西南戦争の激戦地・田原坂で考えた明治維新と日本の現代史

f:id:news-worker:20181118231909j:plain

 先日、熊本市を訪ねました。用件が終わり、東京へ戻る飛行機の便までの時間を利用して、明治期の西南戦争の激戦地である熊本市北部の田原坂を訪ねました。
 西南戦争の説明の一般的な例として、ここではウイキペディアを参照します。「西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)は、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、2018年現在日本国内で最後の内戦である」。
 ※ウイキペディア「西南戦争」

 1877年2月に始まった戦争は、鹿児島市の城山で西郷隆盛が死んだ同年9月24日に終わったとされます。この内戦は、明治新政府に対する不正士族の実力行使がことごとく抑え込まれた、その最後のケースでした。以後は旧士族の不満は自由民権運動の高まりへと向かいます。意思表明や要求の手段が暴力から言論へと変わっていった、と言えるかもしれません。
 戦場で実際に戦うのはだれか、という点から見れば、薩摩軍が先祖代々の武士(士族)中心であったのに対して、政府軍は武士出身の指揮官のほかは、徴兵された農民ら一般国民を中心にした兵で編成されていました。この国民皆兵の制度は1945年の第二次大戦の敗戦まで続きました。戦争が国民一人一人の生活や生命にも直接、大きな影響を及ぼしました。
 ことし2018年は明治150年です。明治維新から第2次大戦の敗戦まで77年、敗戦から現在まで73年です。わたしは1960年の生まれで、そのわたしたちの世代にとっては、敗戦は父母が少年少女だった時の出来事です。その父母の親、わたしたちの祖父母の世代からみれば、明治維新や西南戦争はその両親や祖父母が直接知る時代の出来事だったのでしょう。そんな風に考えてみると、時の流れが今日に連綿とつながっていることをあらためて思います。

 田原坂の戦闘のことを知ったのは、司馬遼太郎さんの長編小説「翔ぶがごとく」でした。読んだのは20年以上も前だったように記憶しています。西南戦争の緒戦は熊本城の攻防でした。薩摩軍の進攻に対し、熊本鎮台の政府軍は熊本城に籠城します。政府の救援部隊は北から来るため、薩摩軍は一部を熊本城の包囲に残して北上し、田原坂や周辺に防御陣地を築きました。西南戦争は大きく俯瞰すれば、薩摩軍が東京を目指して軍を進めようとした戦争でしたが、田原坂の戦闘は、熊本城救援を阻止するために薩摩軍が政府軍を迎え撃った局地戦でした。結局、薩摩軍は田原坂を守り切れず、熊本城を落とすこともできずに以後、九州の中を放浪するように移動し、最後は鹿児島に帰って全滅します。
 「翔ぶがごとく」で描かれた田原坂の戦闘の描写でよく覚えているのは、薩摩軍の刀による切り込みです。兵装の近代化は政府軍の方が進んでおり、小銃は薬きょうに入った弾を手元で込めて撃つタイプなのに対し、薩摩軍の小銃は銃身の先の銃口から火薬と弾丸を込める旧式で、雨が降ると使えませんでした。そんなときに薩摩兵は、坂道に沿って幾重にも掘った塹壕を飛び出し、抜いた刀を両手で振り上げ、独特の叫び声を挙げながら切りかかりました。薩摩藩独自の示現流は、一撃で相手を倒すことを目的とした実戦的な剣法で、子どものころから訓練された薩摩士族に対して、農民出身の政府軍の兵は太刀打ちできず、散り散りになって逃げるしかなかった―。確か、そんな描写だったと思います。

 田原坂は熊本市北区植木町(旧植木町)豊岡地区にあります。地図で見ると、熊本城から北北西に15キロ程度でしょうか。坂はふもとから南東方向に1キロ余り、標高差約60メートル。一の坂、二の坂、三の坂とあります。訪ねた日はあいにくの雨模様でしたが、明治10年3月、17昼夜に渡った田原坂の戦闘では7日間は雨やみぞれが続いたとのことで、往時に思いをはせながら、傘をさして徒歩で登ってみました。

f:id:news-worker:20181118232235j:plain

f:id:news-worker:20181119000954j:plain

 坂の入り口は国道208号から「田原坂公園入口」の信号を入ってすぐ。JR鹿児島線の木葉駅から1キロほどでしょうか。川に石造りのアーチ橋「豊岡眼鏡橋」がかかっており、旧植木町教育員会の案内板によると、政府軍はこの一帯を田原坂攻撃部隊の出撃拠点にしていたとのことです。
 坂へと続く側道に入って間もなく一の坂に。結構な傾斜を感じました。当時と今では様子が変わっているのかもしれませんが、切り通しで道の両側は壁状になっており、竹や木に覆われたところは晴れの日でも薄暗いのではないかと思います。この林の中から刀を振り上げた薩摩兵が奇声とともに飛びかかってきたのかと思うと、政府軍の農民兵が味わっただろう恐怖が少しだけ分かったような気がしました。

f:id:news-worker:20181118232559j:plain

f:id:news-worker:20181119001514j:plain

 当時は未舗装だったものの道幅は4メートルほどあったというので、今も戦争当時の雰囲気は残っているのかもしれません。大砲などの大型の武器や資材を熊本城まで運べる道はこの田原坂だけで、政府軍は熊本城救援のために、ここを通るしかなく、従って薩摩軍も救援を阻むために防衛線を設定したという、戦略上の要衝だったようです。一の坂を登りきると、あとは二の坂、三の坂とも緩やかで、歩くのにさほどの苦労はありませんでした。ところどころにミカン畑が広がるのどかな風景が続き、やがて田原坂公園に着きました。眼鏡橋からゆっくり歩いても30分かかりませんでした。

