ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

被爆者運動の歴史から見通す原発事故〜被爆地の記者に学ぶ視点

 8月6日の広島に続き、9日は長崎の原爆の日でした。一つ前のエントリー(「大震災、原発事故と『戦争と平和』、ジャーナリズムの間〜8月を迎えて考え続ける)を書いた後も、同じ核である原爆と原発の二つをどう考えていけばいいのかと、色々な人の発言を読み、さまざまに思いをめぐらしている中で、「ああ、そうだ、そうなんだよな」と、うなずきながら読み進んだ論考がありました。広島の中国新聞と並ぶ被爆地の地元紙・長崎新聞の報道部長、森永玲さんの署名記事です。紙面では9日付けの朝刊に掲載されたようです。
※「8・9に 報道部長・森永玲/対立超え、不信の緩和を」=長崎新聞サイト(2011年8月9日)
http://www.nagasaki-np.co.jp/news/peace/2011/08/09104931.shtml
 記事のリード部を引用します。

 日本が初めて経験した巨大な原発事故なのに、福島で起きていることは過去に見た光景のように思える。放射線による健康被害という将来の不確かな恐怖に直面する点で、原発事故被災者は原爆被爆者と同じ状況に立たされた。これまで原爆被爆者と国は健康被害の認否で常に対立し、被爆者は闘争の渦中へと巻き込まれていった。翻って今、福島を見ると国への不信を募らせる被災者が多くいる。放射線被害をめぐり繰り返されてきた対立が、早くも福島で再現されているのではないか。

 続いて森永さんは、戦後の最初の10年は被爆者は国から放置されていたこと、その後、国は援護と原爆症認定という被爆者の要求をはねつけるために科学者の専門的見解を必要とし、そのために被爆者と専門家の互いに望まない対立が構造化されたことを振り返り、福島の現状に触れて最後にこう書きます。

 科学を後ろ盾にした国に何度もはね返され、それでも原爆被爆者は闘い続け、直接行動と、場合によっては裁判で成果を挙げてきた。それがそのまま被爆者運動の歴史だ。だが原爆被爆者が経験した全人生をかけるような苦難の闘争に、福島の被災者もまた取り組まなければならないのか。それは過酷にすぎる。不毛な対立を超え、被災者の不信と不安を緩和する道を探らなければならない。被災者が納得できる議論と施策を提供する必要がある。利害や立場の違う人たちによる冷静で前向きな討議の活発化を望む。発言する被爆者や科学者が増えることを願う。

 広島でも長崎でもマスメディアは、被爆者の体験や原爆症認定を求める裁判などの闘いを熱心に報じています。その現状からは、特に若い記者には想像しにくいかもしれませんが、戦後しばらくの間、被爆者は自らの体験を口にすることができず、沈黙するしかありませんでした。なぜか。被爆者差別があったからでした。そしてその間、被爆者は絶望のうちに次々に息を引き取っていきました。6年前の8月、日本の敗戦から60年の節目の年に長崎で開かれたシンポジウムで、わたしはそのことを知らされました。被爆者たちが死んでいったまさにその当時、マスメディアがそのことに気付いていなかったことに「痛恨の思いがある」と語ったのは、パネラーの長崎新聞論説委員の方でした。そして、その論説委員の方は、同じ戦争の被害を受けた者同士の間に差別を生み出したのは何かを考え続けることが、地元メディアの責務だと話しました。
 この論説委員の方と、森永さんと、被爆地長崎の新聞記者2人の指摘を重ね合わせることで、わたしはマスメディアで働く者の一人として広島・長崎の原爆の惨禍と、福島の原発事故とをどう結んで考えていけばいいのか、理解することができ始めたと感じています。
 戦争は国家による国権の発動でした。そのために民衆が大きな犠牲を強いられ、今日に至るまで苦悩は続いています。広島・長崎への原爆投下は被爆者の立場に立てば、広島と長崎でなければならなかった必然はありません。現に長崎へ投下された原爆は、当初は小倉(北九州市)が目標でした。個人ではどうしようもない要因で運命が狂わされる。それが戦争の悲惨さの一つです。一方の原発も国策です。日本中に50基を超える原子炉が立ち並び、福島第一原発はその一カ所です。福島の人々の立場に立てば、福島第一原発でこのような深刻な事故が起きたのは、果たして何らかの必然性のためなのか。そのようには考えられません。やはり個人ではどうしようもない要因です。
 被爆地の新聞の経験にならうなら、マスメディアは福島の人々、さらには被災地の人々の取材を続け、今現地では何が起きているのか、あるいは被災者の避難先で何が起きているのかを伝え続けることが何より必要なのだと思います。そして、事故が被災者自身の責めに帰すわけではない以上、いわれのない差別も許すわけにはいきません。仮に、差別があるのだとしたらそれをなくすためには何が必要か、どのような情報提供ができるかも、マスメディアの課題だと思います。

