MICが声明「『公益性』を追加した助成金ルールの撤回を求める」

 新聞労連や民放労連、出版労連などメディアや文化関連の産業別労働組合でつくる「日本マスコミ文化情報労組会議」(略称・MIC)が10月28日、声明「『公益性』を追加した助成金ルールの撤回を求める」を発表しました。

「公益性」を追加した助成金ルールの撤回を求める
2019年10月28日
日本マスコミ文化情報労組会議

 日本社会はいま、公権力の恣意的、独善的な判断によって、憲法に基づいた自由な文化・芸術活動が危機にさらされている。
 文化庁所管の独立行政法人「日本芸術文化振興会(芸文振)」が、映画『宮本から君へ』への助成金交付を7月に取り消していたことが発覚した。
 その理由は、出演者の1人であるピエール瀧さんが麻薬取締法違反で有罪判決を受けたこと。映画の内容は薬物使用と全く無関係にもかかわらず、芸文振は「国が薬物使用を容認するようなメッセージを発信することになりかねない」と主張して、交付取り消しの判断を下した。さらに芸文振は9月27日、その判断を正当化するように芸術文化振興基金の助成金交付要綱に「公益性の観点」を追加。「公益性の観点」から助成金の交付が「不適当と認められる」場合には、交付内定を取り消すことができるようにした。
 定義が明記されていない「公益性」というあいまいな基準が拡大されると、公権力の恣意的な判断がまかり通るようになり、「検閲」につながる恐れがある。実際、芸文振は今回、ピエール瀧さんの出演シーンを「カットするなど編集できないか」と作品内容に介入しようとし、制作会社が「完成した作品の内容は改変できない」と断ると、1000万円の助成金不交付に踏み切った。改訂された交付要綱の内容は、舞台芸術、美術など映画以外の領域にも影響し、日本の文化・芸術にとって由々しき事態だ。メディア・文化・情報関連の職場で働く労働者がつくる「日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)」として、憲法21条で保障された「表現の自由」を脅かす芸文振の一連の対応に抗議するとともに、「公益性」を追加した交付要綱の撤回を求める。
 芸術文化振興基金は1990年、国際的に見て脆弱な文化予算を改善するために民間出資を入れて創設されたものだ。文化芸術基本法では、基本理念の筆頭に「文化芸術に関する施策の推進に当たっては,文化芸術活動を行う者の自主性が十分に尊重されなければならない」(同法第2条)と「自主性」を掲げており、提案者は法案審議の中で、「文化芸術活動における『表現の自由』ということは極めて重要なもので、憲法第21条で保障されている権利。法律案は、表現の自由を直接は明記してはおりませんが、文化芸術活動における表現の自由の保障という考え方を十分にあらわしている」(自民党の斉藤斗志二氏、2001年11月21日の文部科学委員会)と約束していた。
 芸文振の一連の対応は、憲法や立法の精神を踏みにじるものだ。また、制作段階では予測できない事情をもって公的助成が左右されるようになれば、安心して制作活動に取り組むことが難しくなる。
 文化芸術活動への補助金については、文化庁も9月26日に国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」への補助金の全額不交付を決めた。テロ予告などの不当な脅迫・攻撃から芸術祭を守ることに力を注ぐのではなく、「来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず,それらの事実を申告することなく採択の決定通知を受領した」(文化庁)と一方的な判断を下した。
 こうした公権力による恣意的、独善的な判断が続いては、日本社会において権力におもねらない自由な表現、文化・芸術活動が狭められる。
 MICは表現の自由を無視した公権力のあり方に対峙するとともに、公権力に屈せず「表現の自由」を守る人たちを応援する。

日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)
(新聞労連、民放労連、出版労連、全印総連、映演労連、映演共闘、広告労協、音楽ユニオン、電算労)

 「定義が明記されていない『公益性』というあいまいな基準が拡大されると、公権力の恣意的な判断がまかり通るようになり、『検閲』につながる恐れがある」との指摘に同感です。

※MIC http://www.union-net.or.jp/mic/

続・即位礼の新聞各紙 社説・論説の記録(23日付)

 前回の記事の続きになります。少し時間がたってしまいましたが、令和の新天皇の「即位礼正殿の儀」に対して、翌10月23日付で新聞各紙が社説、論説でどのように論じたか、ネットなどで可能な限り見てみました(前回の記事は10月22日付の社説、論説でした)。儀式に宗教色がぬぐえないこと、玉座(高御座)の天皇よりも一段低い場所に立つ首相の発声で「天皇陛下万歳」が唱和されることなどに、憲法違反との批判が絶えないことに触れているかどうかに注目しました。
 全国紙では、朝日新聞、毎日新聞が、憲法違反との指摘がある以上、もっと時間を掛けて検討すべきだった、との論調です。ただ、毎日新聞は最後にひと言触れただけで、憲法違反の疑いそのものをきちんと指摘しているかと言えば、必ずしもそうではない印象を受けました。
 22日付で社説を掲載した日経新聞と産経新聞は、憲法違反に当たらないとの主張。23日付の読売新聞も間接的な表現ながら、憲法上の問題はないとの内容でした。地方紙では北國新聞が同じようなトーンでした。
 憲法違反の疑いがあることについては、信濃毎日新聞などいくつかの地方紙の指摘が丁寧で明快でした。

 以下に、確認できた23日付の社説、論説の見出しを書きとめておきます。憲法違反との指摘に触れているものは、反論も含めて一部を引用しています。また現時点でネット上で読めるものは、リンクも張っています。

【23日付】
▼朝日新聞「即位の礼 前例踏襲が残した課題」
 https://www.asahi.com/articles/DA3S14228225.html?iref=editorial_backnumber

 他方で、今回の代替わりにあたっての政府の事の進め方には大きな疑問がある。開かれた議論を避け、異論には耳をふさいで、多くを「前例踏襲」で押し通そうという姿勢だ。
 正殿の儀をめぐっても、天孫降臨神話に由来する高御座(たかみくら)に陛下が立ち、国民の代表である三権の長を見おろす形をとることや、いわゆる三種の神器のうち剣と璽(じ)(勾玉〈まがたま〉)が脇に置かれることに、以前から「国民主権や政教分離原則にそぐわない」との指摘があった。
 だが政府は「前回検討済み」として、見直しを拒んだ。前回の式典のあり方に対し、大阪高裁から疑義が表明された経緯などには目を向けず、天皇の権威を高めるために明治になって作られた形式にこだわった。
 (中略)
 恩赦も実施された。要件を絞って対象者は前回の約5分の1(55万人)になったものの、司法の判断を行政が一方的に覆す措置に反対論も根強かった。まして皇室の慶弔と結びつけば、支配者が慈悲を施すかのような色彩を帯びる。犯罪被害者を守り、その思いを大事にしようという社会の要請にも反する。それでも先例が優先された。
 来月に予定されている大嘗祭(だいじょうさい)の執り行い方も同様だ。
 (中略)
 どれも国の基本である憲法にかかわる話だ。誠実さを著しく欠く対応と言わざるを得ない。
 上皇さまが退位の意向を示唆するメッセージを発したのは3年前だ。議論の時間は十分あったのに政治は怠慢・不作為を決めこんだ。華やかな式典の陰で多くの課題が積み残された。

▼毎日新聞「陛下の即位の礼 多様性尊ぶ国民の象徴に」
 https://mainichi.jp/articles/20191023/ddm/005/070/040000c

 即位の儀式をめぐっては、宗教色を伴うとして憲法の政教分離原則との整合性を問う声もある。政府が十分な議論を避け、合計わずか1時間あまりの会合で前例踏襲を決めたことには問題が残った。

▼読売新聞「即位の礼 伝統儀式の挙行を祝いたい」
 https://www.yomiuri.co.jp/editorial/20191022-OYT1T50220/

 陛下は高御座と呼ばれる壇に昇られ、「国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たす」と誓われた。
 即位の儀式は千数百年前に始まったとされる。陛下は伝統を受け継ぎつつ、国民主権の憲法の下で、国民の幸せを希求する姿勢を改めて示されたと言えよう。
 (中略)
 今回の即位礼は、憲法で定める国事行為として、皇室典範の規定により行われたものだ。象徴天皇制を定めた憲法下では、平成に続き2度目となる。
 戦前の昭和天皇の即位礼では、当時の首相が中庭まで降りて天皇を仰ぎ見ながら万歳を発声した。これに対し、安倍首相はこの日、陛下と同じ殿上に立ち、お祝いの寿詞よごとを述べ、万歳三唱した。
 今回、憲法の国民主権との整合性を取った平成の即位礼の内容を踏襲したのは理解できる。

▼産経新聞(「主張」)「即位ご宣明 国柄を誇り『令和』築こう」
 https://www.sankei.com/column/news/191023/clm1910230002-n1.html

 皇陛下は即位を内外に宣明され、国民の幸せと世界の平和を常に願い、象徴としてのつとめを果たす、ご決意を述べられた。心強いお言葉である。即位をお祝いするとともに、そのお心を国民もしっかり受け止め、令和の歴史を刻んでいきたい。
 (中略)
 来年には、天皇陛下が名誉総裁をつとめられる東京五輪・パラリンピックを控えている。海外からの日本の歴史文化への関心もさらに高まるだろう。歴代天皇、皇室と国民が強い絆で結ばれてきた日本の国柄を国民は一層理解し、心一つに新時代の歩を進めたい。

▼河北新報「即位礼正殿の儀/令和にふさわしい皇室像を」
 https://www.kahoku.co.jp/editorial/20191023_01.html

▼東奥日報「象徴天皇制 議論高めたい/即位の礼」
 https://www.toonippo.co.jp/articles/-/266252

▼デーリー東北(時評)
 https://www.daily-tohoku.news/archives/24788

 天皇陛下の即位をお祝いするが、儀式はこれで良いのだろうか。皇居・宮殿で挙行された「即位礼正殿の議」は1990年の平成代替わりの先例を安易に踏襲しすぎたきらいがある。神話に由来する高御座や三種の神器の剣と勾玉の使用などが、憲法の政教分離の原則や国民主権と抵触する懸念があり、今も憲法問題は解決済みではない。
 一代一度の重要儀式に皇室の伝統を生かすのは自然だ。平安絵馬さながらで美しい。しかし政府の式典委員会は突っ込んだ議論もなしに前例踏襲を決定した。末永く国民に親しまれる皇室を願うのならば、諸儀式の細目などを国会で検討し、論議を尽くすべきだ。
 特に今回は考慮すべき多くの事情がある。地震、台風など自然災害に直面している国民感情を軽視できないし、財政赤字は深刻。経費削減、儀式の簡素化は不可避だ。そのような折、いかに憲法に基づく天皇の国事行為とはいえ、180カ国余の代表ら2千人以上を招待し、さらに祝宴「饗宴の儀」に約2600人も招いたのは妥当だったのか、疑問が残る。

▼秋田魁新報「即位の礼 皇位継承議論の契機に」
 https://www.sakigake.jp/news/article/20191023AK0015/

▼山形新聞「天皇陛下、即位の礼 皇位の安定継承も重要」
 https://www.yamagata-np.jp/shasetsu/index.php?par1=20191023.inc

▼岩手日報「即位の礼 国民の苦難に寄り添い」
 https://www.iwate-np.co.jp/article/2019/10/23/66712

 即位の礼は、三種の神器の安置などを巡り、憲法が定める政教分離の原則や国民主権に反するとの声もある。同時に行われた政令恩赦についても批判が出ている。
 天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基(もとづ)く」。憲法1条を読み返したい。象徴の在り方を決めるのは主権者・国民であることも、この機に改めて確認したい。

▼福島民報「【即位宣言のお言葉】思いを深く胸に刻む」
 https://www.minpo.jp/news/moredetail/2019102368838

▼茨城新聞「即位の礼 国民的議論を高めたい」
▼山梨日日新聞「【天皇陛下 即位の礼】象徴の在り方 国民的議論を」

▼信濃毎日新聞「即位の儀式 踏襲は政府の責任放棄」
 https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20191023/KT191022ETI090004000.php