f:id:news-worker:20181119001610j:plain

 田原坂公園には「熊本市田原坂西南戦争資料館」があります。入館料は大人300円。充実した展示で、じっくりと見て回りました。

 ※資料館のサイト
 http://www.city.kumamoto.jp/hpkiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=16402

f:id:news-worker:20181118233041j:plain

 館内の一角には、陣地を再現したジオラマがあり、暗闇の中で戦闘シーンをリアルに再現した映像が、砲弾の着弾音や小銃の発砲音とともに流れていました。両軍の服装や食事の内容まで再現した展示もありました。

f:id:news-worker:20181118233843j:plain

 一帯では当時の小銃弾が今でも見つかるそうで、資料館にも両軍が撃った実際の銃弾や、砲弾の破片が展示されていました。砲弾は政府軍が薩摩軍の陣地に向けて盛んに撃ちこんだとのことです。手に取ることはできませんでしたが、恐らくはずっしりと重い鉄の破片が、高速で回転しながら着弾点周辺に飛び散ったはずです。死をすぐそばに感じながら薩摩兵も必死で恐怖に耐えていたのではないかと思います。

f:id:news-worker:20181118233605j:plain

 明治150年の特別企画として「会津と熊本 会津戦争 そして熊本戦争」の展示がありました。戊辰戦争で会津藩は政府軍の攻撃を受け降伏し、生き残った藩士も青森・斗南に移封され辛酸をなめました。その9年後に西南戦争が勃発しました。「戊辰戦争は明治維新の開始を、西南戦争はその終わりを告げた戦いでした。明治維新は戦争に始まり、戦争に終わった激動の時間だったともいえます。多くの悲劇を生み大きな犠牲を払ったこれらの内戦は、ともに明治国家が近代化という大海に漕ぎ出す号砲となったのです」との解説が展示の冒頭にありました。
 一般にどこまで知られているのか分かりませんが、西南戦争では政府軍に士族である警察官からなる部隊も加わっていました。薩摩軍の刀による切り込みに対抗するため、政府軍は警視庁の部隊の中から特に剣術の上級者で「警視抜刀隊」を編成し、刀を持たせて戦場に送り込みます。このため西南戦争は、双方が日本刀で切り合った最後の戦争という側面もあるようです。

f:id:news-worker:20181119000750j:plain

f:id:news-worker:20181119000840j:plain

 この抜刀隊には旧会津藩士も多く含まれていたことを、展示では具体的な個人名も挙げて詳しく解説していました。熊本県内に埋葬された警視隊の死者数を出身地域別に並べた表もあり、それによると最多は鹿児島の80人、続いて東京63人の順。3位が福島の46人で、4位の地元熊本の23人の倍となっています。
 旧会津藩士が会津戦争の復讐のために抜刀隊に志願したという逸話はよく耳にしますが、展示によると、後に総理大臣となり五・一五事件で暗殺される犬養毅が従軍記者として、抜刀隊の会津士族が「戊辰の復讐」と叫び、傷を負いながらも奮戦したことを記事で伝えているとのことです。

 薩摩軍には少年も少なくなかったとのことです。田原坂のことを下調べする中で、熊本県に「田原坂」という民謡があり、「雨は降る降るじんばは濡れる こすにこされぬ田原坂」(「じんば」は「人馬」「陣羽」の二通りあるようです)に続いて「右手に血刀 左手に手綱 馬上ゆたかな美少年」とうたわれていることを知りました。このことにちなんでか、資料館にはアニメ風の美少年のイメージキャラクター「山口雄吾」がいました。

f:id:news-worker:20181119000648j:plain

 資料館が2015年から毎年発行している年刊「田原坂」の表紙も美少年キャラクターです。若い世代の歴史への関心が高まるとすれば、こういった試みも悪くはないと思います。年刊「田原坂」は各号とも表紙、裏表紙を含めて8ページとコンパクトですが、各号のテーマに即して資料館の収蔵資料を組み合わせて西南戦争と田原坂の戦いを解説しており、とても密度の濃い内容です。資料館で無料で配布していました。

f:id:news-worker:20181119001821j:plain

f:id:news-worker:20181119000326j:plain

 田原坂公園にはほかに、おびただしい銃弾を受けた「弾痕の家」が復元されているほか、西南戦争の薩摩軍、政府軍の犠牲者計約1万4千人の慰霊塔も建っています。季節には桜やツツジが咲き誇る静かな公園として整備され、わたしが訪ねた際にはモミジが赤く色づいていました。その中でひときわ目を引く巨大なクスノキがあります。根元には、馬にまたがり右手の刀を前方にかざす少年の像。台座には民謡「田原坂」の歌詞が刻まれています。傾斜地での戦闘、しかも小銃弾や砲弾が飛び交う戦場を、刀を手に本当に少年兵が馬で駆け抜けたとは考えにくいのですが、ではなぜこういう歌詞が残っているのでしょうか。

f:id:news-worker:20181119000410j:plain

 以下はネットであれこれ調べていて、たまたま目にした郷土史家の講演録と思われる文書に記載があったことです。民謡「田原坂」が成立したのは昭和になってから。この戦いを生き延びた人たちが往時を振りかえり、いつしか酒席の場で口にするようになったのが始まりだろう。おそらく、景気がよくなった日露戦争のころから。「美少年」は若かった自分たちのこと。イケメンだったかどうかは関係なく、「あの頃は自分も若かった。よく戦った」との思いが込められた表現だったのではないか。西南戦争は小銃弾が1日に32万発とか34万発も飛び交った近代戦で、そうした中を馬で疾走すればたちまちハチの巣になる。「馬上豊かな美少年」は元武士らしい美意識の比ゆ的な表現ではないか。また「じんばは濡れる」の「じんば」も「人馬」や「陣羽」ではなく、当初は「陣場」だった。薩摩軍は塹壕の陣地を築いており、雨によって陣地内は水浸し。ぬかるみでわらじの緒も切れ、木綿の衣服は重くなる。雨で大変だったなあ、との経験者ならではの述懐が込められている―。以上のようなことです。なるほどと思いました。この講演録は直接引用して紹介したいのですが、いつ、どのような場での講演なのか、この郷土史家がどのような方なのかがまったく分からないので、ここではこの程度の紹介にとどめます。