※6年前のシンポジウムのことは、当時運営していたブログ「ニュース・ワーカー」に書き留めています。少し長くなりますが、ここに全文を引用します。
「長崎で考えさせられたこと」=ニュース・ワーカー2005年8月11日
http://newsworker.exblog.jp/2478939

 広島に続き、8月7日から10日まで長崎に出張した。わたしが議長を務める日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)と、地元の長崎マスコミ共闘会議の共催で8日に反核フォーラムを開催。9日は長崎市内に残る原爆被害の跡を歩いてめぐった。
 フォーラムのテーマは「被爆60年・平和とメディアの役割」。入市被爆者で長崎平和運動センター被爆連・事務局長の奥村英二さん、長崎新聞論説委員の高橋信雄さん、メディア論の桂敬一立正大学教授をパネラーに迎えたパネルディスカッションは密度が濃かった。なかでも高橋さんの指摘にはハッとさせられた。地元紙として曲がりなりにも被爆者の声を伝え、核廃絶を求める市民の声を代弁してきたが、これまで伝えきれなかったものも大きい、という。本当に支援が必要だった被爆者が、自らの思いを語ろうにも語れないまま、沈黙するしかないまま、とうの昔に絶望のうちに皆死んでいった、との指摘だ。
 今でこそ、新聞も被爆者の被爆体験を積極的に発掘し紹介しているが、これは実は最近のことなのだという。戦後20年間、被爆者は自らの体験を口にすることができず、沈黙するしかなかった。なぜか。被爆者差別があったからだ。長崎という地域社会の中にすら、被爆者に対する差別があった。日本人はみな、戦争の被害者という立場では同じはずなのに、差別ゆえに被爆者は声を上げることができなかった。メディアもまったく動かなかった。被爆者は身体的な苦痛に加え、精神的にも苦しまなければならなかった。そして、絶望のうちに死んでいった。
 多くの被爆者がそうやって死んでいった、死んでいくしかなかったことに、メディアはようやく気付いた。被爆者たちが死んでいった、まさにその当時は気付いていなかった。そのことに高橋さんは「痛恨の思いがある」と語った。そして、同じ戦争の被害を受けた者同士の間に差別を生み出したのは何かを考え続けることが、地元メディアの責務だと話した。
 また、戦争体験の風化があるとすれば、それはジャーナリズムから始まるのではないかとも訴えた。常に、戦争体験を掘り起こし、社会に伝えていく努力をしていれば風化は起こりえない。風化が始まるとすれば、ジャーナリズムがその努力を怠るようになったときだという。記者は被爆者の被爆体験を追体験することはできないが、体験を掘り起こしていくことで、被爆者の気持ちに近づくことはできるはずであり、ジャーナリストは被爆者が亡くなった後に、現代の語り部の役を果たさなければならない、と訴えた。
 パネルディスカッションの真っ最中に参院で郵政法案が否決され、あれよあれよと衆院解散へと進んだ。桂教授は、衆院選で問われるべきは、被爆体験を含めた平和憲法改憲の是非でならなければならないと指摘した。決して郵政法案ではないと。その通りだと思う。それが選挙の焦点となるかどうか、これから1カ月間のメディアの真価が問われる。

 9日の長崎の平和祈念式典では、田上富久市長は「脱原発」という用語こそ使わなかったものの「『ノーモア・ヒバクシャ』を訴えてきた被爆国の私たちが、どうして再び放射線の恐怖に脅えることになってしまったのでしょうか」「たとえ長期間を要するとしても、より安全なエネルギーを基盤にする社会への転換を図るために、原子力にかわる再生可能エネルギーの開発を進めることが必要です」と、核の平和利用との決別に踏み込みました。
※平成23年長崎平和宣言 http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/peace/japanese/appeal/
 全国紙各紙の大阪本社発行の夕刊最終版は、朝日と毎日は1面トップで報じました。読売、産経、日経はいずれも株安が1面トップでした。今回も各紙の主な見出しを書き留めておきます。
▽朝日(1面トップ)「脱原発 誓う長崎」「『再生エネルギー開発を』」「原爆の日 平和宣言」
▽毎日(1面トップ)「被爆国に放射線の恐怖なぜ」「再生エネ開発訴え」「長崎原爆の日
▽読売(1面準トップ)「『核』制御 過信に警鐘」「『再生エネ開発 必要』平和宣言」「長崎66回目 原爆忌
▽産経(1面準トップ)「市長『再生エネ開発を』」「66回目 長崎原爆の日
▽日経(1面左肩)「非核『再生エネ開発を』」「市長平和宣言 米代表が初参列」「長崎 66回目原爆の日