 政府の対応には問題が残った。「正殿の儀」などは前回に引き続いて国事行為として行われた。議論を深めることなく、様式もほぼ前回を踏襲している。
 儀式には、憲法に反するという指摘が根強い。まず政教分離だ。高御座は天孫降臨神話に由来する。皇室の祖神とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)が授けたと神話で伝わる「三種の神器」の剣と璽(じ)(勾玉(まがたま))も高御座に安置した。天皇に神話的な権威を与えかねない。
 明治以降、国家と結び付いた国家神道で天皇を神として崇拝し、天皇が治める国家への忠誠を国民に強いた。その結果、戦争で多くの国民の命が失われた。
 現憲法は国などに宗教的活動を禁止し、天皇の地位を「日本国民の総意に基く」と規定した。儀式は憲法の規定や精神に合わない。
 次に国民主権の問題だ。陛下は約1メートルの壇上から、安倍晋三首相を見下ろす形で、万歳三唱を受けた。主権は国民にある。位置関係は憲法にそぐわない。
 平成への代替わりでは、政府が首相の立ち位置を中庭から床上に変え、服装も衣冠束帯から、えんび服に変更し宗教色を薄めた。
 それでも大阪高裁は1995年の違憲訴訟の判決で、請求は退けたものの、政教分離規定違反との疑いを否定できないと指摘。首相の立ち位置も「憲法にふさわしくないと思われる」と言及した。
 儀式の骨格は、明治期の1909年に儀式の細目を定めた登極令(とうきょくれい)に基づく。現在に合っているのか検証するのが当然だ。

▼新潟日報「即位の礼 平和願う強い意思世界へ」
 https://www.niigata-nippo.co.jp/opinion/editorial/20191023502834.html

 陛下は古式装束をまとい、天孫降臨神話に由来する「高御座(たかみくら)」に上り、即位を宣言した。
 戦前の様式に倣い、現行憲法下で初めて催された平成時を踏襲した。
 これには、天皇に神話的権威を与え、高い位置から首相らを見下ろす形になるなどとして、憲法が定める国民主権や政教分離の原則に反するとの声が前回からあった。
 11月14、15日に皇居で執り行われる一世一度限りの重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」についても、宗教色が強く、国費の支出は政教分離に反するとの批判がある。
 政府は正殿の儀に合わせて政令恩赦「復権令」を公布、即日実施したが、世論調査で反対が60・2%に上るなど国民の理解は得られていない。
 政府は同じやり方に固執するのではなく、時代の変化や国民感情を見据えながら、必要があれば見直すことをためらうべきではない。

▼北國新聞「即位礼正殿の儀 国民の幸せ願う心伝わった」

 正殿の儀で陛下は神話に由来する玉座「高御座(たかみくら)」に上って即位を宣言した。神話的な権威を印象付け、国民の代表である首相を見下ろす形式に対しては、憲法が定める政教分離や国民主権に反するという批判も出る。しかし、国民に寄り添うと語った陛下の真摯な姿勢は、多くの国民から温かく受け入れられたのではないか。
 即位の重要な儀式で古式装束の「黄櫨染袍(こうろぜんのほう)」をまとった陛下の姿からは、新しい時代の皇室のあり方を探りながら、綿々と受け継がれた伝統を大切にする思いも伝わってきた。

▼福井新聞「即位の礼 新たな象徴像へ一歩一歩」
 https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/958864

 一方で、儀式の在り方など課題も残った。代替わりに際して時間があったのにもかかわらず、準備委員会は3回、計1時間余の会合で「前例」踏襲を決めた。このため、政教分離など憲法に触れかねない要素も踏襲された格好だ。

▼京都新聞「即位の儀式 課題残した議論なき踏襲」
 https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/49061

 一方で、天孫降臨神話に由来する玉座から国民を見下ろす形となる儀式のあり方には、憲法に定めた国民主権や象徴天皇制と矛盾するとの指摘も根強い。
 即位礼正殿の儀は、国内外の賓客を招いての「饗宴(きょうえん)の儀」や延期されたパレード「祝賀御列(おんれつ)の儀」とともに憲法上の国事行為とされ、国費が充てられた。
 皇室儀式は宗教的性格を持ったものも多く、政教分離との関係がしばしば問題となる。
 上皇さまの事実上の退位表明から陛下の即位まで、十分な時間があった。憲法の趣旨と儀式のあり方について、国民的な議論が必要だったのではないか。
 しかし政府は、平成の代替わり時の前例を踏襲する方針を早々に決めてしまった。さまざまな意見が出ないうちに、異論を封じ込めたようにもみえる。
 (中略)
 儀式に関する本質的な問題を無視するのは、こうした議論が皇室のあり方への問いかけにつながり、安倍晋三政権が否定的な女性宮家創設や女系天皇実現などの論争に発展するのを避けるためではないのか。
 政府がこんな姿勢では、安定的な皇位継承の議論にも入れない。憲法が定める象徴天皇制の将来を危うくしかねない。

▼中国新聞「即位の礼 象徴天皇、探り続けねば」
 https://www.chugoku-np.co.jp/column/article/article.php?comment_id=581779&comment_sub_id=0&category_id=142

 一連の行事は、政府の意向で約30年前の平成の代替わりをほぼ踏襲した。古式や伝統にのっとれば妥当かもしれない。とはいえ、時代は移り変わり、国民の意識も変化している。柔軟な発想がもっと必要ではないか。
 憲法1条は、天皇を「日本国民統合の象徴」と位置づける。その在り方を私たちも問い続けなければならない。
 (中略)
 高御座から見下ろす形で即位を宣言し、首相の発声に続いて参列者が万歳三唱した。国民に寄り添う象徴天皇の姿とは隔たりがある。万歳は祝意を表しただけにすぎないとしても、戦前回帰と受け止められないように丁寧な説明が必要だ。
 三種の神器のうち剣と勾玉(まがたま)をそばに置くスタイルも含め、政教分離に反するとの指摘も専門家から絶えない。本番まで準備期間は十分あったのだから、時代に即した儀式のありようをもっと議論できたはずだ。
 費用総額は前回より3割増の163億円に上る見通しだ。人件費や資材価格が高くなっているとはいえ、国の財政状況を考えれば議論の余地がある。

▼山陰中央新報「即位の礼/国民的議論を高めたい」
 https://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1571797688555/index.html

▼愛媛新聞「即位の儀式 象徴にふさわしい姿深く議論を」

 即位礼では陛下が玉座「高御座(たかみくら)」から宣言し、三種の神器のうち剣と璽(じ)が使われた。前回の時も、これら調度品は宗教色が濃いとして、憲法が定める国民主権や政教分離の原則に反するとの異論があったが、政府は早々に前例踏襲を決めた。
 高御座は古事記や日本書紀の天孫降臨神話に由来し、剣と璽は天皇に神話的権威を与えるとの指摘がある。政府には退位特例法が2年前に成立した後も、こうした課題を検討する時間があった。議論らしい議論をしなかったのは政治の怠慢と言われても仕方がない。
 来月には一世一度限りの重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」が皇居である。神道形式で執り行われるため、政教分離の原則に反するとして国費の支出に反対する訴訟も起きている。秋篠宮さまも昨年秋の会見で、国費ではなく天皇家のお手元金で賄うべきだとの思いを明かされたが、国に見直しの動きはうかがえなかった。
 天皇の地位は「国民の総意に基づく」と憲法に定められている。一人でも多くの国民が、わだかまりなく祝える儀式を目指すことが肝要だ。国民の象徴にふさわしい様式はどうあるべきか。将来の代替わりも見据え、国会で議論を続けていかなければならない。

▼大分合同新聞「即位の礼 皇室の在り方に国民的議論を」

▼宮崎日日新聞「即位礼正殿の儀 安定継承に国民的議論必要」
 http://www.the-miyanichi.co.jp/shasetsu/_41669.html

▼佐賀新聞「即位の礼 国民的議論を高めたい」 ※共同通信
 https://www.saga-s.co.jp/articles/-/444689

▼熊本日日新聞「即位の礼 象徴天皇の新たな起点に」
 https://kumanichi.com/column/syasetsu/1231727/

 一方で「正殿の儀」など代替わりの行事の多くは前例踏襲となった。伝統重視とされているが、その内容の多くは天皇が神格化された明治期に形づくられた。政教分離など戦後憲法との整合性の問題は、今回もくすぶったままだ。
 特に今回の前例踏襲で多くの国民が違和感を抱いたのが、「正殿の儀」に合わせ実施された恩赦だろう。共同通信社が今月5、6日に行った世論調査では、賛成の24・8%に対し、反対は60・2%にも及んだ。
 三権分立の枠を政府が政令で一方的に外す恩赦に、国民の反対を押し切ってまで実施する意味はあるのか。これも明治憲法下で天皇の大権によると規定されていた行為を引き継いだものである。時代に即した方法を検討すべきだ。

▼南日本新聞「[即位の礼] 皇室の姿 考える契機に」
 https://373news.com/_column/syasetu.php?storyid=111645

▼沖縄タイムス「[即位の礼]新たな時代の象徴像を」
 https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/487946 

 新憲法下で2度目の即位の儀式だ。陛下は、天孫降臨伝説を模したとされる玉座「高御座(たかみくら)」に上り、神話に由来する「三種の神器」のうち、剣と璽(じ)(勾玉(まがたま))が用いられた。内閣の助言と承認が必要な国事行為にもかかわらず、神道の宗教色が強く、憲法が定める政教分離に反するという批判が根強い。
 政教分離は、戦前の国家神道が軍国主義の精神的基盤になったことへの反省が背景にある。伝統儀式であっても、憲法との整合性が問われるのは当然だ。
 高御座に上った陛下を前に安倍晋三首相がお祝いの言葉を述べた。首相ら三権の長が見上げる形は国民主権の観点から疑問視されている。
 政府は前回の様式を踏襲するだけで、現憲法の象徴天皇に見合う儀式のあり方についての検証と議論を尽くしたといえない。
 11月に予定されている「大嘗祭(だいじょうさい)」は新天皇が即位した年の収穫物を神々に供え、自ら祈る儀式だ。神道色が強く、国事行為ではなく、皇室行為とされている。宮廷費が充てられるが、国費であることには変わりはない。
 前回の大嘗祭について、1995年、大阪高裁は「儀式への国庫支出は政教分離規定に違反するのではないかとの疑いは否定できない」という判決を出している。
 皇嗣(こうし)秋篠宮さまも「宗教色が強い。それを国費で賄うことが適当かどうか」と発言した。憲法上の疑義が生じないあり方を求めたい。

 

 10月23日付の東京発行新聞6紙の朝刊は、いずれも即位礼正殿の儀が1面トップでした。

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「権威高める手法に警戒を」(琉球新報)~即位礼の新聞各紙 社説・論説の記録(22日付)

 「令和」の新天皇が内外に即位を宣言する「即位礼正殿の儀」が10月22日午後、国事行為として皇居・宮殿で行われました。儀式に宗教色がぬぐえないこと、玉座(高御座)の天皇よりも一段低い場所に立つ首相の発声で「天皇陛下万歳」が唱和されることなどから、日本国憲法の国民主権や政教分離の原則に反するとの批判は絶えません。この即位礼に対して、新聞各紙が22日付の社説・論説でどのように論じているか、ネットなどで可能な範囲でチェックしてみました(中日新聞・東京新聞は21日付で掲載)。いくつかのブロック紙・地方紙は、憲法との兼ね合いで疑義を示しています。
 その中でも「権威高める手法に警戒を」との見出しを取った琉球新報の社説が指摘している以下の諸点は、明治になって日本に統合された沖縄の現代史を踏まえた視点として、日本本土でも広く知られていいのではないかと感じました。
 「天皇個々の思いや行動とは別に、権威を高めることにより国民統合の仕組みとして機能する象徴天皇制の在り方を考える必要がある。権威の高まりは時の権力者に利用される危うい面もある」
 「沖縄の民意を無視して新基地建設を進める政府の圧政を埋め合わせているとの見方は説得力がある」
 「即位儀式が持つ政治的意味を、主権者である国民の目線と、天皇制から犠牲を強いられてきた沖縄の目線の、両方で冷静に捉える必要がある。象徴と言いながら過度に権威を高める手法は警戒すべきだ」

 一方、全国紙で22日付社説で取り上げたのは日経新聞と産経新聞でした。日経新聞は「政教分離の規定からも妥当なものであろう」とし、産経新聞はより強く、違憲との指摘に反論しています。

 以下に、目にとまった社説・論説の一部を引用して書きとめておきます。ネット上の各紙サイトで読めるもの(10月23日朝の段階)は、リンクも張っています。

【10月21日付】
▼中日新聞・東京新聞「即位の儀式 象徴天皇にふさわしく」
 https://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2019102102000092.html

