憲法に関連した論考やニュースで目に留まったものをまとめた【憲法メモ】です。
▽東京新聞「『改憲 もってのほか』 宮崎駿監督 いま声を大に」2013年7月19日
「憲法を変えるなどもってのほか」。スタジオジブリ(東京都小金井市)が、毎月発行している無料の小冊子「熱風」の最新号で「憲法改正」を特集し、宮崎駿監督(72)が寄せた記事が話題を呼んでいる。全国の書店では品切れが続出。ジブリ出版部は反響の大きさから、「参院選の投票日(二十一日)前に読んでほしい」と十八日、急きょジブリ公式ページで公開を始めた。 (樋口薫)
熱風は「スタジオジブリの好奇心」が副題で、毎月趣向を凝らした特集を組む。過去には「デモ」「グローバル企業とタックスヘイブン(租税回避地)」など、社会的なテーマも扱ってきた。
編集長の額田久徳さん(50)によると、今回の特集を発案したのはプロデューサーの鈴木敏夫さん(64)。意見の分かれるテーマだけにためらいもあったが、参院選を前に「ジブリとしての旗色を鮮明にしよう」と腹を決めた。
執筆もジブリの重鎮に依頼。宮崎監督に加え、高畑勲監督(77)が「60年の平和の大きさ」と題して寄稿。本紙に五月、掲載された鈴木さんのインタビューも、「9条世界に伝えよう」として収録された。いずれも憲法九条や改憲手続きを定めた九六条の改憲に反対する内容だ。
宮崎監督は談話形式の記事で「選挙をやれば得票率も投票率も低い、そういう政府がどさくさに紛れて、思いつきのような方法で憲法を変えようなんて、もってのほかです」と明言。また、日本の戦争責任や産業構造の問題点などについても率直に語っている。
※スタジオジブリの出版部のサイト
http://www.ghibli.jp/shuppan/np/
「熱風」7月号特集「憲法改正」がダウンロードできます。2013年8月20日18時までとのことです。
▽水島宏明さん「なぜ日本テレビで“不適切な取材”が次々に続出するのか?」(ヤフーニュース、2013年7月21日)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/mizushimahiroaki/20130721-00026584/
水島宏明さんは元日本テレビ「NNNドキュメント」ディレクターで、現在は法政大教授。日本テレビ時代は、他メディアに先駆けて貧困問題のドキュメンタリーを手掛けてきた方です。
相当な長文の論考のほんの一部ですが、引用します。水島さんの指摘は日本テレビのみならず、あるいは放送のみならず、日本のマスメディア全体にもかなりの程度、あてはまるのではないかと思います。わたし自身、マスメディアの内側で管理職として働いていることもあり、自分たちの働き方を客観化してとらえることが必要だと感じました。マスメディアの内側にいる人たちに広く読まれてほしい論考だと思います。
日本テレビではこの数年、同じ様な“不適切な取材”が相次いでいる。「被害者」だったり、「内部告発者」や「客」だったり、という違いはあるにせよ、結果的に偽った人間をあたかも本物であるかのように扱った偽りの報道が続いているのだ。
今回のような取材相手の言い分を丸のみに信じて「紹介された」ケースもあれば、取材した人間自身が偽装を主導したケースもある。いずれにせよ“不適切な取材”が後で発覚してしまう現状に、去年まで日本テレビの報道現場で働いてきた一人として心を痛めてきた。
振り返れば、この種のことは毎年のように起きている。
現在のテレビ記者は忙しくなりすぎて、取材現場でいろいろな人物と渡り合い、本当のことを言う人物か虚偽癖がある人物か、この問題ではどの団体や専門家を取材すれば間違いないか、どの弁護士が信頼できるか、などの取材経験の蓄積や情報・人物を腑分けする能力が落ちている。福島第一原発以降の記者の動き方を見ても、最近の若手記者は東電などの記者会見での一字一句をパソコン画面に向かって必死にパチパチと打ち続ける作業に終始し、ほとんど会見場と会社の往復しかしないことも珍しくない。事件や問題が起きている現場に足を運び、その渦中の人間と向き合って、それぞれの立場を推し量ったり、痛みを共感したりする機会もどんどん減ってきている。記者が現場に行かなくなっている。俗に言う「足で取材する」という機会が少ないのだ。各局の中でも日本テレビではとりわけ記者やディレクターなどの動かし方や取材の効率化を上から厳しく言われ、「その日に放送するニュース取材のネタでなければ基本的には現場に行かない」(若手記者)というような職場環境だ。記者はそれぞれのテーマについて勉強する時間も少なくなる。取材の勘も育たない。間違えやすい。騙されやすい。
経営トップが再発防止を指示しても、これでもかというほどまた起きてしまうのには、再発防止策に根本的な間違いがあるからだろう。他の組織にも言えることだが、この種の再発防止策はマニュアル主義に陥りがちだ。「ガイドライン」などのマニュアルを整備することに大半のエネルギーが割かれてしまう。また社内に「危機管理委員会」などのチェックポイントを設置し、放送内容を審査する責任ポストを作る、連絡体制を密にするなどという放送に至るプロセスの見直しを伴うのも常だが、ともすれば取材や番組制作の現場にとっては「業務負担の増大」「受け身の仕事」という形になってしまう。
VTRをチェックする過程が増える。すると現場のディレクターからすれば、たとえばこれまで4回のプロデューサーチェックで済んでいたところが「試写」が6回にも7回にもなる。編集前にも見せて、編集後にも見せる。アニュアル主義やチェックの増大は、個々の現場記者やディレクターを「何も知らない子ども」や「歯車の一つ」として扱うことと同様だ。そのことが現場から力を奪っている。