 いずれにせよ、この田原坂の地では薩摩軍、政府軍ともあまたの若者が命を落としました。薩摩軍の西郷隆盛も死亡時49歳。戦争終結の翌年に暗殺された政府中枢の大久保利通も47年の生涯でした。2人とも今日の感覚で言えば早い死です。あまりにも多くの命が奪われました。しかも若い命が。それが明治維新の一つの側面です。
 西南戦争をもって内戦は終結しましたが、以後の日本は日清、日露の両戦争、台湾、朝鮮半島の植民地支配、そして中国との戦争、太平洋戦争へと突き進みます。戦場で殺し、殺された日本兵は平時なら社会で生活を営む一般の国民でした。戦場となった地域の住民にもおびただしい被害が出ました。今日の価値観で当時のことの当否を論じるには慎重さが必要だと思いますが、重要なのは歴史から何を学び取るのかだろうと思います。今は、一般の国民が徴兵されて戦場に送られることはありません。このこと一つとっても守り続けなければいけないことだと思います。そして、戦争となれば民は被害者でもあり、加害者になることもある。だから戦争は絶対悪であるということを忘れてはいけない―。田原坂の地を歩きながら、そんなことをあらためて考えました。

f:id:news-worker:20181119000458j:plain

新聞労連が声明発表 「CNN記者の早期復帰を求める―CNNやホワイトハウス記者協会と連帯する― 」

 新聞労連が11月14日、声明「CNN記者の早期復帰を求める―CNNやホワイトハウス記者協会と連帯する― 」を発表しました。
 「今回のホワイトハウスでの出来事は、日本で働く私たちにとっても他人事ではありません」ーその通りだと思います。
 「今こそ私たちは、会社の枠や国境を越えて、人々の『知る権利』を守る取材環境を築き、将来世代に引き渡していくために、力を合わせていきたいと思います」ー賛同します。わたしの立場では、さらに「労使の別」も越えるべきものの一つだと考えています。
 http://www.shinbunroren.or.jp/seimei/20181114.html

CNN記者の早期復帰を求める
―CNNやホワイトハウス記者協会と連帯する―

2018年11月14日
日本新聞労働組合連合(新聞労連)
中央執行委員長 南 彰

 アメリカのホワイトハウスが、記者会見でトランプ大統領に臆せず質疑を続けようとしたCNNのジム・アコスタ記者の記者証を取り上げました。批判的な角度からも様々な質問をぶつけ、為政者の見解を問いただすことは、記者としての責務であり、こうした営みを通じて、人々の「知る権利」は保障されています。大統領と記者の単なる「口論」ではないのです。日本の新聞社・通信社で働く約2万人が加盟する日本新聞労働組合連合(新聞労連)は、「報道の自由」や「知る権利」を踏みにじるホワイトハウスの行動に抗議して記者の復帰を求めているCNNとホワイトハウス記者協会の対応を支持し、連帯を表明します。

 今回のホワイトハウスでの出来事は、日本で働く私たちにとっても他人事ではありません。
 2016年6月には、富山市議会の最大会派の会長が取材中の記者を押して倒し、メモを力ずくで奪う事件が起きました。18年1月には、兵庫県西宮市の今村岳司市長(当時)が記者に「殺すぞ」「(上司に)落とし前をつけさせる」と恫喝。また、政府のスポークスマンである官房長官の記者会見をめぐっては昨年以降、政府の見解の真偽を問いただす記者への取材制限や誹謗中傷、殺害予告まで起きています。

 今こそ私たちは、会社の枠や国境を越えて、人々の「知る権利」を守る取材環境を築き、将来世代に引き渡していくために、力を合わせていきたいと思います。
以上  

5千人が参列した「新聞の葬式」~自由民権運動の高知で

 明治15(1882)年、高知市で「新聞の葬式」がありました。明治維新後、憲法制定や議会開設など国民の政治参加を求めた自由民権運動の中で、民権派の「高知新聞」が同年7月14日、政府から発行禁止処分の弾圧を受けます。既に5回の発行停止処分を受けていました。この発行禁止処分への抗議への意味を込めて行われたイベントでした。
 勤務先の人事異動で大阪にいた6年前、出張で高知市を訪ねた折に、この「新聞の葬式」のことを知りました。先日、高知市を再訪する機会があり、空き時間を利用して高知市立自由民権記念館を見学。「新聞の葬式」の概要を知ることができました。
 ※高知市立自由民権記念館 http://www.i-minken.jp/