 西欧の戴冠式に相当する儀式で、自らの即位を国内外に宣明する意味があるといえども、憲法と天皇の関係がきちんと捉えられないと、国民に誤解を与えかねない。その注意は必要である。
 そもそも天皇の存在は、憲法で「日本国民の総意に基づく」と根拠を示している。天照大神の天孫降臨の神勅による古い時代の天皇とは、根本的に異なる。だが、即位礼は神話に由来する玉座「高御座」から即位を宣言する形式を採る。「憲法の国民主権、政教分離の原則と両立しない」とする声も出てくるゆえんだ。
 「万歳」の光景も単なる祝福の意ばかりなのか。戦前回帰と受け止められないよう細心の気遣いを要する。来月の大嘗祭も神道形式で行われる宗教色の濃い儀式であり、政教分離原則との整合性に疑義が示されている。
 皇位継承という伝統の重さは十分に理解する。それでも天皇と神道との接近、あるいは天皇の権威を高める効果がないかも考慮すべきだ。象徴天皇制にふさわしくありたい。

【10月22日付】
▼北海道新聞「即位礼正殿の儀 象徴にふさわしい姿に」
 https://www.hokkaido-np.co.jp/article/356896?rct=c_editorial

 一連の儀式は現憲法下で2回目となる。政府は、前回の平成の代替わりの際、憲法上の検討を十分に行ったうえで儀式が行われたとして、基本的な考えや内容を踏襲した。
 しかしながら、宗教色を拭えない儀式への公費支出や儀式の内容について、政教分離や国民主権の観点から憲法違反の疑念を指摘する声は絶えない。議論を尽くしたとは言いがたい。
 天皇の地位は主権者である国民の総意に基づく。象徴天皇にふさわしい儀式とは何か。伝統の継承とともに、現代に適した在り方を探る作業を怠ってはならない。
 (中略)
 国事行為として行うのであれば、宗教性を排除する必要がある。神話由来の剣璽等を使用するのであれば、皇室行事として行い、公費を支出しないのが筋だろう。
 高御座は、天皇陛下の立ち位置が床から高さ約1メートル。首相が、低い位置から祝いの言葉を述べるのは、国民主権に適さないとの指摘もある。
 儀式の性格に曖昧さを残すようなことは避けるべきだ。前例踏襲では国民の議論も深まらず、いずれは皇室の在り方についての関心低下にもつながりかねない。

▼福島民友新聞「きょう即位の礼/心つなぐ象徴であり続けて」
 https://www.minyu-net.com/shasetsu/shasetsu/FM20191022-426296.php

 平成の時代は阪神・淡路大震災や東日本大震災など大きな災害が相次いだ。皇太子時代の陛下は震災と東京電力福島第1原発事故後の本県を3度訪問されている。避難所で被災者に声を掛けられたり、原発事故を受けて広野町に新設されたふたば未来学園高の生徒たちの様子を視察されたりして、災害に苦しむ人に寄り添う姿勢を大事にされてきた。
 陛下は皇太子時代に、「国民と接する機会を広く持つよう心掛けてきた。こうしたことは、今後とも自分の活動の大きな柱として大切にしていきたい」と述べられている。今後も被災地訪問などの活動に力を入れられることだろう。
 被災地の訪問は、上皇さまが天皇在位時に精力的に取り組まれてきた活動だ。皇室の活動の中でも国民の支持が高い活動の一つだろう。被災地に上皇さまをはじめとする皇族が訪れることで被災者は強く勇気づけられた。令和の時代も陛下の心配りが被災地の心の支えとなる。

▼北國新聞「外交舞台の即位礼 中韓との転機になるか」

 170カ国以上の元首や政府高官が参列する天皇陛下の「即位礼正殿の儀」は、格好の外交の場であり、安倍晋三首相は21日から25日までの5日間で、約50カ国の政府要人と会談する。会談時間は短いが、2国間の外交課題や国際問題について、日本の方針や立場を直接伝え、理解を得るよい機会である。

▼神戸新聞「即位の礼/皇室のあり方考える日に」
 https://www.kobe-np.co.jp/column/shasetsu/201910/0012809774.shtml

 古式や伝統は大切にしなければならない。ただ、政府は11月に行われる「大嘗祭(だいじょうさい)」を「公的な皇室行事」と位置づけ、国費支出を決めた。これも前回の踏襲だが、神道形式の色濃い儀式で、憲法の政教分離原則に反する疑いがぬぐえない。
 前回の「大嘗祭」では「違憲性を否定できない」とする大阪高裁の判決が確定している。安倍政権の姿勢は問題を先送りしただけといえる。
 さらに、政府は「正殿の儀」に合わせ約55万人に恩赦を実施する。罰金刑で制限された資格の「復権」が中心で、前回の250万人から絞り込んだ。
 だが、一律に罪を減じることへの国民の理解は十分とはいえず、共同通信の全国調査でも「反対」が6割を占めている。
 祝祭ムードが高まる中、十分な議論を回避して自らの考えを押し通す。そうした政府の姿勢は今回も批判を免れない。

▼山陽新聞「きょう即位の礼 新時代の象徴天皇像を」
 https://www.sanyonews.jp/article/951322?rct=shasetsu

 今回の儀式は、新憲法下で初めて執り行われた平成の代替わり時の形式を踏襲する形となる。ただ、天皇が首相ら三権の長を見下ろす形で即位を宣言する形式が、憲法が定めた国民主権に反するとの指摘もされてきた。
 来月、五穀豊穣(ほうじょう)と国の安寧を祈って行われる重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」についても、皇嗣(こうし)秋篠宮さまが以前、宮内庁に対して、宗教色が強いとして国費支出への反対意見を伝えた経緯が判明している。
 司法の場では、儀式は明治時代に制定され、今は廃止された「登極令」などを踏襲しており、国家神道の色彩が濃く憲法の政教分離規定違反の疑いを否定できない点や、国民主権の趣旨にふさわしくない点があると大阪高裁が指摘した。判決は確定済みだ。
 政府は、平成の代替わりの際に議論は尽くしたとして、是非について深入りを避けたが、疑義を解消できぬままでは将来に禍根を残す。時代に即した代替わり儀式の在り方について不断に議論を重ねていく必要があろう。

▼徳島新聞「新天皇即位礼 新たな象徴像 発信の好機」
 https://www.topics.or.jp/articles/-/273764

 儀式の準備と並行して二つの大きな出来事があった。いずれも、令和皇室の進路に影響を与えるだろう。台風19号の甚大な被害と、ラグビー日本代表の奮闘である。
 (中略)
 もう一つの出来事は、ラグビー日本代表の健闘と国民の熱い声援である。国際化時代を印象付け、令和皇室の活躍の広がりを示唆している。
 いろいろな国籍の個性豊かな選手が君が代を歌い、桜のジャージーに誇りを持ち死力を尽くした。改めて「日本人とは何か」を考えさせられる。
 急激な国際化が進み、外国人労働者の受け入れも加速している。宗教や文化、言葉の違いなど、多様性を尊重する機運は強まっていく。日本という国の輪郭が揺らぐとき、「日本国民統合の象徴」としての役割は、かえって大きくなるのではないか。
 わが国にゆかりを求める人々との絆を深め、愛される日本を築いていく。国際社会に日本をアピールし、世界平和や地球環境の維持に貢献する。それには、皇室の存在と国際感覚に富む両陛下の力が重要になる。

▼西日本新聞「即位の礼 『令和』の精神を国内外へ」
 https://www.nishinippon.co.jp/item/n/553102/

 現行憲法で「国民統合の象徴」と規定される天皇の地位や役割と、元号「令和」に込められた恒久平和の願いを、世界に改めて伝える好機である。
 新元号「令和」は、すべて物事を行うのによい月を意味する「令月」と、対立や乱が治まる「和らぐ」にちなむ。国民一人一人も、皇室や国のありように思いを致す一日としたい。
 今回の即位礼は平成をほぼ踏襲した形で行われる。戦前と通底し、神道の色合いも濃い。他の宗教関係者や専門家には、政教分離を定めた憲法下でふさわしいのか疑問を持つ人もいるだろう。そんな声も包み込みながら、あるべき皇室の姿を考える機会にもできるはずだ。

▼琉球新報「天皇即位の儀式 権威高める手法に警戒を」
 https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1012326.html

 沖縄は天皇の権威の犠牲になる歴史を歩んだ。琉球併合に至る過程で、明治政府は、中国皇帝が琉球国王を任命する冊封をまねて天皇も任命権があるかのように振る舞い、天皇の命令に従わない琉球を「処分」した。沖縄戦では皇民化教育の下で動員された多くの住民が犠牲になった。戦後は米国による軍事占領を望む「天皇メッセージ」が米側に伝えられ、米国統治下に置かれた。
 こうした歴史を考慮してか、上皇さまは沖縄への思いが深いといわれる。
 一方で、天皇個々の思いや行動とは別に、権威を高めることにより国民統合の仕組みとして機能する象徴天皇制の在り方を考える必要がある。権威の高まりは時の権力者に利用される危うい面もある。
 豊見山和行琉球大教授は「象徴天皇制が持っている仕組みや機能が、一面では政治的問題や軍事基地の矛盾を見えなくしてはいないか」と本紙の識者座談会で述べた。沖縄の民意を無視して新基地建設を進める政府の圧政を埋め合わせているとの見方は説得力がある。
 即位儀式が持つ政治的意味を、主権者である国民の目線と、天皇制から犠牲を強いられてきた沖縄の目線の、両方で冷静に捉える必要がある。象徴と言いながら過度に権威を高める手法は警戒すべきだ。

▼日経新聞「天皇陛下の『即位の礼』を迎えて」

 午後1時からの即位礼正殿の儀では、皇居・宮殿「松の間」に置かれた玉座「高御座(たかみくら)」で天皇陛下が即位を宣明され、その後、安倍晋三首相がお祝いの辞を述べ、万歳三唱する。
 戦前、昭和天皇の即位の礼に際し、当時の首相は一段低い庭で万歳を唱えたという。
 しかし、日本国憲法の下で初となった平成の式典では、国民主権の観点から、玉座の場所と同じ松の間に変更された。万歳の前にも「ご即位を祝して」との言葉を添え、趣旨を明確にしている。安倍首相もこれにならうようだ。
 憲法の理念から施された平成の変更点は他にもあり、今回もほぼ踏襲されるという。政教分離の規定からも妥当なものであろう。

▼産経新聞(【主張】)「即位の礼 国民と歩まれる『象徴』に 新時代を素直にお祝いしたい」/伝統と文化示す機会だ/国柄に沿う憲法解釈を
https://www.sankei.com/column/news/191022/clm1910220002-n1.html 

 平成の御代(みよ)替わりをおおむね踏襲した今回の即位の礼に対して、一部から、現憲法に反するとの指摘が出ている。もっと素直にお祝いできないものか。
 即位礼正殿の儀で、三種の神器のうち剣と璽が置かれることなどは憲法の政教分離原則に反し、高御座の陛下に首相らが万歳を唱えるのは憲法の国民主権に触れるのだという。いずれも誤った憲法解釈に基づく謬見(びゅうけん)である。
 天皇にとって、祈り、宮中の祭祀(さいし)は本質的、伝統的役割である。歴代天皇は「国安かれ、民安かれ」と祈ってこられた。儀式から神道の色彩を消せば、天皇が天皇でなくなってしまう。
 政教分離の原則は、宗教戦争に明け暮れた欧州の悲惨な歴史を踏まえ、政治権力と宗教の分離を求めるものだ。権威を帯びても権力を振るわず、宗教団体を持たれない天皇の祭祀、儀式に杓子(しゃくし)定規に当てはめては、天皇を戴(いただ)く憲法の精神に反する。
 日本の国柄の特徴は、代々の天皇と国民が共に歩み、長い歴史を紡いできた点にある。
 これを反映して憲法第1章は天皇の章となっている。天皇は、「象徴」という極めて重い位置付けの立憲君主といえる。
 「万歳」によって君主の即位をお祝いし、長寿を祈るのは北東アジアにおける常識的な儀礼であり、国民主権と矛盾すると考えるのは憲法を曲解している。
 これからも11月の大嘗祭(だいじょうさい)、来年4月の秋篠宮殿下の「立皇嗣の礼」など重要行事が続く。つつがなく挙行できるよう準備してもらいたい。

 

