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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

事実を歴史としてどう継承するのか~敗戦から74年の課題 付記・ブロック紙、地方紙の社説から

 日本の敗戦で第2次世界大戦が終結して74年。ことしの8月15日は、重苦しい気持ちで迎えました。
 一つは日本と韓国の政府間関係の悪化です。大きな要因は、元徴用工への賠償という歴史問題です。「日韓基本条約で解決済み」という主張があるにしても、日本はかつて朝鮮半島を植民地として支配した加害の側です。主張が対立するとしても、被害側に対して加害側は抑制的に振る舞い、粘り強く解決を目指すべきだろうと思うのですが、現時点で展望は見えません。
 韓国では8月15日は、植民地支配から解放され独立を回復した日として「光復節」と呼んでいます。政府式典での演説で文在寅大統領は「日本が対話と協力の道へ向かうなら、われわれは喜んで手を結ぶ」と述べ、日本に対話を呼び掛けたと報じられています(共同通信)。安倍晋三政権はどう答えるのでしょうか。
 歴史問題は、「あいちトリエンナーレ2019」の中の企画展「表現の不自由展・その後」が中止になった出来事でも影を落としています。韓国の彫刻家が制作した慰安婦を象徴した「平和の少女像」に対し、河村たかし・名古屋市長が「日本国民の心を踏みにじる行為」などと抗議。大阪市の松井一郎市長は慰安婦について「軍が関与して強制連行したということはなかった。朝日新聞が謝罪している」「デマの象徴である慰安婦像を行政が主催する展示会で展示すべきではない」と、記者団の囲み取材で話しました。「デマの象徴である慰安婦像」とは、慰安婦の存在そのものを否定したものではないのかもしれませんが、乱暴な表現です。強制連行があったかなかったかを離れても、慰安婦問題が問い掛ける今日的な意味は、戦争には必ずと言っていいほど性暴力が伴うという普遍的な問題であるとわたしは理解しています。しかし、企画展に抗議が殺到し中止に追い込まれた背景には、「日本国民の心」「デマの象徴」といった感情的な言辞が社会の中で少なくない支持を得る状況があるのでしょう。歴史的事実を社会で共有することが難しくなっているように感じます。
 例えですが、足を踏んだ側はそのことを忘れてしまうが、踏まれた側は覚えている、と言われます(殴った側、殴られた側の例えでも構いません)。加害側と被害側の意識の乖離が、日本の敗戦から74年たって今、日本社会の表層に噴き出しているように思えてなりません。例年この時期は、戦争体験の継承をマスメディアもテーマにしてきました。実際にはそれでは済まず、事実が事実として受け継がれない、歴史の歪曲を危惧しなければならない事態のように思います。事実に対してどういう意見を持つかは自由かもしれませんが、事実が社会で共有されない、あるいは事実が曲げられるなら、歴史から何も学ばない、学べないことになります。過去の事実を歴史としてどう共有し、受け継いでいくのかが、わたしたちの社会の課題であるように思います。

 そんなことを考えながら15日付の新聞各紙の社説、論説のうち、ネット上で読めるものに目を通してみました。特に地方紙、ブロック紙でいくつか印象に残るものがありました。一部を引用して書きとめておきます。

▼北海道新聞「きょう終戦の日 対話こそ平和紡ぐすべだ」/報復の連鎖に危うさ/改憲の時期ではない/多様な見方を重ねて
 https://www.hokkaido-np.co.jp/article/334901?rct=c_editorial

 戦後70年以上が経過しても消えない歴史問題は、東アジアの安定を損ねる火種と言える。
 ただ、その対処について一つのヒントがある。
 米コロンビア大のキャロル・グラック教授(歴史学)は歴史問題での対立を、「(過去の戦争に関する)国民の物語同士の衝突」と分析する。
 戦争の歴史をどう見るかは立ち位置によって変わる。国民の物語は自国側からの視点だけで、記憶は単純化されやすいため、相通ずることはなかなか難しいという。
 対立を和らげるには、相手の記憶を尊重しつつ、自らの記憶に多様な見方を加えていくことが重要になると教授は指摘する。
 そのために必要なのは、市民や学生も含めたさまざまなレベルでの対話や交流だ。
 日韓の対立が深まる中、両国の市民が友好のメッセージを交わす動きが見られた。政治的利害を超えて、相互理解を図る試みとして注目したい。
 まずは冷静になり、話す環境をつくり、胸襟を開く。それが平和を継続的に紡いでいくことにつながるに違いない。

▼信濃毎日新聞「終戦の日に 情動の正体を見極める」/安吾の見た大空襲/抜け落ちた事実は/考えて自らつかむ
https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190815/KP190814ETI090008000.php

