ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

「わが国」や「国益」から距離を保つ~新人記者の皆さんへ(その3)

 新人記者の皆さんに読んでほしいと思い、前回と前々回の2回の記事を書きました。「社会の信頼」や「民意を知る」とのテーマは、記者の仕事に就いたばかりの皆さんには、ちょっと大きな、言葉を換えれば、例えば警察回りのような日々のルーチンの仕事からは実感を持ちにくいことかもしれません。まずは、配属された場所で、自分の足であちこち歩き、色々な人に会って言葉を交わし、自分の目と耳で、社会の人たちがどんなことを考えているのか、社会のありように対して何を望んでいるのかを知ってください。警察を担当するにしても、社会の人たちが警察をどう見ているかを知ることも大切です。そうした日々の積み重ねの上に、メディアが社会の信頼を得るとはどういうことなのか、実感できるようになります。
 今回は、皆さんにも身近に感じてもらえそうなこと、もしかしたら、実務に就いてすぐにでも直面するかもしれないことについて書きます。「大きな主語を使ったり、大きな主語で考えたりすることは控えたほうがいい」ということです。

 わたし自身、いつからそうしてきたか記憶が定かではありませんが、記者として記事を書くときや、デスクとして後輩記者の記事をチェックするときに心がけてきたことがあります。「わが国」という言葉は使わない、ということです。代わりに「日本」を使えば十分でした。いつのころからか、先輩にそう教えられ、自分でも納得して、後輩たちにも引き継いできました。前述の「大きな主語」の一つが「わが国」です。
 日々のニュースの中では、首相や閣僚、国会議員や政府当局者がしばしば「わが国」を用いています。日本国や日本国民を代表し、その利益を守る立場だとすれば、その言葉の使い方も「まあ、そんなもんかな」と思います。でも、マスメディアの組織ジャーナリズムの言葉としては、どうでしょうか。日本国内で、日本語で情報を発信しているマスメディアですから、情報の受け手は主に日本の社会の人々です。しかし、そこにいるのは日本国籍の人たちだけではありません。さまざまな事情で日本に滞在している外国籍の方がいますし、日本社会に定住する在日コリアンらもいます。ニュースを「わが国」のこととして受け止める人たちだけではない、ということです。
 「わが国」という言葉になじんでしまうと、次は「国益」という言葉がセットになってきかねません。そして「わが国の国益にかなうかどうか」が、何事につけ価値判断の基軸になってしまうかもしれません。これも国会議員や政府当局者がそう考えるのは「まあ、そんなもんかな」と思います。しかし、マスメディアの組織ジャーナリズムにとっては、それはちょっと違うのではないかと思います。わたしたちの仕事は、日本国の国益のためにあるのではないからです。日本国民かどうかに関係なく、日本の社会でともに生活する全ての人の利益と幸福のためにあるのだと、わたしは考えています(それだけでなく、視線と問題意識はその先の世界を向いていていいとも思うのですが、ここではひとまず置いておきます)。
 「わが国」の「国益」という発想ではなく、同じ社会で共生する一人一人の利益と幸福という視点で、社会を見回してみてください。社会の中でさまざまな矛盾や不合理が放置され、そこで苦しんでいる人たちの姿が見えてくるはずです。
 首相や閣僚、国会議員や政府当局者が「わが国」や「国益」を口にするのは構いませんし、そのまま報じればいいと思います。そうしたニュースに接して、何を感じるか、どう考えるかはニュースの受け手の人々次第です。しかし、マスメディアのジャーナリズムを仕事にする記者は、「わが国」や「国益」からは距離を置いた方がいいとわたしは思います。そういう言葉を使うことで、知らず知らずのうちに記者自身が日本国の国益を代表する立場であるかのように考えてしまいかねません。
 ジャーナリズムは首相や閣僚、国会議員や政府当局者と同じ立場で「わが国」の「国益」を守るのが仕事ではない、とわたしは考えています。どこからも、だれからも距離を保って、そうした公権力を監視することに本分の一つがあると思っています。マスメディアの報道、ジャーナリズムについては、「公平中立」であるべきだという指摘をよく耳にします。むしろわたしは、用語としては「独立」がいいだろうと考えています。
ただし、マスメディアが持つ機能はジャーナリズムだけとは限りませんし、その意味では「わが国」や「国益」を強調するマスメディアがあっても、それはそれで構わないとも思います。ジャーナリズムの定義も人によって異なるのが実情です。

 「わが国」や「国益」という「大きな主語」から距離を置くことは、戦争に対してどういう姿勢を取るかにもかかわってくるように思います。
 このブログで何度も紹介してきた言葉があります。ナチス草創期からのヒトラーの盟友の一人で、ドイツ国家元帥だったヘルマン・ゲーリングの「国民はつねに、指導者のいいなりにできる」との言葉です。
 ナチスドイツ敗北後のニュルンベルグ軍事裁判でゲーリングは、ヒトラー不在の法廷で本来はヒトラーに向けられるべきだった訴追を一身に受け、ナチスドイツの正当性を果断に論じ、絞首刑の判決後は、敵の手にかかるのは屈辱だということか、密かに持ち込んでいたのであろう青酸化合物によって自死を遂げたとされています。
 ニュルンベルグの獄中にあったゲーリングを、米軍の心理分析官がしばしば訪ねていました。「国民はつねに、指導者のいいなりにできる」との上記の言葉は、この心理分析官との会話の中で発せられた言葉とされます。

「もちろん、国民は戦争を望みませんよ」ゲーリングが言った。「運がよくてもせいぜい無傷で帰ってくるぐらいしかない戦争に、貧しい農民が命を懸けようなんて思うはずがありません。一般国民は戦争を望みません。ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも、同じことです。政策を決めるのはその国の指導者です。……そして国民はつねに、その指導者のいいなりになるよう仕向けられます。国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。このやり方はどんな国でも有効ですよ」

 戦争を望んでいない国民を戦争に駆り立てるのは簡単だ、「攻撃されかかっている」と言い、平和主義者のことは「愛国心が欠けている」と言えばいい―。この言葉のことをこのブログで最初に紹介したのは約7年前でした。

https://news-worker.hatenablog.com/entry/20160101/1451575528

news-worker.hatenablog.com

 心理分析官(グスタフ・ギルバート大尉)は裁判の全被告の独房に立ち入る許可を得ており、被告たちと接したその体験を著書として発表する計画を抱いていました。会話は密室で行われていることもあって、ゲーリングのこの言葉は、心理分析官の創作である可能性も皆無ではないかもしれません。しかし、仮にそうだとしても、政治指導者が「攻撃を受けつつある」とあおり、平和主義者を「愛国心が欠けている」と非難すれば、意のままに国民を戦争に向かわせることができるというこの言説にはリアリティを感じます。
 「愛国心」は「わが国」や「国益」と親和性が高い言葉です。SNSなどを見れば、「愛国心がない」と批判する際の常套句のように「反日」という言葉もあふれています。「愛国心を欠く」とか「反日」とか言われようとも、「わが国」や「国益」などの言葉から距離を保つことは、戦争を否定する姿勢を保つことに通じると思います。

 大先輩の故原寿雄さんの戒めは「『わが国ジャーナリズム』に陥るな」でした。「わが国」や「国益」を自分が書く記事の中で使わないことは、戦争を許さず、平和に寄与するジャーナリズムであるために、ささやかながら日頃からできることの一つだろうと思います。