国民投票は容認でも、安倍政権下での改正には反対が多数?~改憲めぐる世論の動向

 10月4日に開会した第200回臨時国会の冒頭、安倍晋三首相は所信表明演説で、憲法改正に意欲を見せました。演説の最後に、以下のように述べました。

 今を生きる私たちもまた、令和の新しい時代、その先の未来を見据えながら、この国の目指す形、その理想をしっかりと掲げるべき時です。
 現状に甘んずることなく、未来を見据えながら、教育、働き方、社会保障、我が国の社会システム全般を改革していく。令和の時代の新しい国創りを、皆さん、共に、進めていこうではありませんか。
 その道しるべは、憲法です。令和の時代に、日本がどのような国を目指すのか。その理想を議論すべき場こそ、憲法審査会ではないでしょうか。私たち国会議員が二百回に及ぶその歴史の上に、しっかりと議論していく。皆さん、国民への責任を果たそうではありませんか。

 ※首相官邸「第二百回国会における安倍内閣総理大臣所信表明演説」
  https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2019/1004shoshinhyomei.html

 7月の参院選では自ら憲法改正を訴えていた経緯もあり、これまでも「憲法改正の議論は行うべきだというのが国民の声だ」と主張しています。長期政権ではあるのですが、これといった業績が見当たらないようにも見える中で、首相在任中に何としても憲法改正を、という意欲はますます強まっているのでしょう。
 では「国民の声」はどうなのか。それを探る手がかかりの一つとして、最近の世論調査の結果をまとめておきます。9月の内閣改造後にメディア各社が実施した世論調査の中で、直接、憲法改正に触れた設問と回答は以下のものがありました。


■朝日新聞 9月14~15日実施
 安倍政権のもとで憲法改正をすることに、賛成ですか。
 賛成 33%
 反対 44%

■読売新聞 9月13~15日実施
 あなたは、今後、国会の憲法審査会で、憲法改正に向けた議論が活発に行われることを、期待しますか、期待しませんか。
 期待する 56%
 期待しない 34%

■日経新聞・テレビ東京 9月11~12日実施
 安倍首相が2021年9月の党総裁任期までに憲法改正の国民投票をしたいと表明していることに対して
 賛成 58%
 反対 32%

■共同通信 9月11~12日実施 ※前回は8月17~18日
 あなたは、安倍首相の下での憲法改正に賛成ですか、反対ですか。
 賛成 38.8%(前回比3.3ポイント増)
 反対 47.1%(前回比5.1ポイント減)

 朝日新聞調査と共同通信調査が、安倍首相のもとでの憲法改正への賛否を尋ねています。答えはともに、反対が賛成を上回っていますが、過半数には達していません。その一方で、日経新聞・テレビ東京の調査では、安倍首相が2021年9月の党総裁任期までに憲法改正の国民投票をしたいと表明していることに対して、58%が賛成と答えています。安倍首相のもとで国民投票を行うのはいいが、実際に憲法を改正するのは反対ということでしょうか。国会での改憲論議の行方とともに、今後の民意にも注目したいと思います。

 

日韓のメディア労組が共同宣言「事実に基づいた報道で、国境を越えて平和と人権が尊重される社会を目指そう」

 新聞労連や民放労連、出版労連など日本のメディア関連労組でつくる「日本マスコミ文化情報労組会議」(略称MIC)と韓国のテレビ、新聞などメディア労働者の「全国言論労働組合」(略称NUM=National Union of Mediaworkers)が9月27日、共同宣言を発表しました。全文を紹介します。
 MICの公式サイトからもPDFファイルでダウンロードできます。
 ※http://www.union-net.or.jp/mic/

●日韓両国のメディア労働者共同宣言
―事実に基づいた報道で、国境を越えて平和と人権が尊重される社会を目指そう―

 歴史問題に端を発した日韓両国の政治対立が、さまざまな分野での交流を引き裂き、両国の距離を遠ざけている。
 歴史の事実に目を背ける者に、未来は語れない。
 過去の反省なしには、未来を論じることはできない。
 排外的な言説や偏狭なナショナリズムが幅をきかせ、市民のかけがえのない人権や、平和、友好関係が踏みにじられることがあってはならない。いまこそ、こつこつと積み上げた事実を正しく、自由に報道していくという私たちメディア労働者の本分が問われている。

 今日、日本の「マスコミ文化情報労組会議」と韓国の「全国言論労働組合」に集うメディア労働者たちは、平和と人権を守り、民主主義を支えるメディアの本来の責務をもう一度自覚して、次のように宣言する。

一、我々は今後、あらゆる報道で事実を追求するジャーナリズムの本分を守り、平和と人権が尊重される社会を目指す。

一、平和や人権が踏みにじられた過去の過ちを繰り返すことがないよう、ナショナリズムを助長する報道には加担しない。

2019年9月27日
日本マスコミ文化情報労組会議
韓國 全国言論労働組合

 

 日韓両国政府の関係は過去最悪で、日本社会の一部にも韓国を激しい表現で批判する論調があります。そういう時に、日韓のメディア労組が連帯し、「国境を越えて平和と人権が尊重される社会を目指す」と宣言したことには少なからぬ意義があると思います。

 MICとNUMには交流と連帯の歴史があります。戦後50年の1995年に両者は東京で交流の場を持ち、10年後の2005年8月には韓国・ソウルで、共同のシンポジウムを開催しました。当時、わたしもMIC議長として参加しました。
 以下はわたしが2005年当時に運営していたブログに書いた記事です。今、読み直しても、基本的な問題意識は変わっていません。

※ブログ「ニュース・ワーカー」
・「日韓言論シンポ」=2005年8月17日
 https://newsworker.exblog.jp/2515494/
・「ソウルの8月15日」=2005年8月16日
 https://newsworker.exblog.jp/2506593/
・「長崎での日韓交流」=2005年8月12日
 https://newsworker.exblog.jp/2483219/

改造で安倍内閣の支持率は上がったのか

 9月11日の安倍晋三内閣の改造後にマスメディア各社が実施した世論調査の結果が、相次ぎ報じられています。一般的に、内閣の顔ぶれが変わると清新なイメージが生まれ支持率が上がる、というのが定説のようです。しかし今回はちょっと事情が異なるようです。
 全国紙系と通信社の計6件の世論調査結果で、前回比で支持率がアップしたのは朝日新聞、毎日新聞、産経新聞・FNN、共同通信の4件。上昇幅は毎日新聞では10ポイントもあり、他の3件も5~6ポイントの上昇です。これだけなら、定説通り内閣改造による政権浮揚効果があった、と評価することも可能かもしれません。しかし、日経新聞・テレビ東京の調査では支持率、不支持率とも「横ばい」(日経の記事の表現)。読売新聞の調査では支持率は5ポイントのダウンでした。
 この違いの要因の一つは、前回の調査の時期にあるようです。支持率がアップした4件の調査で、前回調査の時期がもっとも遅かったのは共同通信の8月17、18日。朝日新聞は7月で、毎日新聞は3カ月前の6月です。これに対して、日経新聞・テレビ東京の前回調査は8月30日~9月1日、読売新聞は8月23~25日です。見かけ上のことをおおざっぱに言えば、改造直後の安倍内閣支持率は、8月中旬以前と比べれば5ポイント以上アップしているが、8月下旬以降との比較では横ばい、ないしダウンしている、ということです。
 内閣改造と支持率の関係に絞って考えれば、3カ月前と比べるよりも、改造直前と比べてどうなったかの方に、より意味があるように思えます。わずか3週間前と比べて「5ポイントダウン」(読売新聞調査)、10日前と比べて「横ばい」(日経新聞・テレビ東京調査)は、安倍政権にとっては実は少なからずショックを受ける結果なのではないでしょうか。
 ただし、横ばい、ないしダウンの要因はよく分かりません。日経・テレビ東京、読売の両調査とも、内閣改造を「評価する」が45、6%あり、「評価しない」を12~15ポイント上回っています。内閣改造それ自体が評価されていないわけではないようです。
 調査結果を分析した読売新聞のサイド記事(9月16日付朝刊2面)は「安全保障上の危機が強まると内閣支持率は上がる傾向がある」とし、前回調査の時期が、韓国が日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を決定した直後で、参院選後の7月22~23日実施の前々回調査の53%から5ポイント上昇していたことを紹介しています。今回は支持率が下がったと言っても、その前に安全保障上の要因で上昇があり、7月調査と比べれば同水準。政権運営にとって不安材料にはならない、ということでしょうか。

 6件の調査結果の支持率の水準自体は48~59%と高く、また不支持率との差も17~29ポイントあり、安倍首相の強気の政権運営は続きそうです。

 以下に、6件の世論調査結果の内閣支持率を書きとめておきます。
【9月14~15日実施】
▼朝日新聞
 支持  48%(6P増)
 不支持 31%(4P減)
 ※前回は7月22~23日実施

▼毎日新聞
 支持  50%(10P増)
 不支持 28%(9P減)
 関心ない21%(±0)
 ※前回は6月15~16日実施

▼産経新聞・FNN
 支持  51.7%(5.1P増)
 不支持 31.9%(6.2P減)
 ※前回は8月3~4日実施

【9月13~15日実施】
▼読売新聞
 支持  53%(5P減)
 不支持 35%(5P増)
 ※前回は8月23~25日実施

【9月11~12日実施】
▼日経新聞・テレビ東京
 支持  59%(「横ばい」=1P増)
 不支持 33%(「横ばい」=±0)
 ※前回は8月30日~9月1日実施

▼共同通信
 支持  55.4%(5.1P増)
 不支持 25.7%(8.9P減)
 ※前回は8月17~18日実施

新聞労連が声明「『嫌韓』あおり報道はやめよう」

 新聞労連(日本新聞労働組合連合)が9月6日、声明「『嫌韓』あおり報道はやめよう」を発表しました。マスメディア関係団体からの動きとして、意義は大きいと思います。全文を紹介します。

 ※http://www.shinbunroren.or.jp/seimei/20190906.html

「嫌韓」あおり報道はやめよう

2019年9月6日
日本新聞労働組合連合(新聞労連)
中央執行委員長 南 彰


 他国への憎悪や差別をあおる報道をやめよう。
 国籍や民族などの属性を一括りにして、「病気」や「犯罪者」といったレッテルを貼る差別主義者に手を貸すのはもうやめよう。

 先月末、テレビの情報番組で、コメンテーターの大学教授が「路上で日本人の女性観光客を襲うなんていうのは、世界で韓国しかありませんよ」と発言した。他の出演者が注意したにもかかわらず、韓国に「反日」のレッテルを貼りながら、「日本男子も韓国女性が入ってきたら暴行しないといかん」などと訴える姿が放映され続けた。憎悪や犯罪を助長した番組の映像はいまもなお、ネット上で拡散されている。

 今月に入っても、大手週刊誌が「怒りを抑えられない韓国人という病理」という特集を組んだ。批判を浴び、編集部が「お詫びするとともに、他のご意見と合わせ、真摯に受け止めて参ります」と弁明したが、正面から非を認めることを避けている。新聞も他人事ではない。日韓対立の時流に乗ろうと、「厄介な隣人にサヨウナラ 韓国なんて要らない」という扇情的な見出しがつけられたこの週刊誌の広告が掲載されるなど、記事や広告、読者投稿のあり方が問われている。

 日韓対立の背景には、過去の過ちや複雑な歴史的経緯がある。それにもかかわらず、政府は、自らの正当性を主張するための情報発信に躍起だ。政府の主張の問題点や弱点に触れようとすると、「国益を害するのか」「反日か」と牽制する政治家や役人もいる。

 でも、押し込まれないようにしよう。
「国益」や「ナショナリズム」が幅をきかせ、真実を伝える報道が封じられた末に、悲惨な結果を招いた戦前の過ちを繰り返してはならない。そして、時流に抗うどころか、商業主義でナショナリズムをあおり立てていった報道の罪を忘れてはならない。

 私たちの社会はいま、観光や労働の目的で多くの外国籍の人が訪れたり、移り住んだりする状況が加速している。また、来年にはオリンピック・パラリンピックが開催され、日本社会の成熟度や価値観に国際社会の注目が集まる。排外的な言説や偏狭なナショナリズムは、私たちの社会の可能性を確実に奪うものであり、それを食い止めることが報道機関の責任だ。

 今こそ、「嫌韓」あおり報道と決別しよう。
 報道機関の中には、時流に抗い、倫理観や責任感を持って報道しようと努力している人がいる。新聞労連はそうした仲間を全力で応援する。
以上 

 

