その指摘に応えようとしたのかどうかは分かりませんが、菅義偉首相は6月2日、記者団の質問に対して以下のように答えています。

 正に、平和の祭典。一流のアスリートがこの東京に集まって、そして、スポーツの力で世界に発信をしていく。さらに、様々な壁を乗り越える努力をしている、障がい者も健常者も、パラリンピックもやりますから、そういう中で、そうした努力というものをしっかりと世界に向けて発信をしていく。そのための安心・安全の対策をしっかり講じた上で、そこはやっていきたい、こういうふうに思っています。

 ※首相官邸の公式サイトより
 https://www.kantei.go.jp/jp/99_suga/statement/2021/0602kaiken.html

 「人類がコロナとの戦いに勝った証し」とも「東日本大震災から復興した日本の姿を世界に発信する」とも言いませんでした。「あまりに通り一遍」との感想しかありません。尾身会長の懸念は、菅政権には共有されていないと受け止めるほかないように感じます。
 これまで、緊急事態宣言発出を決定した折の記者会見には、尾身会長は必ず同席し、安倍前首相や菅首相から答弁を引き取って、質問に答えることもしばしばでした。そうやって、政権として専門家の意見を踏まえて対策を決めていることをアピールしていました。しかし、ここにきて、五輪開催にブレーキを掛けようとするかのような尾身会長が疎ましくなっているようです。田村厚労相や丸川五輪相の発言を見るにつけ、そう感じます。

▼「『ご都合』利用」「開催中止論を警戒」「苦慮」
 尾身会長の連日の発言と、それを決して好ましくは思っていない様子の菅政権について、東京発行の新聞各紙も週末5日(土)付紙面で、さまざまに取り上げています。主な記事の見出しを書きとめておきます。

【6月5日付朝刊】
 ・朝日新聞
  3面「専門家の意見 政権『ご都合』利用/厚労相『尾身氏の自主研究』」
 ・毎日新聞
  4面「厚労相『自主発表と受け止め』/尾身氏ら『五輪に提言』準備」
 ・読売新聞
  4面「五輪の感染対策 尾身氏提言へ/政府、開催中止論を警戒/国会で連日懸念」
 ・産経新聞
  3面「尾身氏発言に政府苦慮/五輪開催『現状、普通はない』」
  5面「野党、尾身氏狙い撃ち/『五輪中止・延期』言質探る」
 ・東京新聞
  2面「政府、正式提言と認めず/尾身氏の五輪リスク警鐘」
  2面「調整会議 政府主導 オリパラ対策を検討/分科会 専門家会議後継 政府に提言も/2つの組織 役割は」

 地方紙でも京都新聞は菅首相への文書での質問に届いた回答の文面を写真入りで紹介。答えが質問とかみ合っていないことが一目瞭然です。
 ※京都新聞「五輪開催判断を巡り、菅首相は分科会に意見を聞くか 言及を避け続け、問答はかみ合わず」=2021年6月4日
 https://nordot.app/773494601350348800?c=39546741839462401

 いくつかの新聞は社説で取り上げています。

 ▽毎日新聞:6月3日付「五輪のリスク評価 分科会の意見聞くべきだ」
  https://mainichi.jp/articles/20210603/ddm/005/070/105000c
 ▽北海道新聞:6月4日付「五輪開催の判断 専門家の声に耳傾けよ」
  https://www.hokkaido-np.co.jp/article/551534?rct=c_editorial
 ▽信濃毎日新聞:6月4日付「尾身会長の発言 政府は危機感に向き合え」
  https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2021060400161
 ▽京都新聞:6月4日付「五輪のリスク 科学的な分析が必須だ」
  https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/576091
 ▽秋田魁新報:6月5日付「尾身会長五輪発言 専門家の提言尊重せよ」
  https://www.sakigake.jp/news/article/20210605AK0012/

 ▽徳島新聞:6月6日付「尾身氏の五輪発言 政府はしっかり耳傾けよ」

  https://www.topics.or.jp/articles/-/539636

 新聞以外の報道では、尾身氏をもとは菅政権の意向を汲んで、その判断を追認する役どころの“御用学者”だったとの見方を強調するものもあります。そういう立場だっただけに、ここに来ての五輪に対する突っ込んだ発言は、五輪開催を政権浮揚にしたい菅首相の怒りを買っている、とのことです。
 ※アエラドット「『黙らせろ』尾身会長の”謀反”に菅首相が激怒 意地の張り合いで権力闘争が激化」=2021年6月4日
 https://dot.asahi.com/dot/2021060400050.html

dot.asahi.com

 仮に御用学者であったとしても、尾身会長が専門家としてこのまま五輪開催が強行されることを危惧していることは間違いないようです。仮に深刻な感染拡大を招いた場合に自分の責任にされたくないとの思いから一連の発言が出ているとしたら、「保身」と呼べばそうなのかもしれませんが、例え保身であっても「プロフェッショナルの責任」からの発言と行動であることに変わりはないと思います。
 尾身会長は、専門家たちで近くまとめるリスクの考え方について「政府に言っても、IOCに届かないと意味がない」とまで述べています。五輪を巡って、日本政府にはもはや感染防止への真剣な取り組みは期待できないと考えている、それだけの覚悟を決めているように感じます。その覚悟は揶揄されるべきではないだろうとわたしは思います。

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【写真】東京・千駄ヶ谷の国立競技場