ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

「キャラウエイ」という名前と沖縄の苦難の歴史

 自宅で郵送で購読している琉球新報の4月6日付紙面が届きました。5日に那覇市で行われた沖縄県の翁長雄志知事と、日本政府の菅義偉官房長官の初の会談が1面トップ。主見出しは大きく「『キャラウェイ重なる』」です。このブログの以前の記事で触れた通り、翁長氏は、菅氏が米軍普天間飛行場辺野古移設を進めるのに際して、必ずと言っていいほど「粛々と」と口にすることに対して、「上から目線」と批判しました。その際、菅氏になぞらえたのが、米統治期の1960年代に最高の権力者であり、「沖縄の自治は神話である」と言い放ったキャラウェイ高等弁務官でした。翁長氏にしてみれば、キャラウェイ高等弁務官になぞらえるのは菅氏と日本政府、日本本土の「上から目線」に対する最大級の怒りの表現だったのだろうと思います。そして沖縄では、新聞が「キャラウェイ」という名前を大きく見出しに取ることで、知事が県民の怒りを代弁したことが読者に伝わる、知事も新聞も読者も同じ怒りを共有していることが、そこに表れているのだろうと感じます。

【写真説明】4月6日付の琉球新報1面

 しかし、日本本土ではまだまだ沖縄の怒りが理解されていないように思います。これもこのブログの以前の記事で触れたことですが、5日の翁長知事と菅官房長官の対談を報じた東京発行の新聞6紙の中で、「粛々と」発言を翁長知事が「上から目線」と批判したことを1面掲載の本記の中で紹介した新聞は朝日、毎日、読売、東京の4紙。しかし「キャラウェイ」の名前に触れたのは東京新聞だけでした。もう一つ、翁長氏の発言の中には「日本国の政治の堕落」という極めて厳しい言葉もありました。この言葉を1面本記で紹介したのは朝日、日経、産経、東京の4紙。しかし、その前段で翁長氏が強調した、沖縄の基地はすべて土地を強制接収されたこと、そうした経緯を含めて紙面で紹介したのは朝日と東京の2紙でした。この強制接収は「銃剣とブルドーザー」と呼ばれます。住民を米軍が銃剣で追い立て、家も畑もブルドーザーで押しつぶして基地が拡張されていったからです。
 沖縄で「キャラウェイ」という名前や「銃剣とブルドーザー」という言葉が持つ歴史的な意味が日本本土でも理解され、1945年の敗戦後の70年間、沖縄と日本本土では異なった時間が流れていたことが広く知られるようになることがまずは必要だと思います。

【写真説明】4月6日付の琉球新報総合面と社会面

 以下に、会談翌日の6日付の琉球新報沖縄タイムスの社説の一部を書きとめておきます。

 ▼琉球新報「翁長・菅会談 自治の抑圧 即時やめよ 辺野古移設の断念を」/「政治の堕落」/「弊履」のような扱い
 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-241465-storytopic-11.html

 キャラウェイの圧政に屈せず、沖縄県民は自らの代表を自ら選ぶ「主席公選」を勝ち取った。当選した屋良朝苗氏は、日本復帰に際して基地のない平和な沖縄県を目指した。1971年「復帰措置に関する建議書」を抱えて羽田空港に降り立ったとき、衆院沖縄返還協定特別委員会は、与党自民党が数の力で返還協定を強行採決していた。復帰後も米軍による基地の自由使用が決まった。
 このとき屋良氏は破れた草履を意味する「へいり(弊履)」という言葉を使い「沖縄県民の気持ちと云(い)うのはまったくへいりの様にふみにじられる」(11月17日付日記)と憤激した。安倍政権の沖縄に対する姿勢はこの言葉と重なる。
 翁長知事は菅氏に、安倍政権は辺野古が唯一の解決策のように国民を「洗脳」していると批判した。政府が基地の縮小を持ち出すことについて見掛け倒しで実現しない「話のごちそう」と突き放した。
 県民の民意を体現して知事が繰り出す言葉は非常に重みがある。菅氏はその重みを受け止め、辺野古移設が不可能だと認識すべきだ。
 そうでなければ、菅氏の来県は元知事の平良幸市氏が沖縄を訪問した国会議員団の主体性を疑問視し非難した「何のかんばせ(顔)あって相まみえんや」となる。

 ▼沖縄タイムス「[翁長・菅初会談]菅流 上から目線にノー」
 http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=110476

 会談では、菅氏が抑止力や危険性除去を理由に「辺野古が唯一の解決策」とこれまでの考えを主張。翁長氏は基地建設の歴史をひもとき、政権との距離についても触れた。
 米軍上陸後の軍事占領で一方的に土地を囲い込まれ、講和条約発効後、「銃剣とブルドーザー」で強制的に接収されたのが沖縄の基地である。自ら差し出したものでもないのに、危険性除去のために新たな基地を負担しろというやり方に対し翁長氏は「政治の堕落だ」と厳しく批判した。
 辺野古移設で菅氏がよく使う「粛々と」という決まり文句についても、「上から目線の言葉」と指摘し、県民の多くが感じていることを代弁した。
 翁長氏が政府への不信感をストレートにぶつけたのは、知事就任以来、「冷遇」されているからではない。
 名護市長選、知事選、衆院選の三つの選挙で移設反対の候補が全勝し、各メディアの世論調査で7割前後の県民が移設に反対しているにもかかわらず、菅氏がこれを否定するような民意無視の発言を繰り返したからだ。

 以下は、沖縄タイムス基地問題の担当記者だった屋良朝博さんの解説記事です。ほんの一部を引用します。かなりの長文ですが、沖縄の基地問題の論点が分かりやすく解説されています。
 「翁長・菅会談を読み解く−『海兵隊=抑止力』は真実か?」2015年4月8日
  http://www.okinawatimes.co.jp/cross/?id=235

 1956年に海兵隊は沖縄に移駐した。そのころ日本は戦後復興を終えて、経済は高度成長へ向け離陸したころだった。56年の経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言し、本土は経済発展を甘受していった。その時、沖縄では海兵隊の移駐で新たな基地用地が必要となり、米軍は銃剣で住民を追い払い、ブルドーザーで家屋を押し潰していった。「銃剣とブルドーザー」。海兵隊の沖縄移転は、本土は経済発展、沖縄は安保負担という仕分けが出来上がった象徴ともいえる。
 沖縄は27年間の米軍圧政下に置かれ、1972年にようやく日本復帰できたかと思いきや、基地の重圧は一向に軽くならなかった。
 翁長知事の「無念さ」はこうした沖縄の戦後史に根ざすのだろう。菅長官へ向けた言葉も厳しかった。「自ら奪っておいて、県民に大変な苦しいを今日まで与えて、普天間が大変だからその危険性の除去のために沖縄が負担しろ、と。(反対する)お前たちは代替案を持っているのか、日本の安全保障をどう考えるんだ、と。こういった話がなされること自体が日本の国の政治の堕落ではないか」。