ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

揺らぐ「マス」の正当性と「プロ」の正統性

 12月9日に東京・池袋の立教大学で行われたNPJ(News for the People in Japan)などの市民メディア共催のパネルディスカッションに、パネラーの1人として参加したことは以前のエントリーで報告しました。12月13日のエントリーでお知らせしたように、パネルの討論の動画もJANJANにアップされていますが、あらためてわたしが発言したことや、参加してみての感想を補足も含めてまとめておきます。
 主催者側からはわたしの発言内容に特に指定はなかったのですが、「市民メディアとマスメディア」というテーマとマスメディアの労働運動の経験に照らして、マスメディアの現場からの報告がわたしの役どころだろうと考え、レジュメには「揺らぐ『マス』の正当性と『プロ』の正統性」のタイトルを付け、準備しました。市民メディアとマスメディアの対比が議論の対象になること自体、インターネットの普及の結果だと思いますが、マスメディアの「正当」と、そこでジャーナリズムにかかわって働く記者たちのプロフェッショナルとしての「正統」が大きく揺さぶられていることは、ネット社会という切り口からマスメディアの現状を見た時に顕著です。
 そのことを象徴していると思える最近の3つの出来事があります。ひとつは6月8日に起きた秋葉原事件です。この事件では、現場に居合わせた多くの人びとからネット上へ事件の1次情報が発信されました。携帯電話などで撮影した現場写真や詳細な目撃証言がブログなどにアップされ、現場からの実況中継もありました。一方で、被害者の救護が行われている横で携帯電話のカメラをかざす姿に「不謹慎だ」との批判も起きました。新聞もそうした人々を批判しましたが、しかしその紙面には、そうした人々が撮影した容疑者が取り押さえられる決定的な瞬間の写真が第一面に掲載されました。そういう倒錯した状況が生まれていました。この事件には2つの特徴がありました。ひとつは一次情報の発信が今やだれでもできるようになり、マスメディアの独占が崩れたこと。これはプロとそうでない人々との境界が融解したと言ってもいいと思います。もう1点は、事件事故現場での取材で、例えば被害者にカメラを向けたり、インタビューを試みたりといった行為はマスメディアも以前から批判を浴びていましたが、プロの境界の融解により、一般の人々もそうした批判にさらされるようになったことです。この事件については、発生から間もない時のエントリーでも少し触れました(「何が起きたか」を伝えるのは誰か〜秋葉原・無差別殺傷事件で思うこと)。
 2つ目は毎日新聞WaiWai問題です。毎日新聞の英文サイトに不適切、ないしは下品と表現していい記事が掲載されていました。そのことに対して毎日新聞は紙面で3ページにわたる検証と謝罪を掲載し、自社サイトにもアップするのですが、毎日新聞への批判はやまず、ネットユーザーから毎日新聞の広告主にいわゆる電凸が続きます。ついには毎日新聞のサイトから広告が消える事態になりました。だれに謝ればいいのか分からない、組織的に電凸が行われているようでもない、消費者問題のような側面もある、そういう事態です。元毎日新聞記者のフリージャーナリスト佐々木俊尚さんは「情報の非対称戦」と呼んでいます。この問題は、他紙やテレビが触れないことも特徴です。実はわたし自身も、この問題をどう考えればいいのか結論はまだ持っていません。今までにマスメディアが経験したことのない事態です。
 3つ目は10月26日、東京・渋谷で麻生首相邸見学に向かっていたグループが無届けの集団示威行動をしたなどとして、3人が東京都公安条例違反や公務執行妨害容疑で現行犯逮捕された事件です。「渋谷事件」とも呼ばれるこの事件では、現場にマスメディアの記者もいました。主催者側はその日のうちから「不当逮捕」として激しい抗議を繰り広げましたが、報道では「警視庁によると、3人は〜した疑い」という逮捕容疑を伝える定型の逮捕記事ばかりでした。一方で、逮捕の瞬間を撮影した動画がYouTubeにアップされ、驚異的なアクセスを記録しました。マスメディアの多くが地味で単発的な報道に終始した中で、ネットを通じて問題が広く知られていく、そういう事件でした。別の言い方をすれば、かつてはマスメディアが伝えることでニュースは社会に広まった、マスメディアが伝えないことは社会にとってはなかったことに等しい、そういう状況だったのが一変した、ということです。
 さて、「正当」「正統」ともに揺らぎが生じているマスメディアですが、わたしはキーワードのひとつは「会社ジャーナリズム」だろうと考えています。マスメディアも利益を追求する民間企業である以上、記者も企業に所属する会社員です。労働組合活動の経験からも思うのですが、企業組織と記者の「個」の関係をどう考えるか、という問題でもあると考えています。
 この「会社ジャーナリズム」を理解する上で参考になりそうなものに、日本新聞協会の「編集権声明」という1948年の声明があります。新聞協会のホームページの「取材と報道」の項に所収されていますから、今でも有効な声明です。ここには「編集権の行使者」が経営管理者およびその委託を受けた編集管理者、取締役会、理事会であると書かれています。「編集権の確保」の項には、外部からの編集権の侵害は断固許さないと、これはもっともで分かりやすいことが書かれているのですが、同時に、内部においても「定められた編集方針に従わぬものは排除」と明記されています。実際にマスメディアの内部で日常的にこの声明が振りかざされているわけではありませんが、しかしこういう声明が今も有効であるということは、マスメディアの組織内で記者の「個」の問題を考える際には知っておいていいと思います。
 「会社ジャーナリズム」に関連しては「新聞記者=新聞社の記者職の社員」ではあるけれども「新聞記者=ジャーナリスト」とは限らないという問題もあります。新聞記者と言えばプロのジャーナリストというイメージ(実際、海外に出ると「新聞記者」は機械的にjournalistと意訳されることも多く、わたしは随分と照れ臭い思いをしました)ですが、そもそも新聞記者たるには何が必要で、何を満たせば新聞記者なのか、その社会的な存在としての「職能」は実は未確立なのではないかと考えています。これは様々な面でそうです。「記者教育」は実態としては企業の社員教育であり、労働組合も日本では「企業内の正社員組合」が主流で、欧米のようなジャーナリストが個人の資格で加入する職能組合はありません(この点は他産業でも同様で、マスメディアに限った点ではありませんが)。また記者の仕事の評価は、詰まるところは企業による社員の業績評価です。
 一方で、産業としてマスメディアを見ると、週刊ダイヤモンド「新聞・テレビ複合不況」と大見出しを掲げた特集を組んだように、明るい話は新聞・放送ともにまったくありません。仮に「会社ジャーナリズム」であっても、表現の自由や市民の知る権利に奉仕し、民主主義社会に貢献できていれば必ずしも悪いわけではないと思いますが、経営面からも「会社」の足元が揺らいでいる中では、なかなか元気も出てこないかもしれません。
 「正当」も「正統」も揺らぎ、このままでは新聞記者が自らをプロと名乗る根拠は「新聞社に所属し、記者クラブに加盟している」ぐらいしかなくなってしまいかねないと思います。「新聞記者=ジャーナリスト」であるためには何が必要かを考えるには、今やマスメディアが報じないことも社会の人たちは知っている、そういう人たちも読者であり視聴者である、ということをまず認識しなければならないと思います。情報(コンテンツ)を社会に広く伝達する媒体(コンテナー)はかつてマスメディアだけでした。その状況が劇的に変化したことを、マスメディアで働く人間はまず自覚する必要があります。その上でマスメディアの今後の役割を考えれば、色々なことが見えてくると思います。
 以上が、パネルディスカッションに際してわたしが事前に準備し、当日の冒頭発言でお話した内容のあらましです。