 ※自由民権運動のあらましについては、ウイキペディアを参照くださるようお願いします。
 自由民権運動 - Wikipedia

 自由民権運動の中心的人物としては、土佐藩出身の板垣退助がよく知られています。記念館のパンフレットでも板垣の銅像の写真とともに「自由は土佐の山間より」との高知県のシンボル的な言葉である「県詞」を掲げ、「近代日本の歴史に土佐の自由民権運動は大きな役割を果たしました。この日本最初の民主主義運動における経験は、私たち高知市民の誇りとなっています」と紹介しています。ちなみに観覧券は「自由通行証」(大人320円)で、ここにも「自由は土佐の山間より」の県詞があります。

f:id:news-worker:20181112015257j:plain

 記念館の展示や説明資料によると、高知新聞に発行禁止命令が出た明治15年は、高知県内で民権派と政府権力との闘いがもっとも激しい時期でした。民権派は新聞の発行停止・発行禁止命令に対しては「身代わり紙」を発行して抵抗していました。発行禁止の2日後の7月16日、身代わり紙の「高知自由新聞」が「高知新聞葬」の広告を掲載しました。資料からは「我ガ愛友ナル高知新聞ハ一昨十四日午後九時絶命候ニ付 本日午後一時吊式執行仕候間 愛顧ノ諸君ハ来会アランヲ乞」との文面が読み取れます(「吊式」は今日風に表記すれば「弔式」、つまり葬式のようです)。発信人は「高知新聞ノ愛友 高知自由新聞社」です。
 当日の会葬者は5千人を数え「忌中笠の壮士・位牌・僧侶・発禁号を納めた柩・記者・愛読者など」(説明資料より)の葬列が市内中心部から、高知市を見下ろす五台山までを、現代風に言えばデモ行進した後、五台山で柩を火葬にしました。身代わり発行の高知自由新聞も同月21日に発行禁止となり、再び新聞葬が行われ、会葬者は初回の2倍に達したとのことです。

 ことしは1868年の明治政府樹立から150年に当たります。「維新150年」として、日本政府は10月23日に記念式典を開催しました。安倍晋三首相の式辞からは、明治政府の下での近代日本の歩みを積極的、肯定的にとらえる歴史観が読み取れます。明治政府は安倍首相の地元長州(山口県)と薩摩(鹿児島県)の藩閥政治でした。安倍首相がこうした歴史観を持っているのは当然のことかもしれません。

 ※明治150年記念式典 安倍内閣総理大臣式辞

www.kantei.go.jp

 その一方では、「戊辰150年」として内戦である戊辰戦争で亡くなった先人を偲ぶ地域もあります(ちなみに板垣退助も官軍の土佐藩兵の指揮官として、戊辰戦争を戦っていました)。そうした歴史の中で、明治の比較的早い時期に起こった「新聞の葬式」は、現在と社会の状況も新聞のありようも全く異なるとはいえ、国家権力による弾圧に決して屈しなかった人たちがいたことを伝える出来事のように思えます。

f:id:news-worker:20181112015352j:plain

 今日の新聞、とりわけ一般紙は政治運動のツールではありません。しかし、批判を受けることを快く思わない(だれであれ批判を受けるのを疎ましく感じるのは当たり前かもしれませんが)権力者の習い性は、いつの時代も変わらないようにも感じます。「新聞」を生涯の仕事に選んだ者の一人として、表現の自由や言論の自由は戦うことなしには守り切れるものではないことをあらためて胸に刻み、「新聞の葬式」に先人が見せた不屈の意志を忘れずにいまいと思います。

週刊ダイヤモンド・特集「4つの格差が決める メディアの新序列」

 週刊ダイヤモンドの10月27日号が「4つの格差が決める メディアの新序列」という特集を組んでいたので購入しました。 この十数年来、週刊ダイヤモンドや週刊東洋経済がメディアを巡る特集を組んでいるのを見かけると、ほぼ買っていました。久しぶりの特集のように思います。

  「4つの格差」とは、テクノロジー、財務、人事、待遇のことだそうです。わたしが身を置く新聞界について、特集の結論をわたしなりにざっくりとまとめると、部数減は加速し凋落の一途、デジタル化に出遅れた上に人員構成も依然として編集部門偏重、新しいテクノロジーを自ら生み出す展望もなく、一部の新聞社の財務の悪化は深刻で業界の再編は必至―ということのようです。
 興味深く読んだのは地方紙33社を独自の指標で順位付けした「経営脆弱度ランキング」です。しかし、ワースト1とされた京都新聞社は10年以上も前に分社化してグループ会社制に移行しており、経営状況をみるならグループ全体でなければあまり意味はありません。特集記事でも自らその点に触れて「留意が必要」などと書いており、ではいったいこの序列化にどこまで意味があるのかと、正直なところ疑問も感じました。
 新聞界の先行きが厳しいことは、随分前から指摘されていることで、今さら驚いたり、嘆いたりするようなことではありませんが、現実とは冷静に向き合いたいと思います。

 備忘を兼ねて、以下に特集の記事の見出しを書きとめておきます。アマゾンの「商品説明」を元にしています。 

【特集】テクノロジー 財務 人事 待遇
4つの格差が決める メディアの新序列

「Prologue」メディア業界の序列を決める4つの格差

「Part 1」決算書から分かる「財務格差」
数字から見えた二大旧メディアの内情 再編近い新聞、二極化するTV
押し紙影響度・効率性・健全性で試算 経営脆弱度ランキング 地方紙編
Buzz、HUFFPOST、BIは生き残る? バイラル御三家のカネと内情

「Part 2」3年後の序列決める「テクノロジー格差」
超売り手市場でエンジニア採用に高い壁 テック人材争奪戦の内幕
記者は農民? 最強の意識高い系メディア 「NewsPicks」解体新書
(Interview)梅田優祐●NewsPicks代表取締役
(Interview)金泉俊輔●NewsPicks編集長
デジタル版「サブスク」ランキング 世界の新序列で日経は3位?
アマゾンから日経、TikTokまで 動画を制す社がメディアを制す
「TVer」への出向でテック人材育成 キー局が進める裏ミッション