 東京圏で活動する市民団体「history for peace(ヒストリー・フォー・ピース)」代表の福島宏希さん(37)と、メンバーの桐山愛音さん(19)に話を聞いた。
 2年前に発足したばかりの団体で、福島さんを除く5人のメンバーは10代、20代だ。少数ながら戦争体験者から話を聞き、戦跡を巡る継承活動に力を入れる。空襲に遭った民間人への補償問題の勉強会も開いてきた。
 侵略戦争を肯定するような主張に福島さんは違和感を抱き、自分で戦史をたどり、ウェブサイトで発信していた。続けるうちに、実際に体験者に会い視野を広げたいと思うようになったという。
 「世の中に出回る情報は事実がそぎ落とされている。体験者から重い現実を聞くごとに、自分の中の戦争像がはっきりするようになった」と福島さんは話す。
 時々見る戦争映画には「日本の被害を描いた作品が多い。映像にはない面、日本は他国に何をしたのか。社会全体に掘り下げる動きがない」とも。
 いま世界を覆いつつある風潮にも通じる大切な指摘だ。
 (中略)
 桐山さんは高校2年の時に広島の平和記念公園を訪ね、原爆ドームで若いガイドの話を聞いた。「過去、現在、未来…。当たり前のつながりを初めて実感した。強烈な感情が刻まれて、歴史を学ぼうと思った」と言う。
 「history」に入ると、戦争孤児となった人を取材して記録をまとめた。今月開いた戦争体験者7人の話を聞く会では、運営の中心役を担っている。
 刻まれた強烈な感情とは何かを尋ねると、桐山さんは「うまく言葉にできない」と答えた。体験者と話をする前と後で、戦争との距離感が変わったのを桐山さんは感じている。史実を調べ、考え続けることで「刻まれた感情」は輪郭を帯びてくるのだろう。

▼新潟日報「終戦の日 歴史と向き合い平和守る」/記憶を風化させない/複眼的視点を持とう/若い世代に語り継ぐ
 https://www.niigata-nippo.co.jp/opinion/editorial/20190815488835.html

 上越市直江津には先の大戦で捕虜となった兵士の収容所があった。オーストラリア人捕虜約300人が暮らしたが、過酷な労働や劣悪な環境下で60人が死亡した。そこで働いていた日本人職員8人は戦後、戦犯として処刑された。
 上越日豪協会は1996年、収容所跡地の平和記念公園に平和友好像を建てた市民グループが母体となって発足した。毎年8月に公園で平和の集いを主催し、ことしも10日に開催した。
 元捕虜や遺族らとの交流や、子どもたちに平和の大切さを語り継ぐ活動も行っている。
 会は2年前、設立20周年の記念誌を作成した。オーストラリア人作家が捕虜を取材し、上越市で講演した内容が掲載されている。
 講演の中で、捕虜が当時書いていた日記が紹介されている。「収容所では下痢がまん延しており、非常に重症な患者もいる。ある者はひどく殴られた。おそらく今までで一番ひどい殴られ方だ」などと生々しい描写が続く。
 前会長の近藤芳一さんによると、相手側の視点に立った話は、日本人遺族らへの配慮もあり、会員の中には記念誌に掲載することに異論もあったという。
 近藤さんは「日本、オーストラリアそれぞれの視点を共有、統合した上で歴史を語ることが大切です。内向きな姿勢ではなく、互いの立場を理解することから、信頼関係が生まれてくる」と話す。
 「自国第一」を掲げる大国のリーダーに象徴されるように、相手の言い分や立場を軽んじる排外的な考え方が日本を含め各国で広がっているように見える。
 そうした中で、上越日豪協会の取り組みは、歴史を複眼的に見る大切さを教えてくれる。つらい過去を見つめ、反省すべき点を伝えていくことを忘れてはならない。

▼京都新聞「終戦の日に 『継承』の意味を問い直す時」/遺品が語る原爆被害/耳傾ける「同伴者」に/記憶が薄らぐ危うさ
 https://www.kyoto-np.co.jp/info/syasetsu/20190815_3.html