 当日は会場の参加者の皆さんとの質疑応答も含めて、渋谷事件についての議論が盛り上がりました。逮捕された当事者の方も1人たまたま会場にいて、渋谷警察署で呼ばれていた呼び名のままに「渋谷1号」と自己紹介して発言されました。わたしはパネラーの1人の下村健一さんの指摘が強く印象に残っています。下村さんはYouTubeにアップされた動画について、市民メディアはこうした1次情報をどんどんネット上に出すべきだとしつつ、しかし「逮捕が不当である」とする証拠としては弱いと指摘しました。動画に写っている範囲のことは分かるが、動画に写っていないところで何があったのか、あるいは何もなかったのか、そこまでは証明できないからです。代わってそれを取材し、情報として発信するのがプロの仕事のはずで、現場に居合わせたマスメディアの記者がそういう記事を書かずに、あろうことか「不当である」と抗議を受けている当事者である警察の発表に基づく定型記事しか書かなかったことが本当に残念だ、という趣旨のことを話しました。
 そうした議論も聞きながら、わたしなりにまず思ったことは、以前のエントリーで書いたことの再録ですが、プロとしてジャーナリズムに関わるということは、「表現の自由」を守り抜くことを職業上の責務と受け止め、そのために行動しているかどうかではないか、ということです。マスメディアの特徴の一つは、組織的な取材、チームプレーで動くことです。その良さを最大限に発揮し、「表現の自由」を脅かす一切のことと対峙していくことが、プロのプロたるゆえんではないかと強く感じました。
 マスメディアが掲げる「客観」についても、あらためてその意味をマスメディアが自問する必要があるとも考えています。渋谷事件の現場に居合わせた記者たちは、公的機関である警察の発表を忠実に伝えること、次に主催者側の言い分を一定程度併記することで記事の客観性を担保しようとしたのだと思います。マスメディア内部の判断基準ではそれがスタンダードだと思いますが、さらに一歩進めて、ジャーナリズムが追求する「客観」とは何か、議論を深める必要があると思います。「客観」と対になるのは「主観」ですが、「主観」の逆は「客観」かと言えばそうではなく「別の主観」であり、すべての「主観」を俯瞰するのが「客観」なのかもしれません。
 パネラーの1人の田畑光永さんからあった「マスメディアが『これでいい』と言われたことが今までにあっただろうか」との指摘も、強く印象に残っています。マスメディアの課題は多々あるとして、市民メディアとどう相互の補完関係を築いていくのか。両者は決して相対する関係ではないだろうと思いを深くしています。

 ※渋谷事件については「麻生出てこい!!リアリティツアー救援会ブログ」があります。また逮捕された当事者の弁護人の高橋右京弁護士がまとめたリポートがNPJにアップされています。

 ※毎日新聞WaiWai問題は、このブログでも何度か触れてきました。関連するエントリーをまとめておきます。
 趣の異なる新聞不祥事〜英文毎日の不適切コラム問題(6月30日)
 ひとこと:英文毎日問題で7月中旬に調査結果公表(7月8日)
 ひとこと:英文毎日コラム問題で毎日新聞が内部調査結果を掲載(7月22日)
 外国人記者の「働かされ方」に問題はなかったか〜毎日WaiWai問題検証で考えること(7月28日)
 検証と説明を期待〜毎日新聞の小泉元首相記事訂正とWaiWai新たなおわび(9月28日)
 読書:「ブログ論壇の誕生」(佐々木俊尚 文春新書)(10月5日)