昭和天皇の「戦後責任」~「拝謁記」 沖縄の新聞の視点

 戦後、初代宮内庁長官を務めた故田島道治氏が昭和天皇とのやり取りを書き記していた「拝謁記」をNHKが遺族から入手し、その内容を8月16日に放送しました。NHKは同19日に「拝謁記」のうち自局で放送済みの部分を公開。これを元に新聞各紙も19日夕刊から20日付朝刊にかけて大きく報じました。NHKも新聞各紙も総じて報道は、昭和天皇が戦争を後悔し、敗戦から7年後の日本の独立回復を祝う式典で、国民に反省の気持ちを表明したいと強く希望しながら、当時の吉田茂首相の反対でかなわなかったことや、戦前のような軍隊の復活は否定しつつ、憲法改正と再軍備を口にしていたことが中心でした。
 そうした中で、これは注目されるべきだろうと思ったのは、沖縄の琉球新報、沖縄タイムス両紙の視点です。琉球新報は20日付の記事で、昭和天皇が1953年当時、全国各地で反米軍基地闘争が起きる中で、基地の存在が国全体のためにいいのなら一部の犠牲はやむを得ないとの認識を示していたことを大きく報じました。沖縄タイムスも翌21日付の記事で、この部分をクローズアップしています。
 両紙とも21日付の社説でも取り上げ、「昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3度切り捨てられている。根底にあるのは全体のためには一部の犠牲はやむを得ないという思考法だ」「こうした考え方は現在の沖縄の基地問題にも通じる」(琉球新報)、「米軍の駐留について『私ハむしろ 自国の防衛でない事ニ当る米軍ニハ 矢張り感謝し酬(むく)ゆる処なけれバならぬ位ニ思ふ』(53年6月)と語ったとの記録もあり、今につながる米国とのいびつな関係性を想起させる」(沖縄タイムス)と指摘しています。琉球新報の社説が「戦後責任も検証が必要だ」と掲げているように、昭和天皇を巡っては「戦争責任」だけではなく、「戦後責任」の問題もあるはずだと問うています。
 沖縄の両紙のような視点がなければ、昭和天皇の戦後の発言は歴史のひとコマとしての位置付けしかなされず、今日的な問題とのつながりを意識できないかもしれません。以下に両紙の報道の一部を書きとめておきます。

■琉球新報
「一部の犠牲やむを得ぬ 昭和天皇、米軍基地で言及 53年宮内庁長官『拝謁記』」=2019年8月20日
 https://ryukyushimpo.jp/news/entry-974423.html

 【東京】初代宮内庁長官を務めた故田島道治氏が、昭和天皇とのやりとりを詳細に記録した「拝謁(はいえつ)記」が19日、公開された。全国各地で反米軍基地闘争が起きる中、昭和天皇は1953年の拝謁で、基地の存在が国全体のためにいいとなれば一部の犠牲はやむを得ないとの認識を示していたことが分かった。
 専門家は、共産主義の脅威に対する防波堤として、米国による琉球諸島の軍事占領を望んだ47年の「天皇メッセージと同じ路線だ」と指摘。沖縄戦の戦争責任や沖縄の米国統治について「反省していたかは疑問だ」と述べた。
 (中略)
 昭和天皇は「基地の問題でもそれぞれの立場上より論ずれば一應尤(いちおうもっとも)と思ふ理由もあらうが全体の為ニ之がいいと分れば一部の犠牲は已(や)むを得ぬと考へる事、その代りハ一部の犠牲となる人ニハ全体から補償するといふ事にしなければ国として存立して行く以上やりやうない話」だとした。戦力の不保持などをうたった日本国憲法を巡っては「憲法の美しい文句ニ捕ハれて何もせずに全体が駄目ニなれば一部も駄目ニなつて了(しま)ふ」との見方も示していた。
 同年6月1日の拝謁では「平和をいふなら一葦帯水(いちいたいすい)の千島や樺太から侵略の脅威となるものを先(ま)づ去つて貰ふ運動からして貰ひたい 現実を忘れた理想論ハ困る」と述べた。旧ソ連など共産主義への警戒感を強め、米軍基地反対運動に批判的な見解を示していた。

【社説】「昭和天皇『拝謁記』 戦後責任も検証が必要だ」=2019年8月21日
 https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-975015.html

 沖縄を巡り、昭和天皇には「戦争責任」と「戦後責任」がある。歴史を正しく継承していく上で、これらの検証は欠かせない。
 45年2月、近衛文麿元首相が国体護持の観点から「敗戦は必至」として早期和平を進言した。昭和天皇は、もう一度戦果を挙げなければ難しい―との見方を示す。米軍に多大な損害を与えることで講和に際し少しでも立場を有利にする意向だった。
 さらに、45年7月に和平工作のため天皇の特使として近衛元首相をソ連に送ろうとした際には沖縄放棄の方針が作成された。ソ連が特使の派遣を拒み、実現を見なかった。
 そして47年9月の「天皇メッセージ」である。琉球諸島の軍事占領の継続を米国に希望し、占領は日本に主権を残したまま「25年から50年、あるいはそれ以上」貸与するという擬制(フィクション)に基づくべきだ―としている。宮内府御用掛だった故寺崎英成氏を通じてシーボルトGHQ外交局長に伝えられた。
 既に新憲法が施行され「象徴」になっていたが、戦前の意識が残っていたのだろう。
 これまで見てきたように、昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3度切り捨てられている。根底にあるのは全体のためには一部の犠牲はやむを得ないという思考法だ。
 こうした考え方は現在の沖縄の基地問題にも通じる。
 日本の独立回復を祝う52年の式典で昭和天皇が戦争への後悔と反省を表明しようとしたところ、当時の吉田茂首相が反対し「お言葉」から削除されたという。だからといって昭和天皇の責任が薄れるものではない。
 戦争の責任は軍部だけに押し付けていい話ではない。天皇がもっと早く終戦を決意し、行動を起こしていれば、沖縄戦の多大な犠牲も、広島、長崎の原爆投下も、あるいは避けられたかもしれない。

■沖縄タイムス
「『一部の犠牲 やむを得ぬ』 昭和天皇、米軍駐留巡り 1953年記録 沖縄を切り離す『天皇メッセージ』と通底」=2019年8月21日
 https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/460393

 【東京】初代宮内庁長官を務めた故田島道治が昭和天皇との詳細なやりとりを記録した資料「拝謁(はいえつ)記」の中で、1950年代に日本国内で基地反対闘争が激化しているさなか、昭和天皇が53年11月24日の拝謁で「一部の犠牲ハ已(や)むを得ぬ」との認識を示していたことが20日までに分かった。拝謁記の中で昭和天皇は国防は米軍に頼らざるを得ないとの考えを度々言及している。識者は「戦後にロシアの共産主義の脅威を恐れ、米国が琉球諸島を軍事占領することを求めた47年9月の『天皇メッセージ』を踏まえたもの」と指摘する。

【社説】「[ 昭和天皇『拝謁記』] 今に続く『捨て石』発想」=2019年8月21日
 https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/460401

 昭和天皇との対話を詳細に記録した貴重な資料の中で目を引くのが、基地問題に触れた記述だ。
 「全体の為ニ之がいゝと分れば 一部の犠牲ハ已(や)むを得ぬと考へる事、その代りハ 一部の犠牲となる人ニハ 全体から補償するといふ事ニしなければ 国として存立して行く以上 やりやうない話」(53年11月)とある。
 53年といえば、米軍統治下にあった沖縄では、米国民政府の「土地収用令」が公布され、「銃剣とブルドーザー」による土地の強制接収が始まったころだ。
 本土でも米軍基地反対闘争が起こっていた。反基地感情が高まり、本土の米海兵隊の多くが沖縄に移転した。
 「一部の犠牲」が沖縄に負わされる形で、今も、国土面積の0・6%にすぎない沖縄県に米軍専用施設の約70%が固定化されている。
 国の安全保障を沖縄が過重に担う現在につながる源流ともいえる言葉だ。
 戦時中、沖縄は本土防衛のための「捨て石」にされた。
 47年9月、昭和天皇が米側に伝えた「天皇メッセージ」では、「アメリカによる沖縄の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の-25年から50年ないしそれ以上の-貸与(リース)をする」と、昭和天皇自らが、沖縄を米国に差し出した。
 今回明らかになった「一部の犠牲はやむなし」の思考はこれらに通底するものだ。
 米軍の駐留について「私ハむしろ 自国の防衛でない事ニ当る米軍ニハ 矢張り感謝し酬(むく)ゆる処なけれバならぬ位ニ思ふ」(53年6月)と語ったとの記録もあり、今につながる米国とのいびつな関係性を想起させる。


 東京発行の新聞各紙についいても、8月20日付朝刊で「拝謁記」をどう報じたか、事実関係を中心にした本記の扱いと見出しを以下に書きとめておきます。

▽朝日新聞
1面準トップ「昭和天皇 終戦後の『言葉』/戦争『反省といふ字、入れねば』/改憲『軍備の点だけ公明正大に』/記録文書見つかる」

▽毎日新聞
1面トップ「昭和天皇 戦争への悔恨/『反省といふ字どうしても入れねば』/拝謁記 表明実現せず/再軍備言及『禁句です』」

▽読売新聞
1面「再軍備、憲法改正 言及/昭和天皇の会話記録公開」

▽日経新聞
第2社会面「昭和天皇、戦争『反省』望む/宮内庁初代長官が会話記録/52年式典お言葉 首相反対で削除」

▽産経新聞
1面「昭和天皇の発言明らかに/改憲は『公明正大に』/再軍備『やむをえず』/初代宮内庁長官『拝謁記』」

▽東京新聞
1面準トップ「昭和天皇の声 克明/戦争『反省』退位言及/再軍備を主張/初代宮内庁長官 拝謁記」

事実を歴史としてどう継承するのか~敗戦から74年の課題 付記・ブロック紙、地方紙の社説から

 日本の敗戦で第2次世界大戦が終結して74年。ことしの8月15日は、重苦しい気持ちで迎えました。
 一つは日本と韓国の政府間関係の悪化です。大きな要因は、元徴用工への賠償という歴史問題です。「日韓基本条約で解決済み」という主張があるにしても、日本はかつて朝鮮半島を植民地として支配した加害の側です。主張が対立するとしても、被害側に対して加害側は抑制的に振る舞い、粘り強く解決を目指すべきだろうと思うのですが、現時点で展望は見えません。
 韓国では8月15日は、植民地支配から解放され独立を回復した日として「光復節」と呼んでいます。政府式典での演説で文在寅大統領は「日本が対話と協力の道へ向かうなら、われわれは喜んで手を結ぶ」と述べ、日本に対話を呼び掛けたと報じられています(共同通信)。安倍晋三政権はどう答えるのでしょうか。
 歴史問題は、「あいちトリエンナーレ2019」の中の企画展「表現の不自由展・その後」が中止になった出来事でも影を落としています。韓国の彫刻家が制作した慰安婦を象徴した「平和の少女像」に対し、河村たかし・名古屋市長が「日本国民の心を踏みにじる行為」などと抗議。大阪市の松井一郎市長は慰安婦について「軍が関与して強制連行したということはなかった。朝日新聞が謝罪している」「デマの象徴である慰安婦像を行政が主催する展示会で展示すべきではない」と、記者団の囲み取材で話しました。「デマの象徴である慰安婦像」とは、慰安婦の存在そのものを否定したものではないのかもしれませんが、乱暴な表現です。強制連行があったかなかったかを離れても、慰安婦問題が問い掛ける今日的な意味は、戦争には必ずと言っていいほど性暴力が伴うという普遍的な問題であるとわたしは理解しています。しかし、企画展に抗議が殺到し中止に追い込まれた背景には、「日本国民の心」「デマの象徴」といった感情的な言辞が社会の中で少なくない支持を得る状況があるのでしょう。歴史的事実を社会で共有することが難しくなっているように感じます。
 例えですが、足を踏んだ側はそのことを忘れてしまうが、踏まれた側は覚えている、と言われます(殴った側、殴られた側の例えでも構いません)。加害側と被害側の意識の乖離が、日本の敗戦から74年たって今、日本社会の表層に噴き出しているように思えてなりません。例年この時期は、戦争体験の継承をマスメディアもテーマにしてきました。実際にはそれでは済まず、事実が事実として受け継がれない、歴史の歪曲を危惧しなければならない事態のように思います。事実に対してどういう意見を持つかは自由かもしれませんが、事実が社会で共有されない、あるいは事実が曲げられるなら、歴史から何も学ばない、学べないことになります。過去の事実を歴史としてどう共有し、受け継いでいくのかが、わたしたちの社会の課題であるように思います。

