差別は他者との違いを認めず、相手より自分の方が優れていると考えることから始まります。自分と他人には、違いはあって当たり前です。生まれも育ちも、性格も特性も、好きになる相手も、家族の形も人それぞれ。でもその違いを巡ってひとたび差別が起これば、次々に対象が広がりかねません。
「日本人ファースト」の言辞をめぐって、外国人を差別したいのではない、ここは日本なのだから、日本人が大事にされるのは当たり前だ、との主張を随分と目にしました。でも、「人種」の違いを基準にひとたび「ファースト」を認めれば、別の基準でも次々に「ファースト」が始まりかねません。そして「ファースト」ではない人たちに何が始まるか。たとえば今、日本は「健常者ファースト」の社会です。かつてナチス時代のドイツで、障害者に何が行われたかは、一つ前の記事で触れた通りです。
「日本人ファースト」の発信元が、「ファースト」ではない日本人のことを攻撃していることも、同じ一つ前の記事に書きました。「反日の日本人」や「非国民」です。
「自分には関係ない」と傍観していれば、いずれは差別の対象になってしまうかもしれません。「自分はマジョリティだから」と差別する側に身を置いて安心していても、いつ矛先が変わって攻撃が向かってくるか分かりません。人間はだれにでも多面性があります。ある面ではマジョリティでも、別の面ではマイノリティということは珍しくありません。一切の差別を認めないとの意思を社会で共有できれば、差別はなくせるはずです。
「差別は自分に返ってくる」。そんなことが頭に浮かんでいます。
思い出すのは、「マンガの神様」と呼ばれた故手塚治虫さん(1989年2月に60歳で死去)の後期の長編作品「アドルフに告ぐ」です。
1983年1月から1985年5月まで「週刊文春」に連載。わたしの手元には、1985年刊行の初刊単行本全4巻があります。連載が終わった後でこの作品のことを知り、単行本を1冊ずつ買って読み進めた記憶があります。通信社で記者の仕事に就いて3年目か4年目のころだったと思います。
舞台は第2次世界大戦を挟んだ時期の日本とドイツが中心です。「アドルフ」の名前の3人のドイツ人が登場します。ナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラーは実在の人物。あとの2人は、神戸でパン屋を営むユダヤ系ドイツ人一家の息子アドルフ・カミル、神戸に赴任しているドイツ外交官、ナチス党員の父と日本人の母の間に生まれたアドルフ・カウフマン。
物語の背景にあるのは、「ヒトラーはユダヤ人の血を引いている」とのナチス・ドイツの最高機密。ユダヤ人を抹殺しようとするヒトラーが、自身の血に苦悩する様子も描かれています。その出自を証明する文書を巡って、仲の良い友達だったカミルとカウフマンは時代にもてあそばれるように、それぞれに過酷な運命をたどります。
【写真:「アドルフに告ぐ」の一コマ】
ドイツの敗戦後、ナチス親衛隊将校だったカウフマンはパレスチナに逃れ、ゲリラ組織に加わってイスラエル軍と戦います。一方のカミルは建国されたイスラエルにわたり、軍の将校になっていました。
カミルの父親は、ドイツに行っていた際に逮捕され、ナチスの少年組織ヒトラーユーゲントにいたカウフマンによって処刑されていました。そのカウフマンは、パレスチナで得た家族をカミルの部隊に殺されます。かつて仲の良かった2人は、互いに激しい憎悪を抱きながら再会し、悲劇的な結末へと至ります。
物語には、戦前のソ連によるスパイ事件であるゾルゲ事件、特高警察による拷問、ヒトラー暗殺未遂事件、ヒトラーの死とドイツの降伏、日本各地への空襲と敗戦など、歴史上の出来事がふんだんに盛り込まれています。
初めて読んだ当初は、物語の壮大さと、カウフマン、カミルの2人の過酷な運命の描写、その大元にあったユダヤ人抹殺というヒトラーの“狂気”に圧倒されました。
しかし今、現代の日本社会で、「人種」を巡る差別の言説が公然と声高に叫ばれ、それが支持を受ける光景を目にして、思い至ったことがあります。自らにユダヤ人の血が流れていることに苦悶するヒトラーの姿に、作者の手塚さんは「差別は自分に返ってくる」とのメッセージを込めていたのではないかと。人が人を差別することの愚かさこそ、この壮大な作品の本当のテーマだったのかもしれないと-。
手塚さんが本当にそんなことを意図していたのかどうかは分かりません。でも「差別は自分に返ってくる」ということ自体は、差別の本質の一つだと言っていいと感じています。
参院選で「日本人ファースト」を掲げた参政党は選挙区7、比例代表7の計14議席を獲得しました。排他色が強い日本保守党も2議席を得ています。これで終わりではなく、大事なのはこれからだと思います。
自分と他人の違いは、あって当たり前です。生まれも育ちも、性格も特性も、好きになる相手も、家族の形も人それぞれ。そうした多様な人たちが、同じ社会で互いに違いを認め合って、支え合う。わたしはそういう社会で生きていたいし、次世代に引き継ぎたい。
傍観し沈黙してしまうと、差別は勢いを増します。だから、黙っているわけにはいきません。この社会で、それぞれの違いを認め合えば、差別はなくせます。一人一人がそれぞれの場所で、ささやかでも「差別はだめ」「だれもが平等で自由」と声に出す、隣の人と話す。その積み重ねがあれば、希望はつながります。
海外のマスメディアは参政党を「極右」と報じています。例えば英国の公共放送BBCは 原文でThe rise of the far-right 'Japanese First' party とのタイトルのリポートを日本語版サイトに掲載。「far-right =極右」と明記しています。
https://www.bbc.com/japanese/articles/cy9x3r1wd9eo
私たちの社会で起きている差別の扇動を、どんな言葉で、どう伝えるのか。日本のマスメディアの報道もこれからが重要です。
【追記】2025年7月24日
■基本的人権の戒め
SNSのXに「#差別反対というダサい漫画家」とのハッシュタグができています。主として「ダサい漫画家と言われようとも差別に反対する」という趣旨で使われているようです。
このハッシュタグが付いている投稿をたどっていて、手塚治虫さんが「手塚治虫のマンガの描き方」という著書の中で、「基本的人権」を守ることを強調していたことを知りました。
#差別反対というダサい漫画家
— 谷本惠美(惠は旧字体)🐾🐾 (@odayakaobaa) 2025年7月23日
というタグが流れてきた…。
そのダサい漫画家の先頭にいるのが手塚治虫先生なんだよな。
画像「手塚治虫のマンガの描き方」より pic.twitter.com/6J3VSoXzeV
どんなに痛烈な、どぎつい問題をマンガで訴えてもいいのだが、基本的人権だけは、断じて茶化してはならない。
それは、
一、 戦争や災害の犠牲者をからかうようなこと。
一、 特定の職業を見下すようなこと。
一、 民族や、国民、そして大衆をばかにするようなこと。
この三つだけは、どんな場合にどんなマンガを描こうと、必ず守ってもらいたい。
「差別に反対する」との意思を表示されている漫画家の皆さんに敬意を表します。
「基本的人権」を守らなければならないのは、マンガだけのことではないと思います。