どこかに取材に行った時に、上司に提出する連絡の書類が増える。報告すべき事項や報告相手が増える。そうなると、本来は必要な、取材するテーマや取材する人物に割くべき時間やエネルギーが削られてしまう。
日テレに限らず、多くのマスコミでは何か不祥事があるたびに会社としてこうしたコンプライアンス徹底主義に舵を切り、結果的に現場の人間たちの負担が増えてしまうというジレンマがある。不祥事のたびに報道番組や情報番組のスタッフはホールなどの一堂に集められ、社内で新たに決定された再発防止策について研修会を受けさせられる。重苦しい雰囲気の中、責任者が訓示する。社長はもとより担当取締役、局長らにとって、こうした不祥事は突発的に発生し、その都度「それぞれの進退がかかる責任問題」となっていくから本気度も違う。それより下の管理職にとっては、再発防止でどれだけ目に見える体制を構築するかが、評価・査定にも関わってくる。それゆえ、こうした不祥事が起きるたびに「ここぞとばかりに張り切る管理職」や「それを上手に利用して上昇しようとする管理職」も出てくる。いきおい再発防止策の構築は、社内向けの「内輪向け」パフォーマンスという色彩も帯びていく。
だが根本的な問題は、放送前のチェックのポストを増やしたり、関門を増やしたりする、ということではない。個々の人間たちが取材力=取材する力や報道の倫理を獲得することがむしろ大事ではないか。
角を矯めて牛を殺す。そんな愚行は避けてほしい。マニュアル主義を強めても、チェックポイントのポストを増やしても、同じような不適切な取材はまたいずれ起きる。今、会社としてやるべきことはむしろ逆なのだ。一人ひとりの記者やディレクターを育てること。ジャーナリストの精神を定着させること。それ以外に根本的な解決策などない。
▽水島朝穂さん「『ねじれなくなった政治』の先に――海兵隊と軍法会議」(今週の直言、2013年7月29日)
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2013/0729.html
安倍内閣の危険な兆候はほかにもある。参院選の最中、「週刊BSのTBS報道部」に出演した自民党・石破茂幹事長の「軍法会議」に関する発言が問題となった(『東京新聞』7月16日付「こちら特報部」)。
自民党憲法改正草案の9条の二の5項には、「軍人その他の公務員が職務の実施に伴う罪か国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、国防軍に審判所を置く」とある。自民党改憲草案の「Q&A」には、「軍事審判所」とは軍法会議のことだと明記されている。石破氏は、この条項を説明するなかで、現行自衛隊法の罰則では、防衛出動下令後に部隊に出頭しない場合、7年以下の懲役となるが(自衛隊法122 条)、「上限は最高7年!」と嘆きつつ、「『これは国家の独立を守るためだ。出動せよ』と言われたときに、いや行くと死ぬかもしれないし、行きたくないなと思う人がいないという保証はどこにもない。だから(国防軍になったときに)それに従えと。それに従わなければ、その国における最高刑に死刑がある国なら死刑。無期懲役なら無期懲役。懲役300年なら300年。そんな目に遇うぐらいなら、出動命令に従おうっていう。人を信じないのかと言われるけれど、やっぱり人間性の本質から目を背けちゃいけない」と述べた。石破氏が強調したのは、自衛官は服務宣誓をしているが、人間だから、それでも逃げる者がいる。だから、非公開の法廷で「軍の規律を維持すること」が大事だというのである。
「懲役300年」というのは刑の累積方式をとる米国などで言えることで、日本ではあり得ない。死刑、無期、懲役300年という数字を出して「規律の維持」を説く彼の目は(いつも以上に)座っていた。
戦時中、「軍の規律」は、恐怖による死の強制によって維持されていた。もし逃げれば、(1)軍法会議にかけられ、(2)郷里の家族が非国民扱いされ、(3)靖国神社に入れない、という三重の不利益が待っている。この恐怖が後ろに迫るなか、多くの兵士が無謀な白兵銃剣突撃を行って、「玉砕」していったのである。
いま、なぜ、このような恐怖を想起させるような軍法会議を設置するのか。「やっぱり人間性の本質から目を背けちゃいけない」という石破氏の言葉が印象に残った。自民党改憲草案が、「恐怖…から免れ、平和のうちに生存する権利」(憲法前文第2段)を削除したのもうなずける。
そこで想起されるのは、9年前のイラク戦争の時、陸上幕僚監部が出した『国際貢献活動に関するQ&A[平成4年6月〕』という部内資料のことである。そのなかで、「行きたくありません…』と断る(拒否する)ことはできますか?」という質問に対して、「意思を問われた場合には、『行きたくない』と意思を表明することはできます。しかしながら、個人の意思のみによって派遣要員を決定するものではありません。基本的には、個人の希望・身上等は十分に考慮されますが、任務として命令された場合には、進んでこれに従うことが期待されています」とある。「期待」から「軍法会議」へ。石破氏のいう「人間性の本質」論には、「健全な恐怖心」を抑圧する憲法への改変の狙いが透けて見える。
現憲法の下では、自衛隊法違反の罪に問われた自衛官の裁判も、裁判所の公開の法廷で審理が行われます。しかし、自民党の改憲案のように自衛隊が軍に変わり軍法会議が設置されると、裁判もダブルスタンダードになります。自衛隊が軍に変わるとはどういうことなのか。政治の動きだけでなく、多種多様な立場の人からの多様な意見、ものの見方、考え方、中でも戦争体験から得た歴史の教訓が、広く今の社会に知られてしかるべきだと思います。