 そんなことを考えながら15日付の新聞各紙の社説、論説のうち、ネット上で読めるものに目を通してみました。特に地方紙、ブロック紙でいくつか印象に残るものがありました。一部を引用して書きとめておきます。

▼北海道新聞「きょう終戦の日 対話こそ平和紡ぐすべだ」/報復の連鎖に危うさ/改憲の時期ではない/多様な見方を重ねて
 https://www.hokkaido-np.co.jp/article/334901?rct=c_editorial

 戦後70年以上が経過しても消えない歴史問題は、東アジアの安定を損ねる火種と言える。
 ただ、その対処について一つのヒントがある。
 米コロンビア大のキャロル・グラック教授(歴史学)は歴史問題での対立を、「(過去の戦争に関する)国民の物語同士の衝突」と分析する。
 戦争の歴史をどう見るかは立ち位置によって変わる。国民の物語は自国側からの視点だけで、記憶は単純化されやすいため、相通ずることはなかなか難しいという。
 対立を和らげるには、相手の記憶を尊重しつつ、自らの記憶に多様な見方を加えていくことが重要になると教授は指摘する。
 そのために必要なのは、市民や学生も含めたさまざまなレベルでの対話や交流だ。
 日韓の対立が深まる中、両国の市民が友好のメッセージを交わす動きが見られた。政治的利害を超えて、相互理解を図る試みとして注目したい。
 まずは冷静になり、話す環境をつくり、胸襟を開く。それが平和を継続的に紡いでいくことにつながるに違いない。

▼信濃毎日新聞「終戦の日に 情動の正体を見極める」/安吾の見た大空襲/抜け落ちた事実は/考えて自らつかむ
https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190815/KP190814ETI090008000.php

 東京圏で活動する市民団体「history for peace(ヒストリー・フォー・ピース)」代表の福島宏希さん(37)と、メンバーの桐山愛音さん(19)に話を聞いた。
 2年前に発足したばかりの団体で、福島さんを除く5人のメンバーは10代、20代だ。少数ながら戦争体験者から話を聞き、戦跡を巡る継承活動に力を入れる。空襲に遭った民間人への補償問題の勉強会も開いてきた。
 侵略戦争を肯定するような主張に福島さんは違和感を抱き、自分で戦史をたどり、ウェブサイトで発信していた。続けるうちに、実際に体験者に会い視野を広げたいと思うようになったという。
 「世の中に出回る情報は事実がそぎ落とされている。体験者から重い現実を聞くごとに、自分の中の戦争像がはっきりするようになった」と福島さんは話す。
 時々見る戦争映画には「日本の被害を描いた作品が多い。映像にはない面、日本は他国に何をしたのか。社会全体に掘り下げる動きがない」とも。
 いま世界を覆いつつある風潮にも通じる大切な指摘だ。
 (中略)
 桐山さんは高校2年の時に広島の平和記念公園を訪ね、原爆ドームで若いガイドの話を聞いた。「過去、現在、未来…。当たり前のつながりを初めて実感した。強烈な感情が刻まれて、歴史を学ぼうと思った」と言う。
 「history」に入ると、戦争孤児となった人を取材して記録をまとめた。今月開いた戦争体験者7人の話を聞く会では、運営の中心役を担っている。
 刻まれた強烈な感情とは何かを尋ねると、桐山さんは「うまく言葉にできない」と答えた。体験者と話をする前と後で、戦争との距離感が変わったのを桐山さんは感じている。史実を調べ、考え続けることで「刻まれた感情」は輪郭を帯びてくるのだろう。

▼新潟日報「終戦の日 歴史と向き合い平和守る」/記憶を風化させない/複眼的視点を持とう/若い世代に語り継ぐ
 https://www.niigata-nippo.co.jp/opinion/editorial/20190815488835.html

 上越市直江津には先の大戦で捕虜となった兵士の収容所があった。オーストラリア人捕虜約300人が暮らしたが、過酷な労働や劣悪な環境下で60人が死亡した。そこで働いていた日本人職員8人は戦後、戦犯として処刑された。
 上越日豪協会は1996年、収容所跡地の平和記念公園に平和友好像を建てた市民グループが母体となって発足した。毎年8月に公園で平和の集いを主催し、ことしも10日に開催した。
 元捕虜や遺族らとの交流や、子どもたちに平和の大切さを語り継ぐ活動も行っている。
 会は2年前、設立20周年の記念誌を作成した。オーストラリア人作家が捕虜を取材し、上越市で講演した内容が掲載されている。
 講演の中で、捕虜が当時書いていた日記が紹介されている。「収容所では下痢がまん延しており、非常に重症な患者もいる。ある者はひどく殴られた。おそらく今までで一番ひどい殴られ方だ」などと生々しい描写が続く。
 前会長の近藤芳一さんによると、相手側の視点に立った話は、日本人遺族らへの配慮もあり、会員の中には記念誌に掲載することに異論もあったという。
 近藤さんは「日本、オーストラリアそれぞれの視点を共有、統合した上で歴史を語ることが大切です。内向きな姿勢ではなく、互いの立場を理解することから、信頼関係が生まれてくる」と話す。
 「自国第一」を掲げる大国のリーダーに象徴されるように、相手の言い分や立場を軽んじる排外的な考え方が日本を含め各国で広がっているように見える。
 そうした中で、上越日豪協会の取り組みは、歴史を複眼的に見る大切さを教えてくれる。つらい過去を見つめ、反省すべき点を伝えていくことを忘れてはならない。

▼京都新聞「終戦の日に 『継承』の意味を問い直す時」/遺品が語る原爆被害/耳傾ける「同伴者」に/記憶が薄らぐ危うさ
 https://www.kyoto-np.co.jp/info/syasetsu/20190815_3.html

 京滋を含めた各地で、戦争体験を記録したり、語り伝えたりする活動が行われている。戦禍を直接体験した人が減っていく中で、戦争の記憶が風化してしまうことを懸念する人は少なくない。
 ただ、すでに膨大な数の証言が書籍や映像などの形で蓄積されている。こうした記録は、体験者の「伝えたい」という思いだけでは完成しなかっただろう。その体験を「聴きたい、知らなければ」と考えた聞き手がいたからこそ、後世に伝わった面もあるはずだ。
 広島の被爆者が残した体験記や絵を詳細に分析した直野章子・広島市立大教授は、被爆体験の伝承は、証言に耳を傾ける「同伴者」なくして成立しない、と語る。
 聞き手は話をじっくり聴くことであらためて被害を認識し、原爆への疑念を強める。被爆者も体験を語ることで「再び被爆者をつくらない」との信念を形成する。
 直野さんは著書「原爆体験と戦後日本」で、継承されるべき被爆体験は「被爆者と被爆者でない者との共同作業の果実」であり、その継承の意味を「被爆者が同伴者とともに築いてきた理念を次世代に引き継ぐこと」と説く。
 戦争の直接体験者がいなくなった後に何を語り継いでいくべきかについての、新たな視点といえるだろう。体験者と同伴者の共同作業で生まれた証言や記録に触れることで、私たちも新たな同伴者として記憶をつないでいく役割を担うことができるかもしれない。

▼西日本新聞「終戦の日 歴史に学び『不戦』後世へ」/高齢者も戦争知らず/終わっていない悲劇/決して筆を曲げずに
 https://www.nishinippon.co.jp/item/n/535270/

 インターネット上では今、歴史資料を含めて膨大な情報が流れています。ところが日本人の視野はむしろ狭くなっている、と歴史家らは指摘します。自分の関心事だけを追い、全体像をつかんだり他者の立場を考えたりする想像力は低下している。その結果、「あの戦争は正しかった」といった言説を信じ、それを否定する人を「反日」呼ばわりする-。そうした風潮が目立つからです。
 今、米国をはじめ大国の「一国主義」が世界を席巻しています。国際協調の歩みは後退して排他主義が横行、テロや核開発の動きも拡散しています。日本の外交・安全保障政策は米国追従のままでよいのか。本来の役割を見失っていないか。記憶の風化が進む今こそ歴史から謙虚に学び、平和の尊さを見据える想像力が必要です。
 報道機関がかつて国家権力に屈し、軍国主義に加担した史実も消えることはありません。その反省に立てば、報道の最大の使命は「権力を監視し、日本に二度と戦争をさせないこと」に尽きます。
 時代がどう変わろうと、筆を曲げてはならない。そのことも私たちの誓いとして肝に銘じます。

▼沖縄タイムス「[「終戦の日」に]日韓共通の利益を探れ」
 https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/458260

 あらためて思い起こしたいことがある。8月15日は終戦の日であると同時に大日本帝国が米国などの連合国に敗れ、崩壊した日だという点だ。
 日本の敗戦は、日本の植民地支配下にあった朝鮮の人々にとっては「解放」の日と位置付けられ、日本と戦った中国では抗日戦争勝利の日とされている。
 日本の敗戦によってアジアの人々はどのような戦後を迎えることになったのか。
 敗戦の暮れ、衆院議員選挙法の改正で、かつて「帝国臣民」だった在日朝鮮人や台湾人ら旧植民地出身者と、沖縄県民の選挙権が停止された。
 サンフランシスコ講和条約発効の際、旧植民地出身者は、国籍選択権を認められないまま日本国籍を失った。
 冷戦の顕在化によって朝鮮半島は南北に分断され、沖縄は復帰までの27年間、米軍統治下に置かれた。沖縄や韓国、台湾が反共軍事拠点として冷戦の最前線に置かれたことを忘れてはならない。
 終戦の日は、先の大戦の犠牲者を追悼し平和を祈念する日であるが、戦後、アジアの人々がたどった歴史体験にも目を向けたい。
 気がかりなのは、国交正常化以降、最悪ともいわれる日韓関係である。
 (中略)
 両国で「嫌韓」「反日」の感情が沸騰する現実は異常であり、若者の交流などを通して両国の国民感情を和らげていく努力が必要だ。

 15日は政府主催の全国戦没者追悼式が開かれ、5月に即位した現天皇が「深い反省」を口にしたと報じられています。東京発行の新聞各紙夕刊(朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、日経新聞、東京新聞)はそろって1面トップ。主見出しは、朝日、毎日、読売、東京は「平和」ないし「不戦」、「誓い」、「令和」でそろいました。昭和の戦争の体験を、平成に次いで令和の時代でも継いでいく、という意味を込めてのことでしょう。

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 わたしは、元号の「令和」を過度に強調しない方がいいと考えています。理由の一つは、知らずのうちに「戦争」を内向きに、つまり被害の側面ばかりを意識することにならないか、と思うからです。アジア各地での日本の加害を考えるのに、日本社会の時間の区切り方は関係がありません。
 もう一つは、天皇制と抜きがたく結びついている元号を所与の前提のように扱うことは、戦争と天皇制の問題、さらに言えば天皇の戦争責任の問題を見えづらくさせるのではないか、と考えるからです。

「展示再開」も論点に~「表現の不自由展」中止 新聞各紙の社説・論説の記録 ※追記:実行委対応にも疑問提示 追記2:読売新聞「主催する側にも甘さがあった」

 「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止になった問題に対して、いくつかの新聞が社説・論説で取り上げています。ネット上のサイトで確認できたものを記録しておきます。
 企画展の中止が発表されたのは8月3日でした。わたしが確認した限りですが、もっとも早い社説は5日付の京都新聞、沖縄タイムス、琉球新報の地方紙3紙でした。うち2紙が沖縄の新聞だったことは特筆されていいように思います。京都新聞の社説は、「表現の自由」が侵害されたことで、対になる「知る権利」も奪われたと明瞭に指摘しています。
 次いで6日付で全国紙の朝日、毎日両紙と信濃毎日新聞が掲載。いずれも展示の中止を求めた河村たかし名古屋市長らの政治介入を批判しています。その一方で表現に違いはありますが、展示内容を考えれば抗議は予想できたのに主催者側の備えは十分だったのか、との疑問も提示している点も共通しています。
 7日付では確認できた範囲で9紙が掲載しました。このうち佐賀新聞は共同通信が配信した論説を署名入りで掲載。東奥日報、茨城新聞も同内容です(ほか6紙は産経新聞、北海道新聞、山梨日日=見出しのみ確認、新潟日報、中日新聞・東京新聞、高知新聞)。
 ここにきて「実行委は中止の判断に至る経緯を検証した上で、企画展を再開する道を探ってもらいたい」(北海道新聞)、「今回の件で表現活動を萎縮させないため、再展示も含め何ができるか考えてみる必要がある」(東奥日報、茨城新聞、佐賀新聞)と展示再開に言及した社説・論説が出てきました。このブログの一つ前の記事でも触れましたが、どうやったら展示を再開できるのか、という議論は、具体的に表現の自由をどう守るのか、という意味では核心的といってもいい論点だとわたしは考えています。
 おおむね各紙とも、展示作品の内容の是非には触れていません。その中で、産経新聞は一線を画しました。「企画展の在り方には大きな問題があった。『日本国の象徴であり日本国民の統合』である天皇や日本人へのヘイト行為としかいえない展示が多くあった」「今回の展示のようなヘイト行為が『表現の自由』の範囲内に収まるとは、到底、理解しがたい」と、展示と企画展への批判を前面に出し、そもそも「表現の自由」として保護される対象ではないと言い切っているのが目を引きます。