「Part 3」編集支配の歪な「人事格差」
女性1人、中途1人、外国人0人、記者8割 大手メディアは超同質集団
だからデジタル改革が進まない! 実名入り 今も続く「編集局」内人事抗争

「Part 4」旧来型メディアエリートの没落
デジタル記者がエリートになれない理由 新旧メディアの年収序列
インフルエンサー使った新ステマが横行 奴隷化するウェブメディア

「Part 5」未来の新序列が見通せる 読者"愛着度"ランキング

 新聞の先行きの厳しさはこの10年来、経済誌の特集のたびに大きく取り上げられてきています。週刊ダイヤモンド、週刊東洋経済の2誌がこの10年間に組んできた特集のタイトルを並べると次の通りです。

「新聞・テレビ複合不況」         (2008年12月ダイヤモンド)
「テレビ・新聞陥落!」          (2009年1月東洋経済)
「新聞・テレビ断末魔」          (2010年2月東洋経済)
「激烈!メディア覇権戦争」        (2010年7月東洋経済)
「新聞・テレビ勝者なき消耗戦」      (2011年1月ダイヤモンド)
「新聞・テレビ動乱」           (2014年10月東洋経済)
「4つの格差が決めるメディアの新序列」  (2018年10月ダイヤモンド)

※参考過去記事

news-worker.hatenablog.com

「戦地で取材し発信するジャーナリストは公益の担い手」(西日本新聞)、「ジャーナリストがそこにいなければ、世界に真実が伝わらない」(琉球新報)~安田純平さん生還、新聞各紙の社説

 シリアで拘束されていた安田純平さんの3年4カ月ぶりの解放と帰国を巡って、新聞各紙も10月25日付以降、社説、論説で取り上げています。ネットで目にしたものをまとめました(後掲、10月29日現在)。
 各紙とも、まずは安田さんの無事解放を喜ぶトーンです。その上で、安田さんが拘束されてから解放されるまでの経緯を検証し、教訓を今後に生かすべきだ、との指摘が目に付きました。安田さん本人がどのような体験をしたのか。体調が回復した後にされるのであろう証言への期待もあります。
 教訓を探るには日本政府の対応の検証も必要です。社説、論説の中には、「国際社会との連携による解放は、一定の外交の成果である」(産経新聞)との評価があります。一方では「簡単に政府の取り組みの成果と結論付けてはならない」(信濃毎日新聞)との指摘もあります。日本政府は手の内を知られることは避けたいはずなので、この間の経緯を多くは明かさないのでしょう。真相に迫るのはマスメディアの役割だろうと思います。教訓を得るにも、まず事実を踏まえる必要があります。

 安田さんに対して「自己責任論」に基づく批判がネットを中心に出ていることには、多くの社説、論説が危惧を示しています。その中で、現地にジャーナリストが入って報道することの意義を、いくつもの社説、論説が説いています。ここでは琉球新報と西日本新聞の社説の一部を引用します。
 「人道に反する残虐行為が行われていても、ジャーナリストがそこにいなければ、世界に真実が伝わっていかない」「国家の言うがままに取材を自粛したり抑制したりすることが当たり前になれば、体制側にとって都合の悪い事柄は表に出なくなる」(10月27日付、琉球新報)
 「日本から遠く離れた場所で起きている紛争だとしても、日本政府がどう関与するか、市民として何ができるかを考えるには、判断材料となる正確な情報が必要だ」「そういう意味で、戦地で取材し発信するジャーナリストは企業所属、フリーを問わず、公益の担い手という側面を持つ」(10月28日付、西日本新聞)

 安田さんが入ったシリアの混乱状況や、あるいは一時のイスラム国(ISIS)の隆盛は、元をたどれば2003年のイラク戦争に行き着きます。米国がサダム・フセイン政権を打倒したこの戦争への支持を、当時の小泉純一郎政権は真っ先に表明しました。そういう経緯を踏まえても、日本社会に日本人ジャーナリストによってシリアの現状が伝えられることの意義は小さくないと思います。
 「自己責任論」の中には、安田さんの解放、救出のために身代金が支払われたことで、テロ組織が活動資金を得て新たなテロを引き起こすとして安田さんを批判する内容のものが少なくないようですが、そもそも身代金が払われたのかどうか、事実として確定している状況ではありません。仮に議論するとしても、そうしたことが踏まえられるべきでしょう。

 危険地域での取材には十分な安全対策と慎重な行動が必要です。それでも「絶対安全」はありません。社説や論説の中には「ジャーナリストとしての見通しの甘さは批判されて当然だろう」(北國新聞)、「取材経験が豊富だったはずの安田さんの判断は、どこに落とし穴があったのか」(京都新聞)などと、安田さんの判断に対する指摘もあります。ただ、この論点は、ジャーナリストとして現場入りを目指すことの是非それ自体とは別の問題だろうとわたしは考えています。
 また、1人のフリーランスのジャーナリストが危険地域で取材する際の安全への備えを論点にするなら、備えが十分だったか、だけではなく、フリーランスのジャーナリストが置かれている経済面を始めとした様々な環境にも目を向けることにも意義があるようにも思います。ありていに言えば、新聞社や放送局の正社員記者とフリーランス・ジャーナリストの間には、経費や資材をはじめとして小さくはない差があります。「ジャーナリストの働き方」という視点も、実はそこにあってもいいのではないかと感じています。

