「闇」は残っているのか~オウム真理教事件を語り継ぐ意義

 1995年3月の地下鉄サリン事件など一連のオウム真理教の事件で死刑が確定していた松本智津夫(63歳、教祖名・麻原彰晃)ら7人の刑が7月6日、執行されました。わたしが現在の勤務先に入社し記者になったのは1983年。教団の前身の「オウム神仙の会」が設立されたのは84年2月だったとされます。わたしにとっても、まさに同時代の事件だったのだと、今さらながらに思います。

▼同時代の事件
 わたし自身の歩みと重ねて振りかえってみます。教団から25人が立候補し全員が落選した衆院選は90年2月。わたしは埼玉県の支局でこの選挙を取材していました。わたしが担当する選挙区に教団の候補はいませんでしたが、白い修行服姿の若い女性信者らが歌って踊る選挙活動は話題になっていました。社会の受け止めは、風変わりな宗教団体というものだったように思います。既にこのときには、坂本堤弁護士一家は殺害されていたのですが、無事を願って情報提供を呼びかけるポスターをそこかしこで目にしていました。この年の春、わたしは東京で社会部勤務となり、下町の警察署回り、次いで検察庁・裁判所を取材しました。
 94年8月の松本サリン事件の時には、社会部で中堅どころの記者で、ある行政官庁を担当していました。早朝、呼び出しがあり、何が何だかわけのわからないままに社会部に駆け付け、記事の取りまとめなどを担当した記憶があります。そして95年3月20日の地下鉄サリン事件。わたしは前夜から社会部で泊まり込みのシフト勤務でした。朝8時過ぎ、警視庁詰めの記者から「地下鉄駅で人がばたばた倒れている」との一報があったのをよく覚えています。スマホはもちろん携帯電話もなく、呼び出し手段はポケットベルの時代でした。社会部の全員を呼び出すために次々にポケベルを鳴らし、かかってくる電話を次々にさばきながら、それが一息ついたところで、集まった情報を整理し、社会面リードと呼ぶコンパクトな記事に取りまとめる仕事を深夜まで続けました。記事に「首都東京は“見えない殺意”に終日おびえた」との文言があったのを覚えています。
 記者としてオウム真理教の事件や公判を直接担当することはありませんでしたが、麻原彰晃に死刑を言い渡した2004年2月の東京地裁判決は、社会部の裁判担当デスクとして関わりました。膨大な出稿があり、準備も大変だっただろうと思うのですが、やはり「死刑」しかないだろうと思っていた、その予想通りの判決だったと感じた淡い記憶が残っています。
 麻原の弁護団が、被告と意思疎通が取れないとして控訴趣意書を提出しなかったことに対して、東京高裁が控訴棄却を決定した06年3月当時は、勤務先を休職して新聞労連の専従役員でした。最高裁が弁護団の特別抗告を棄却し、麻原の死刑が確定した06年9月当時は社会部デスクに復職しており、やはり裁判担当として関わったのですが、既に流れは決していたな、と感じていました。麻原の口から、様々に事件を語らせるべきだという意見に共感はしながらも、そもそも刑事裁判は有罪か無罪かを判断し、有罪の場合は刑を決めるためのものであって、それから言えば麻原の死刑の確定は東京地裁の審理で十分なようにも思えました。
 長々とわたし自身の個人史を書いてきましたが、マスメディアにいるわたしと同世代、あるいは少し下の世代は、オウム真理教と一連の事件には多かれ少なかれ、関わりがあったはずです。そして捜査段階や公判段階で直接、事件の取材を担当した記者たちは、いろいろなことを見て、聞いて、取材してきたことと思います。