 京滋を含めた各地で、戦争体験を記録したり、語り伝えたりする活動が行われている。戦禍を直接体験した人が減っていく中で、戦争の記憶が風化してしまうことを懸念する人は少なくない。
 ただ、すでに膨大な数の証言が書籍や映像などの形で蓄積されている。こうした記録は、体験者の「伝えたい」という思いだけでは完成しなかっただろう。その体験を「聴きたい、知らなければ」と考えた聞き手がいたからこそ、後世に伝わった面もあるはずだ。
 広島の被爆者が残した体験記や絵を詳細に分析した直野章子・広島市立大教授は、被爆体験の伝承は、証言に耳を傾ける「同伴者」なくして成立しない、と語る。
 聞き手は話をじっくり聴くことであらためて被害を認識し、原爆への疑念を強める。被爆者も体験を語ることで「再び被爆者をつくらない」との信念を形成する。
 直野さんは著書「原爆体験と戦後日本」で、継承されるべき被爆体験は「被爆者と被爆者でない者との共同作業の果実」であり、その継承の意味を「被爆者が同伴者とともに築いてきた理念を次世代に引き継ぐこと」と説く。
 戦争の直接体験者がいなくなった後に何を語り継いでいくべきかについての、新たな視点といえるだろう。体験者と同伴者の共同作業で生まれた証言や記録に触れることで、私たちも新たな同伴者として記憶をつないでいく役割を担うことができるかもしれない。

▼西日本新聞「終戦の日 歴史に学び『不戦』後世へ」/高齢者も戦争知らず/終わっていない悲劇/決して筆を曲げずに
 https://www.nishinippon.co.jp/item/n/535270/

 インターネット上では今、歴史資料を含めて膨大な情報が流れています。ところが日本人の視野はむしろ狭くなっている、と歴史家らは指摘します。自分の関心事だけを追い、全体像をつかんだり他者の立場を考えたりする想像力は低下している。その結果、「あの戦争は正しかった」といった言説を信じ、それを否定する人を「反日」呼ばわりする-。そうした風潮が目立つからです。
 今、米国をはじめ大国の「一国主義」が世界を席巻しています。国際協調の歩みは後退して排他主義が横行、テロや核開発の動きも拡散しています。日本の外交・安全保障政策は米国追従のままでよいのか。本来の役割を見失っていないか。記憶の風化が進む今こそ歴史から謙虚に学び、平和の尊さを見据える想像力が必要です。
 報道機関がかつて国家権力に屈し、軍国主義に加担した史実も消えることはありません。その反省に立てば、報道の最大の使命は「権力を監視し、日本に二度と戦争をさせないこと」に尽きます。
 時代がどう変わろうと、筆を曲げてはならない。そのことも私たちの誓いとして肝に銘じます。

▼沖縄タイムス「[「終戦の日」に]日韓共通の利益を探れ」
 https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/458260

 あらためて思い起こしたいことがある。8月15日は終戦の日であると同時に大日本帝国が米国などの連合国に敗れ、崩壊した日だという点だ。
 日本の敗戦は、日本の植民地支配下にあった朝鮮の人々にとっては「解放」の日と位置付けられ、日本と戦った中国では抗日戦争勝利の日とされている。
 日本の敗戦によってアジアの人々はどのような戦後を迎えることになったのか。
 敗戦の暮れ、衆院議員選挙法の改正で、かつて「帝国臣民」だった在日朝鮮人や台湾人ら旧植民地出身者と、沖縄県民の選挙権が停止された。
 サンフランシスコ講和条約発効の際、旧植民地出身者は、国籍選択権を認められないまま日本国籍を失った。
 冷戦の顕在化によって朝鮮半島は南北に分断され、沖縄は復帰までの27年間、米軍統治下に置かれた。沖縄や韓国、台湾が反共軍事拠点として冷戦の最前線に置かれたことを忘れてはならない。
 終戦の日は、先の大戦の犠牲者を追悼し平和を祈念する日であるが、戦後、アジアの人々がたどった歴史体験にも目を向けたい。
 気がかりなのは、国交正常化以降、最悪ともいわれる日韓関係である。
 (中略)
 両国で「嫌韓」「反日」の感情が沸騰する現実は異常であり、若者の交流などを通して両国の国民感情を和らげていく努力が必要だ。

 15日は政府主催の全国戦没者追悼式が開かれ、5月に即位した現天皇が「深い反省」を口にしたと報じられています。東京発行の新聞各紙夕刊(朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、日経新聞、東京新聞)はそろって1面トップ。主見出しは、朝日、毎日、読売、東京は「平和」ないし「不戦」、「誓い」、「令和」でそろいました。昭和の戦争の体験を、平成に次いで令和の時代でも継いでいく、という意味を込めてのことでしょう。

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 わたしは、元号の「令和」を過度に強調しない方がいいと考えています。理由の一つは、知らずのうちに「戦争」を内向きに、つまり被害の側面ばかりを意識することにならないか、と思うからです。アジア各地での日本の加害を考えるのに、日本社会の時間の区切り方は関係がありません。
 もう一つは、天皇制と抜きがたく結びついている元号を所与の前提のように扱うことは、戦争と天皇制の問題、さらに言えば天皇の戦争責任の問題を見えづらくさせるのではないか、と考えるからです。