 以下は、ネット上で目に止まった各紙の社説、論説です。印象に残る部分を引用しました。見出しのみのものもあります。

【10月25日付】
▼毎日新聞「シリアで拘束の安田さん まずは無事な解放を喜ぶ」 

https://mainichi.jp/articles/20181025/ddm/005/070/032000c

 戦場を取材するジャーナリストは、戦争の悲惨な現状を世界に向けて発信する役割を担っている。
 ただし、政府が「退避勧告」を出しているような危険地域での取材には周到な準備が必要だ。危険を察知する状況判断も重要になる。
 安田さんが海外で武装勢力に拘束されたのは04年のイラクに続いて2回目だ。最初の解放時は「自己責任」を追及する意見もあった。
 安田さんはトルコで謝意を示す声明を発表した。映像を見る限りしっかりした口調だ。邦人保護や戦場取材で共有すべき教訓はないか。帰国後、ぜひ話してほしい。

▼産経新聞(「主張」)「安田さん解放 テロに屈してはならない」

https://www.sankei.com/column/news/181025/clm1810250001-n1.html

 日本政府の要請を受けたカタールやトルコが、何らかの仲介役を務めたことは間違いあるまい。国際社会との連携による解放は、一定の外交の成果である。
 (中略)
 危険を承知で現地に足を踏み入れたのだから自己責任であるとし、救出の必要性に疑問をはさむのは誤りである。理由の如何(いかん)を問わず、国は自国民の安全や保護に責任を持つ。
 安田さんの解放に尽力したとされる「国際テロ情報収集ユニット」は、テロに関連する情報を一元的に集約するため、政府が15年12月、外務省に設置した。
 外務省や防衛省、警察庁、公安調査庁などの職員からなる実動部隊で、将来的には情報機関としての独立も視野に入る。
 今回の事件にも象徴されるように、テロは遠い世界の出来事ではない。テロに強い国へ、体制や法の整備も急ぐべきである。

▼北海道新聞「安田純平さん 無事の解放を喜びたい」

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/241326?rct=c_editorial

 菅義偉官房長官は「官邸を司令塔とする『国際テロ情報収集ユニット』がトルコやカタールに働きかけた結果」と強調した。
 だが、政府は拘束報道から解放までに、なぜ3年もの時間を要したのだろうか。
 武装勢力の狙いや解放の経緯はまだ分からない。今後、安田さんの証言などを基に解明されるのを待ちたい。
 安田さんはイラクでも拘束された経験がある。安全への配慮を問う声があるかもしれない。
 だが、ジャーナリストは現場に行かないと事実を伝えられない。もちろん生還しなければ意味がない。だから、安全には最大限、注意を払う。それでも絶対安全ということはありえない。
 紛争地の場合は特にそうだ。
 シリアやイラクでは日本人を含む多くのジャーナリストが殺害された。今も中東を中心に世界で50人余りが武装勢力などに拘束されているという。報道の自由が脅かされている。

▼信濃毎日新聞「安田さん解放 まずは無事を喜びたい」

https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20181025/KT181024ETI090005000.php

 日本政府は、15年7月までに行方不明を把握。官邸直轄のテロ情報収集ユニットが、シリア周辺国の大使館などと情報や映像の分析に当たった。けれど、映像を公開したシリア人男性とは接触せず、ヌスラ側と直接交渉するルートも持てなかったという。
 解放の一報は、武装勢力に影響力があるカタールからもたらされた。菅官房長官は「身代金を払った事実はない」と言う。英国のシリア人権監視団は「カタールが支払った」と指摘する。
 ジャーナリストの後藤健二さんが15年に「イスラム国」(IS)に殺害された際も、日本の解放交渉はヨルダン頼みだった。簡単に政府の取り組みの成果と結論付けてはならない。
 安田さんの生還を喜ぶ声に混じり、ネット上には取材行動を非難する書き込みも目立つ。安田さんが以前、危険地域での取材規制に動く政府を批判していたことも要因のようだ。
 紛争の実態は国や軍の発表だけでは分からない。現地に赴く各国のジャーナリストの報道があって初めて、子どもらが犠牲になる戦争のむごさを実感し得る。戦争報道はどうあるべきか。安田さん自身の言葉を待って、私たちも共に考えていきたい。

▼神戸新聞「安田さん解放/『良かった』で終わらせず」

https://www.kobe-np.co.jp/column/shasetsu/201810/0011759808.shtml

 解放には、トルコやカタールの関与が大きく、安倍晋三首相は両国に感謝の言葉を述べた。日本政府は「関係国に働き掛けた結果だ」と説明するが、詳しい経緯を明らかにしていない。
 政府は「良かった」で終わらせるのではなく、拘束が長期化した原因も含めて、徹底的に検証する責任がある。得られた情報や教訓を社会で共有する努力をしていくべきだ。
 政府は3年前、過激派組織「イスラム国」による邦人人質殺害事件の対応を検証した。その報告書では、海外での日本人の安全確保のため、危険地域への渡航制限を「検討すべき重要な課題」と位置付けている。
 ただ、政府が海外での取材活動を規制することは慎まねばならない。安田さんもかつて「取材の可否を国家の裁量に委ねれば、情報統制につながる」と語っていた。「知る権利」は民主主義の基本であることを改めて確認したい。
 気になるのは「自己責任論」が一部で浮上していることだ。
 国際社会では、日本は大国と見なされ、人道支援などでふさわしい役割が期待されている。支援に必要な情報を得るためには、危険地帯で取材することもあると、取材経験のあるジャーナリストらは説明する。
 危険と背中合わせの紛争地取材の意義について、冷静に考える必要がある。