 以下に、各紙の社説・論説の一部を引用して書きとめておきます。一定期間、ネット上の各紙のサイトで全文を読むことができるものはリンクも張りました。

【8月5日付】
▼京都新聞「少女像展示中止  悪い前例にならないか」
 https://www.kyoto-np.co.jp/info/syasetsu/20190805_4.html

 実際に会場に足を運んでみると、入場制限が行われるほど観客が訪れていた。少女像には賛否両論あるが、展示が多くの人の関心を集めたのは事実だ。
 それだけに、暴力を示唆する抗議で中止に追い込まれたのは極めて残念だ。悪い前例になりかねない。強く懸念する。
 (中略)
 観客やスタッフを危険にさらさない、という判断は理解できる。しかし電話をした人の中に、会場で展示を見た人がどれほどいたのだろうか。ネットを通じて不正確で断片的な情報が広がったのが、実際ではないか。
 展示を見ていない人の声で、これから見学しようという人たちの知る権利や学ぶ権利が奪われた、ともいえる。
 河村たかし名古屋市長や菅義偉官房長官の対応にも疑問が残る。
 河村氏は「行政の立場を超えた展示」として中止を大村知事に求めた。菅氏は補助金交付を慎重にする考えを示した。
 両氏に従えば、憲法が禁じる検閲になりかねない。そもそも、政府や行政のトップは憲法を守る立場から脅迫的な抗議に苦言を呈すべきではなかったか。
 京都アニメーション放火殺人事件を示唆するファクスなどは、極めて不謹慎な脅迫だ。警察は厳しく取り締まってほしい。

▼沖縄タイムス「[愛知芸術祭 企画展中止]脅迫こそ批判すべきだ」
 https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/454271

 自由な表現活動を抗議や脅迫から守るのが本来の行政や政治家の責務である。
 逆に会長代行の河村たかし名古屋市長は企画展の視察後、大村知事に抗議文を出し、少女像などの展示中止を求めた。政治的圧力である。
 芸術祭は文化庁の補助事業で、菅義偉官房長官は慎重に判断する考えを示した。憲法の「検閲は、これをしてはならない」に反しかねない。菅氏はテロ予告や抗議に対してこそ強く批判すべきである。
 (中略)
 「表現の不自由展・その後」は15年に東京で開かれた小規模な展覧会「表現の不自由展」が原形である。日本の「言論と表現の自由」が脅かされているのではないか、との危機感から始まった。
 今回の企画展は、その続編の位置付けだ。中止になったことで不自由展がまた一つ重ねられ、日本における表現の自由の後退が国際社会に示されたと言わざるを得ない。
 主義主張は違っても、作品によって喚起される問題を自由闊達(かったつ)に議論すること。これこそが健全で民主的な社会だ。表現の自由を萎縮(いしゅく)させ、奪う社会は極めて危険だ。

▼琉球新報「愛知芸術祭展示中止 『表現の自由』守る努力を」
 https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-966044.html

 指摘しなければならないのは、政治家たちの振る舞いだ。実行委会長代行でもある河村たかし名古屋市長は「行政の立場を超えた展示が行われている」として大村知事に抗議文を出し少女像などの展示中止を求めた。松井一郎大阪市長(日本維新の会代表)は、事前に展示は問題だと河村氏に伝えていた。芸術祭は文化庁の補助事業だが、菅義偉官房長官は補助金交付を慎重に判断する考えを示した。
 自由な創作や表現活動を守るべき立場にある行政の責任者らのこうした言動は理解に苦しむ。日本ペンクラブは「政治的圧力そのもので、憲法21条2項が禁じる『検閲』にもつながる」と指摘している。
 日本は戦後、言論・表現の自由が封殺され道を誤った戦前の反省に立ち民主主義の歩みを続けてきたが、その基盤は決して強固ではない。展示中止の経緯を検証し、議論を深めなければならない。

【8月6日付】
▼朝日新聞「あいち企画展 中止招いた社会の病理」
 https://www.asahi.com/articles/DA3S14128795.html?iref=editorial_backnumber

 市長が独自の考えに基づいて作品の是非を判断し、圧力を加える。それは権力の乱用に他ならない。憲法が表現の自由を保障している趣旨を理解しない行いで、到底正当化できない。
 菅官房長官や柴山昌彦文部科学相も、芸術祭への助成の見直しを示唆する発言をした。共通するのは「公的施設を使い、公金を受け取るのであれば、行政の意に沿わぬ表現をするべきではない」という発想である。
 明らかな間違いだ。税金は今の政治や社会のあり方に疑問を抱いている人も納める。そうした層も含む様々なニーズをくみ取り、社会の土台を整備・運営するために使われるものだ。
 まして問題とされたのは、多数決で当否を論じることのできない表現活動である。行政には、選任した芸術監督の裁量に判断を委ね、多様性を保障することに最大限の配慮をすることが求められる。その逆をゆく市長らの言動は、萎縮を招き、社会の活力を失わせるだけだ。
 主催者側にも顧みるべき点があるだろう。予想される抗議活動への備えは十分だったか。中止に至るまでの経緯や関係者への説明に不備はなかったか。丁寧に検証して、今後への教訓とすることが欠かせない。

▼毎日新聞「『表現の不自由展』中止 許されない暴力的脅しだ」
 https://mainichi.jp/articles/20190806/ddm/005/070/088000c

 自分たちと意見を異にする言論や表現を、テロまがいの暴力で排除しようというのは許されない行為だ。こういった風潮が社会にはびこっていることに強い危機感を覚える。
 政治家の対応にも問題がある。少女像を視察した河村たかし・名古屋市長は「日本国民の心を踏みにじる行為」などとして、展示の中止を求めた。
 また、菅義偉官房長官は、文化庁の補助金交付の是非について検討する考えを示した。
 暴力によって中止に追い込もうとした側が、政治家の発言を受けて勢いづいた可能性がある。
 作品の経緯からして、反発の声が上がることは十分予測できた。悪化する日韓関係も原因の一つと考えられる。
 津田さんは「想定が甘かったという批判は甘んじて受ける」と語る。万が一のリスクを回避しなければならないという考え方は理解できる。
 一方で、脅せば気に入らない催しをやめさせることができるという前例になったとすれば、残した禍根は小さくない。

▼信濃毎日新聞「表現の不自由展 自粛を広げないために」
 https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190806/KT190805ETI090004000.php

 加えて見過ごせないのは、政治の介入だ。河村たかし名古屋市長は慰安婦問題が「事実でなかった可能性がある」として展示中止を要求していた。菅義偉官房長官は文化庁の補助金交付を慎重に判断する考えを示した。
 憲法が保障する表現の自由への理解を欠いている。政治家が国民の対立をあおるような振る舞いをしたという点でも問題だ。
 (中略)
 津田氏自身「抗議の殺到で中止せざるを得なくなることも予想していた」とする。日韓関係が悪化した時期に重なった事情はあるにせよ、事前の検討は十分になされたのか。展示が憎悪の感情をあおり、結果的に政治の介入を招いたとすれば責任は重い。
 今回の一件が表現活動を萎縮させたり、展示の自粛につながったりすることは避けなくてはならない。表現の自由について議論する格好の機会でもある。中止に至るまでの経緯と問題点を検証し、公表するよう実行委に求めたい。

【8月7日付】
▼産経新聞「愛知の企画展中止 ヘイトは『表現の自由』か」
 https://www.sankei.com/column/news/190807/clm1908070002-n1.html

 暴力や脅迫が決して許されないのは当然である。
 一方で、企画展の在り方には大きな問題があった。「日本国の象徴であり日本国民の統合」である天皇や日本人へのヘイト行為としかいえない展示が多くあった。
 バーナーで昭和天皇の写真を燃え上がらせる映像を展示した。昭和天皇とみられる人物の顔が剥落した銅版画の題は「焼かれるべき絵」で、作品解説には「戦争責任を天皇という特定の人物だけでなく、日本人一般に広げる意味合いが生まれる」とあった。
 「慰安婦像」として知られる少女像も展示され、作品説明の英文に「Sexual Slavery」(性奴隷制)とあった。史実をねじ曲げた表現である。
 (中略)
 憲法第12条は国民に「表現の自由」などの憲法上の権利を濫用してはならないとし、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と記している。今回の展示のようなヘイト行為が「表現の自由」の範囲内に収まるとは、到底、理解しがたい。大村氏は開催を反省し、謝罪すべきだろう。県や名古屋市、文化庁の公金支出は論外である。
 芸術祭の津田大介芸術監督は表現の自由を議論する場としたかったと語ったが、世間を騒がせ、対立をあおる「炎上商法」のようにしかみえない。
 左右どちらの陣営であれ、ヘイト行為は「表現の自由」に含まれず、許されない。当然の常識を弁(わきま)えるべきである。

▼北海道新聞「芸術祭展示中止 憲法違反の疑いが強い」
 https://www.hokkaido-np.co.jp/article/332702?rct=c_editorial

 表現の自由は、憲法が最大限に保障する民主主義の根幹である。想定を超えた事態とはいえ、圧力に屈する形になったのは残念だ。
 さらに問題なのは、企画展に対する政治家の介入だ。憲法の禁じる検閲にあたる疑いが強い。
 実行委は中止の判断に至る経緯を検証した上で、企画展を再開する道を探ってもらいたい。
 (中略)
 大村氏としても、警備を強化するなど、展示続行の努力がもっとあってもよかったのではないか。
 憲法は同時に、自由権の乱用を禁じている。企画展は特定の人々を傷つける意図はなく、作品撤去の事実を示したにすぎない。乱用には当たらないと考える。
 芸術祭は文化庁の補助事業だ。菅義偉官房長官は補助金交付の是非を検討するとしたが、表現の自由の擁護に努めてほしい。
 気になるのは、芸術監督の津田大介氏が「表現の自由が後退する前例を作った責任を重く受け止めている」と述べたことだ。
 これを前例にしてはならない。芸術祭の出品作家やさまざまな文化団体から、政治家の介入や展示中止への抗議が相次いでいる。
 憲法に基づき、作品に対する自由な意見交換の場をつくるべく、環境を整えて出直すのが筋だ。

▼東奥日報「表現の自由確保に努力を/慰安婦少女像の展示中止」※共同通信
 https://www.toonippo.co.jp/articles/-/230067
▼茨城新聞「少女像展示中止 表現の自由が傷ついた」※共同通信

▼山梨日日新聞「[少女像の展示中止]表現の不自由 前例にするな」

▼新潟日報「表現の不自由展 中止が招く萎縮を憂える」
 https://www.niigata-nippo.co.jp/opinion/editorial/20190807487437.html

 大村知事は5日の会見で公権力こそ表現の自由を守るべきだとし、「公権力を行使する人が内容にいい悪いと言うことは憲法が禁じる検閲ととられても仕方ない」と述べた。
 これに対し、河村市長は「最低限の規制は必要」「(少女像は)日本人の心を踏みにじるものだ」などと反論した。
 自らの信条に基づくような一方的な物言いには、表現の自由の本質を理解しているのか疑問を抱かざるを得ない。
 菅義偉官房長官も芸術祭開幕翌日の2日の記者会見で、補助金交付を慎重に判断する考えを示していた。
 旧憲法の下では政府による検閲や言論弾圧が横行し、戦争に反対できない風潮を生んだ。その反省から、現憲法には表現の自由を保障し、検閲を禁じる21条が盛り込まれた。
 自らの主張を自由に唱える一方で、他者の考えもきちんと尊重する。こうした態度こそ、私たちが享受する表現の自由の基礎となるものだ。
 芸術祭の芸術監督を務めるジャーナリストの津田大介氏は会見で「表現の自由を後退させてしまった」と語ったが、これまでも表現の自由は安泰だったわけではない。
 今回の中止を、表現の自由を守るためにこれからどう生かすのか。そこを考えることが、課せられた責任だろう。