▼「闇」はない
 麻原ら7人の処刑を報じる新聞各紙を手にして感じたことの一つは、「闇」とか「未解明」などの表現が目立つ、ということです。首謀者とされる教祖が一連の事件の動機を語ることなく処刑されたわけですから、どうしてもそのような表現になってしまうことは分かります。しかし、わたしたちの社会の今後を考えた時に、同じような事件の再来をどうやって防ぐのかが最大の課題です。そのときに「闇」や「未解明」ばかりが強調されるとしたらどうでしょうか。残念なことですが、わたしたちの社会には歴史修正主義やフェイクニュースが跋扈しています。事件を直接知らない後続世代に、「闇」や「未解明」ばかりが強調されて伝えられていったとしたら、いずれ「地下鉄サリン事件はなかった」とか「オウム犯行説は陰謀で真犯人は別にいる」とか、そんな言説の流布を許す恐れは皆無と言い切れるでしょうか。
 そんなことを考えながら目を通していた7月8日付の東京発行各紙の紙面で「そうだよな」と共感した記事がありました。毎日新聞の2ページ特集、13面に掲載されている「元信者の証言 教訓に」。筆者は「オウム裁判取材続けた森本英彦記者」です。一部を引用します。 

 「真実を語る機会が失われ、多くの『闇』が残されてしまった」。死刑執行に対して、そんな指摘も一部にはある。果たしてそうだろうか。
 (中略)
 松本死刑囚を沈黙に追い込んだのは、「教祖の指示」を法廷で明言したかつての弟子たちだった。井上嘉浩死刑囚(48歳)は、教団施設に向かうリムジンの中で松本死刑囚が「サリンでないとだめだ」とサリン散布を命じた場面を明らかにした。自分に不利益な証言を続ける井上死刑囚を前に、松本死刑囚は「反対尋問を中止していただきたい」と訴えたが、尋問は続行され、他の元幹部も次々に教祖と決別した。事件が解明されていくにつれ、松本死刑囚は殻に閉じこもっていった。
 それでも、本人の口から真相を語ってほしい。一片でも謝罪の言葉を聞きたい。そう願う人たちが法廷で松本死刑囚に必死に迫った。(中略)中川智正死刑囚(55歳)は「サリンを作ったり、人の首を絞めるために出家したんじゃないんです」と泣き崩れた。裁判長は「多くの被害者や弟子があなたの供述を望んでいるが、それでも話をしようと思いませんか」と問い掛けた。
 だが、沈黙に逃げ込んだ松本死刑囚が言葉を発することはなかった。
 (中略)
 一方、起訴された信者の多くはマインドコントロールの呪縛から解き放たれ、人間性を取り戻した。救済を求めて入信した若者たちが狂信的な教義にからめ捕られ、「ポア」と称して平然と人を殺害するまでになるカルトの恐ろしさを世に示したことは、裁判から得られた大きな教訓といえる。 

 少なくない数の記者がこの間、森本記者のように公判で、あるいはその以前でも、さまざまなことを取材し、記録してきました。その個々の具体的な事実に照らせば、いかに教祖が沈黙したままだったとしても、教団には「闇」というほどの「闇」は残っていないと言うべきではないかと思います。解明されないままになっていることがあることを強調するよりも、今までに解明されたこと、あるいは呪縛と洗脳が解けた元信者たちが語った教団の実態や実相をもって、オウム真理教とその一連の事件のことを語り継いでいった方が、社会に事件の教訓を残していくには有効だろうと思います。

▼目的と手段
 もう一つ思うのは、以前の記事でも書いたことですが、事件そのものの衝撃もさることながら、地下鉄サリン事件以後に繰り広げられた“オウム狩り”とでも言うような大掛かりな捜査のことです。
 オウム真理教の信者なら、マンションの駐車場に車を止めれば「住居侵入」で、カッターナイフを持っていれば「銃刀法違反」で現行犯逮捕する、そういう捜査が続きました。出遅れた警察が教団の実状を把握できていなかったことが背景にありました。ただ社会では「社会防衛のため」という意識が共有されていたのだと思います。平時なら「行き過ぎ」との批判を免れないそうしたやり方を社会が容認し、マスメディアも表立って異議を唱えることはありませんでした。
 麻原らの死刑執行後の課題として、なお麻原崇拝から脱しきれない教団後継グループの監視を強化するとともに、強制的な解散を可能にする法整備を挙げる論調もあります。麻原への個人崇拝から再びテロが起きることは何としてでも防がねばならないのはもちろんですが、だからと言って、人の内心にまで踏み込むような規制には躊躇を覚えます。緊急性などさまざまな要因を考慮した慎重な検討が必要だと思います。目的のために、手段はどこまでが許されるのか。これも課題の一つかもしれません。