▼南日本新聞「安田さん解放 事件の教訓生かしたい」

https://373news.com/_column/syasetu.php?storyid=97634

 安田さんの消息を巡って日本政府は、15年12月に外務省や防衛省、警察庁などの職員からなる「国際テロ情報収集ユニット」を発足させた。そこを中心に情報収集などに当たってきたとみられる。
 今回どれほど貢献したかは分からない。ユニット関係者は「内戦中のシリア入りはできず情報収集に限界があった」と漏らす。それだけにカタール政府などの仲介が奏功したとみていいだろう。
 邦人のジャーナリストらが事件に巻き込まれると、「自己責任」「国に迷惑をかける」と激しい非難を浴びてきた。無謀な行動は慎むべきだが、最前線の現場を取材し、その状況を伝えるのが本来の仕事である。細心の注意を払っても、万が一ということはある。
 邦人の安全確保を図ることが政府の最も重要な責務であることを確認しておきたい。

▼山形新聞「安田純平さん解放 教訓共有し再発防止を」
▼山陰中央新報「安田純平さん解放 事件の検証と教訓共有を」
▼宮崎日日新聞「安田純平さん解放 事件の教訓広く共有したい」

【10月26日付】
▼朝日新聞「安田さん解放 シリアの現実に思いを」

https://www.asahi.com/articles/DA3S13740338.html?ref=editorial_backnumber

 紛争地に入り、そこに生きる人びとの声を報じるのはジャーナリストの重要な責務である。ミサイルや銃弾が飛び交い、子どもらまでもが傷つく戦争の悲惨な現実を、第三者の立場から公正に伝える。そのために、各国の記者は使命感をもって危険な取材にあたっている。
 報道だけではない。人道支援にあたる国際機関やNPOのメンバーも、現地で苦しむ人々を支えようと活動を続けている。
 自らの安全は自ら守るのが原則だが、どれだけ周到に準備しても、ときに危険な状況に陥ることはある。それが紛争地の現実であり、どの国の政府も自国民の保護には最大限の責任を負う。当然のことだ。
 安倍首相は解放に協力したカタールとトルコの首脳に謝意を伝えた。ただ、日本政府の対応と解放に至った経緯には、まだ不明な点が多い。
 すべての情報開示は難しいだろう。だとしても、政府がテロ対策強化のため、15年末に発足させた官邸直轄の「国際テロ情報収集ユニット」がどう機能したのかなど、できる限り経過を明らかにし、今後の対応にいかさねばならない。

▼北國新聞「安田さん保護 適切だった政府の判断」

 解放に至る経緯は不明だが、菅義偉官房長官は会見で、武装勢力との交渉について「直接ではない」と語り、「カタール、トルコをはじめ関係国に協力を依頼し、さまざまな情報網を駆使して対応を進めてきた」と述べた。両国は武装勢力を支援する一方、日本とも良好な関係を築いている。直接交渉を避け、外交チャンネルを駆使して救出にあたった政府の判断は適切だったのではないか。
 安田さんを拘束していた武装勢力は、高額の身代金を要求していた。日本政府は「テロリストの支援者」と見なされるのを避けるため、米英などと歩調を合わせ、この手の身代金支払いを拒否している。安易に応じれば新たな誘拐やテロを誘発するからだろう。
 菅官房長官は安田さんの解放について、身代金の支払いを強く否定した。身代金はカタールが肩代わりしたとの指摘もあるが、これも表沙汰にはできない外交交渉の一種と受け止め、カタール、トルコ両政府に感謝の意を述べたい。
 安田さんに対して「自己責任」を問う声がある。安田さんはツイッターなどで「自己責任なので口や手を出すな」「世界でもまれにみるチキン国家(臆病な国の意)」などと言い捨て、政府の制止を振り切ってシリアに潜入した。
 ジャーナリストとしての見通しの甘さは批判されて当然だろう。解放と引き換えに、テロ組織に資金が渡ったとすれば、激しいバッシングを受けるかもしれない。それでも、下を向きすぎることなく、体力気力を回復させて報道の現場に戻ってほしい。

▼京都新聞「安田さん解放  経緯の検証が不可欠だ」

https://www.kyoto-np.co.jp/info/syasetsu/20181026_5.html

 日本政府は官邸直轄の「国際テロ情報収集ユニット」を15年末に設け、水面下で交渉を進めたという。しかし、最終的にはカタールやトルコに頼ることになった。
 天然資源の輸入などを通じて両国と良好な関係を築いてきたことが奏功した面もあろう。だが、結果的に3年余りを要した。
 同様の人質事件で、欧州には身代金を支払って救出する国が少なくないという。日本は「テロには屈しない」との基本姿勢を崩さずに、今回は解放にこぎつけた形となった。
 政府は今回講じた手段の是非を詳しく検証する必要がある。可能なものは公開して、教訓を社会全体で共有したい。
 危険地帯にあえて入った安田さんの行動には賛否がある。
 取材経験が豊富だったはずの安田さんの判断は、どこに落とし穴があったのか。その点も点検しなければなるまい。
 ただ、紛争地の実態は、現地取材するジャーナリストの報道によって明らかになることも少なくない。そうした戦地取材のあり方や意義について改めて考えたい。

▼中国新聞「安田さん解放 回復したら話聞きたい」

http://www.chugoku-np.co.jp/column/article/article.php?comment_id=476016&comment_sub_id=0&category_id=142