▼中日新聞・東京新聞「『不自由展』中止 社会の自由への脅迫だ」
 https://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2019080702000121.html

 参加した芸術家から「作品を見る機会を人々から奪う」などとして、中止を批判する声があるのはもっともだ。だが、スタッフや来場者の安全を考えた上での苦渋の決断だったろう。この上は速やかで徹底的な捜査を求めたい。
 芸術監督のジャーナリスト・津田大介さんは「表現の自由が後退する事例をつくってしまった」と悔やむ。しかしこの国の表現の自由を巡る現状や「意に沿わない意見や活動は圧殺する」という風潮を白日の下にさらしただけでも、開催の意義はあったといえよう。
 河村たかし名古屋市長は「日本国民の心を踏みにじる」として少女像などの撤去を要請。菅義偉官房長官も、国の補助金交付について慎重に検討する考えを示した。これは、日本ペンクラブが声明で「憲法が禁じる『検閲』にもつながる」と厳しく批判したように、明らかな政治による圧力だ。
 政治や行政のトップは多様な意見や表現を尊び、暴力的行為を戒める立場にある。美術家の活動よりもテロ予告をこそ強く非難するべきだろう。
 国の内外を問わず、政治家による排他的な発言が「お墨付き」となり、ヘイト犯罪など昨今の極端な言動の下地になっているとすれば、憂慮すべき事態だ。
 現代のアートは、単に花鳥風月をめでるものではない。世界に存在する対立や危機、圧政や苦難を見る者の反発も覚悟で広く伝え、対話や解決の糸口を生んでいる。
 それを理解せずに「美術展を政治プロパガンダの場にするな」などと非難しても筋違いだろう。芸術家や美術館の関係者は、決して萎縮してはならない。

▼高知新聞「【表現の不自由展】中止は社会のゆがみ映す」
 https://www.kochinews.co.jp/article/298982/

 行政が主体の実行委が早々に圧力に屈したことも衝撃だ。防犯面などで関係機関との連携はできなかったのか。中止という最終手段しかなかったのだろうか。
 不自由展の実施団体は、実行委から一方的に中止を通告されたと非難している。事実であれば、これも禍根を残しかねない対応だ。
 実行委の会長代行である名古屋市の河村たかし市長の対応にも疑問を呈したい。河村市長は少女像などの撤去を求める抗議文を実行委会長の大村秀章県知事に出した。
 展示が「日本人の心を踏みにじるものだ」と指摘。県市、国の資金が活用されていることから「展示すべきではない」とも述べた。
 大村知事は、市長が「内容にいい悪いと言うことは憲法が禁じる検閲ととられても仕方ない」と強く批判している。当然だ。
 河村市長は従軍慰安婦問題が「事実でなかった可能性がある」との歴史認識に立つ。個人的にどのような見解を持とうが自由だが、市長として中止を求めれば、表現への弾圧ととられても仕方があるまい。
 まして税金は政治家や行政のものではなく国民のものだ。価値観が合わない人には使わせないという発想は許されない。

▼佐賀新聞「少女像展示中止 表現の自由が傷ついた」※共同通信
 https://www.saga-s.co.jp/articles/-/410410 

展示内容から実行委も一定の反発は想定していたが、それを超える抗議が押し寄せた。「ガソリン携行缶を持って美術館に行く」と京都アニメーション放火殺人事件を連想させる内容のファクスまであった。ただ、それ以上に想定外だったのは河村氏の抗議だろう。
 中止発表後に改めて記者会見した大村氏は河村氏が展示中止を求めたことを「表現の自由を保障した憲法21条に違反する疑いが極めて濃厚ではないか」と批判。「検閲ととられても仕方ない」とした。これに対し、河村氏は「検閲ではない」と強調。少女像展示を巡り「数十万人に強制したという韓国側の主張を認めたことになる」「事実でなかった可能性がある」などと反論している。
 河村氏はかつて「南京大虐殺」はなかったのではないかと発言、南京市と名古屋市の交流停止に発展したことがある。今回の発言も不用意というほかない。行政が展示内容に口を挟むことが、どのような影響をもたらすかということには全く考えが及ばないようだ。
 今回の件で表現活動を萎縮させないため、再展示も含め何ができるか考えてみる必要がある。

 

※追記 2019年8月8日21時15分

 8月8日付新聞にも関連の社説、論説が掲載されました。ネット上で確認できたところでは8紙です。「実行委側に事前対応をはじめ準備不足や不備があったのは否めない」(中国新聞)、「事務局の対応も検証する必要がある。一定の反発を予測し人員を確保していたというが、結果的に足りなかった」(徳島新聞)、「警察との事前打ち合わせや、展示意図を丁寧に伝える姿勢は十分だったか。実行委に検証を求めたい」(西日本新聞)などと、実行委側の対応にも疑問を投げ掛ける内容が目立ちます。

【8月8日付】
▼神戸新聞「表現の不自由展/中止をあしき前例とせず」
 https://www.kobe-np.co.jp/column/shasetsu/201908/0012588447.shtml

 脅迫は犯罪である。違法行為は厳しく罪に問う。賠償も課する。それが法治国家の姿だ。
 愛知県はきのう被害届を出したが、警察はその前に「一線を越えれば取り締まる」と強い姿勢を示すべきだった。会場警備を厳重にする責任もあった。
 実際は事務局が過激な抗議の矢面に立ち、職員らが追い詰められたという。苦渋の選択だが、脅迫に屈した形になった。
 (中略)
 河村たかし名古屋市長が少女像の撤去を求めるなど、政治家の発言も問題を複雑にした。
 内容への賛否はあるだろう。だが「気に入らない」と首長や閣僚、議員らが口を挟むようでは戦前のような検閲国家になりかねない。見る機会を保障した上で議論を深めるのが筋だ。
 河村市長の要請に対し、大村知事は「表現の自由を保障した憲法21条に違反する疑いが濃厚」と指摘した。公費で補助する場合も、行政の規制は施設管理などにとどめるべきである。

▼中国新聞「「表現の不自由展」中止 卑劣な脅し、許されない」
 https://www.chugoku-np.co.jp/column/article/article.php?comment_id=560323&comment_sub_id=0&category_id=142

 一方で、実行委側に事前対応をはじめ準備不足や不備があったのは否めない。折しも日韓関係が悪化し、「嫌韓」の世論が高まるタイミングでもあった。
 表現の自由について議論が深まることを企図しながら、脅迫行為に表現の自由が屈する―という前例をつくってしまったことが悔やまれる。
 しかも国際芸術祭が舞台である。日本では、表現の自由に対し、暴力的な言葉や行為が横行していることを海外に広める結果になった。それも公権力が介入しているのだから、イメージの悪化は避けられまい。
 今回の一件で、この国の内実が浮き彫りになった。根深い分断が存在する社会であり、暴力をちらつかせて相手の考えをつぶそうとする不寛容の風潮である。
 意見を異にする相手でもその考えに耳を傾け、話し合い、互いに尊重し合う―。それが多様性を認める寛容な社会の姿だ。だからこそ表現の自由が封じられた今回の件を深く憂慮する。脅迫や暴力の支配を許さぬために、この国の現状を見つめ直し議論すべきときである。

▼山陰中央新報「少女像展示中止/表現の自由が傷ついた」
 http://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1565232128235/index.html

▼徳島新聞「不自由展中止 表現の自由への攻撃だ」
 https://www.topics.or.jp/articles/-/240730

 テロ予告や脅迫は犯罪であり、断じて許してはならない。警察は発信元を特定し、厳重に対処すべきだ。
 事務局の対応も検証する必要がある。一定の反発を予測し人員を確保していたというが、結果的に足りなかった。
 芸術祭の芸術監督を担うジャーナリストの津田大介氏は「展示を拒否された作品を見てもらい、表現の自由について考えてもらう趣旨だった」と語っている。
 作品の受け止め方は人それぞれ違って当然であり、意見を交わすことで理解が深まる。そうした議論自体を許容しない「表現の不自由」の現状を可視化しようとした試みは、意義があったと言える。
 実行委は開催意図の丁寧な説明や市民の安全確保など、中止を決める前にやるべきことがあったのではないか。

▼西日本新聞「少女像展示中止 『表現の自由』は守らねば」
 https://www.nishinippon.co.jp/item/n/533693/

 企画展の狙いは、美術館などで展示不許可となった作品の鑑賞を通じ、表現の自由を巡る議論を促すことだった。反発が予想されたが実行委は「議論を起こすことに意義がある」と開催に踏み切った。趣旨と決断は是とするが脅迫に屈した「悪(あ)しき前例」となった事実は重い。こうした事態を想定した警察との事前打ち合わせや、展示意図を丁寧に伝える姿勢は十分だったか。実行委に検証を求めたい。
 表現の自由について議論を促すための美術展が暴力的な圧力でつぶされ、政治家もそれに関わった。前代未聞の出来事を、表現の自由や公権力との関係について、深く考える契機としなければならない。

▼熊本日日新聞「『不自由展』中止 『表現の場』脅かす事態だ」
 https://kumanichi.com/column/syasetsu/1145132/

 企画展が中止になったことを受け、出品作家を含む約70人のアーティストが抗議声明を発表。芸術祭の目的は「個々の意見や立場の違いを尊重し、すべての人びとに開かれた議論を実現するため」とし、中止によって作品を理解、読解するための議論も閉ざされてしまう、と指摘した。
 中止を決定する前に、多様な意見を交わす場を設ける試みがあっても良かったのではないか。今回の中止決定は「表現の自由」を萎縮させ、「表現の不自由」が現実にあることを図らずも印象づけてしまった。
 異なる意見を認めず、気に入らない表現活動を暴力的圧力でやめさせるような行為がまかり通ってはならない。あしき前例としないよう経緯を検証し教訓として残す努力が関係者には求められよう。

▼宮崎日日新聞「少女像展示中止 行政が表現を萎縮させるな」
 http://www.the-miyanichi.co.jp/shasetsu/_40318.html

▼南日本新聞「[少女像展示中止] 表現の自由を守らねば」
 https://373news.com/_column/syasetu.php?storyid=108813

 

※追記2 2019年8月9日22時15分
◇主催側の落ち度だけを取り上げる読売新聞
 これまで他紙に比べて扱いの小ささが目立っていた読売新聞が、9日付朝刊になって社説を掲載しました。見出しの通り、主催者側に落ち度があったとして批判する内容ですが、政治介入には言及がなく、政治介入が度を超えた抗議行動や脅迫行為を助長した疑いにも触れていません。主催者側の事前の備えは論点の一つですが、それのみを取り上げて批判する論調は、他紙と比べて特異だと感じます。一部を引用して書きとめておきます。

【8月9日付】
▼読売新聞「愛知企画展中止 主催する側にも甘さがあった」
 https://www.yomiuri.co.jp/editorial/20190808-OYT1T50312/

 芸術祭は県や名古屋市が運営に関与し、予算も支出している。企画展には、少女像のほか、昭和天皇の肖像を用いた作品を燃やす映像もあった。特定の政治的メッセージを感じさせる作品だった。
 芸術作品における表現の自由は最大限、尊重されなければならない。ただ、行政が展覧会の運営に関わる以上、展示する作品やその方法について一定の責任を負うことも確かだろう。
 不特定多数の鑑賞者が想定される展覧会で、政治性の強い作品を、それを批判する側の視点を示さずに、一方的に展示すれば、行政が是認している印象を与えかねない。作品を不快に感じる人たちの反発をあおる可能性もある。
 (中略)
 大村氏は「とんがった芸術祭に」と要望し、芸術監督を務める津田大介氏に企画を委ねた。展示作品が物議を醸すことが予想されたのに、反発を感じる人への配慮や作品の見せ方の工夫について、検討が尽くされたとは言い難い。
 河村たかし名古屋市長は開幕後に少女像の展示などを批判したが、自らも実行委員会会長代行の立場にあったのではないか。
 主催者側の想定の甘さと不十分な準備が、結果的に、脅迫を受けて展覧会を中止する前例を作ったとも言える。その事実は重く受け止めなければならない。