 安田さんはイラク戦争後のイラクを取材していた04年、地元の自警団に拘束された。それでもその後も毎年のようにイラクやシリアに渡航していた。「取材の可否を国家の裁量に委ねれば、情報統制につながる」との危機感があったという。
 政府が危険地域の海外渡航を規制しているのは、邦人保護の責任もあるからだ。救出には、人手も費用も必要になる。「個人の身勝手な行動」と受け止められていることを、安田さんはどう考えているのだろうか。
 拘束中には日記をつづり、当時の状況や心境を残していたという。帰国を控え、「可能な限り何があったか説明したい」とも話していた。戦場や危険地域での取材経験が豊富なジャーナリストなりの反省や教訓がきっとあるはずだ。
 7年前から続くシリアの内戦による死者は30万人、難民は500万人を超す。体調回復を待って、何があったのかを語る責任が安田さんにはある。

【10月27日付】
▼琉球新報「安田純平さん解放 取材の意義を理解したい」

https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-824944.html

 ネット上では「危険な紛争現場に行って迷惑を掛けている」などとして「自己責任」を問う書き込みも見られる。
 現場の状況を直接確認し、何が起きているのか正しく伝えることは報道に携わる者の基本だ。戦地であっても例外ではない。
 世界中のジャーナリストが生命の危険を冒してまで紛争地に赴くのはそれだけの価値があるからだ。現地での取材は必要であり、意義は大きい。人道に反する残虐行為が行われていても、ジャーナリストがそこにいなければ、世界に真実が伝わっていかない。
 国家の言うがままに取材を自粛したり抑制したりすることが当たり前になれば、体制側にとって都合の悪い事柄は表に出なくなる。事実上の情報統制にもなりかねない。
 「自己責任」という批判は一面的であり、ジャーナリズムを尊重する視点が抜け落ちている。
 15年1月には安田さんとも交流のあったフリージャーナリストの後藤健二さんが「イスラム国」(IS)とみられる過激派組織に殺害された。
 今回、安田さんの身には何が起きたのか。経緯と原因を分析し、今後に生かすことも大切だ。

【10月28日付】
▼新潟日報「安田純平さん 無事帰国に深く安堵する」

http://www.niigata-nippo.co.jp/opinion/editorial/20181028428593.html

 まずは心身の回復に専念することが大切だ。その上で、自らが置かれた抑圧状況や内戦下のシリアの現実について、社会に知らせてもらいたい。
 紛争状態が続く中、武装勢力はどんな行動原理で動いているのか。命の危険にさらされている現地の住民は、どんな思いでいるのか。自らの拘束を踏まえ戦地取材では、どんなことに留意すべきなのか。
 それらの事柄は、「現場」に赴いた安田さんだからこそ分かるものだ。ジャーナリストとしてさまざまな経験を積む中で培ってきた視点と的確な言葉で伝えてほしい。
 遠い海外で展開されている戦闘について日本に暮らす人たちが関心を深め、目の前にある平和がいかに重要かを見つめ直すことにもなろう。
 もちろん、安田さんもそれが自身の役割だと十分自覚しているに違いない。
 強く懸念するのは、「自己責任論」に基づくバッシングが起きることだ。安田さんは04年にもイラクで拘束されており、バッシングを浴びた。
 フリージャーナリストの後藤健二さんが15年1月、シリアで過激派組織「イスラム国」(IS)に殺害されたとみられる事件でも、政府の警告に反した取材だと批判の声が上がった。
 だが、現場に入り、対象に迫らなければ正確な情報を得ることは難しい。半面、可能な限り危険を避ける準備をしても、戦地では不測の事態に遭遇する場合がある。
 一方的なバッシングは、取材や報道の萎縮を招くことになりかねない。
 政府は、安田さん解放の経緯や拘束が長期化した背景などを丁寧に検証してもらいたい。今後、同様の事件が発生した場合に適切に対応するためにも、不可欠な作業のはずだ。

▼西日本新聞「安田さん帰国 経緯を検証し教訓生かせ」

https://www.nishinippon.co.jp/nnp/syasetu/article/460987/

 最初に押さえておきたいのは、ジャーナリストが危険を冒して紛争地に行く意義である。
 一般に紛争地では、暴力を行使する権力側や軍隊、武装集団が、事実を隠して都合のいい情報だけを発信しようとする。
 もし報道機関がこれに依存すれば、紛争地で本当に何が起きているか、住民がどんな目に遭っているか、肝心なことが覆い隠される。一番弱い立場の人々の声が届かないのだ。日本から遠く離れた場所で起きている紛争だとしても、日本政府がどう関与するか、市民として何ができるかを考えるには、判断材料となる正確な情報が必要だ。
 そういう意味で、戦地で取材し発信するジャーナリストは企業所属、フリーを問わず、公益の担い手という側面を持つ。
 もちろん取材者が自ら安全を確保する最大限の努力を払うのは当然だが、戦地で完全に予想外の事態を避けるのは難しい。もし彼らが拘束や遭難などの事態に陥った場合、政府には保護に当たる義務がある。そもそも外務省設置法は「海外における邦人の生命および身体の保護」を所掌事務と明記している。
 政府は渡航の中止や退避を勧告していたため、「自己責任」を唱える論者もいるが、紛争報道の公益性を考えれば、政府の保護義務は納得できるだろう。
 今回、政府は首相官邸直属の「国際テロ情報収集ユニット」が動いたと説明している。カタールとトルコの協力があったとされるが、身代金の問題など不明な点も多い。現地や中東情勢も含め、どんな力学が作用して解放に至ったのか、もっと早く解決できなかったのか-など、経緯を十分に検証して今後の邦人保護に役立ててほしい。
 検証が必要なのは取材者側も同様だ。意図通りの取材ができずに拘束されるという事態は、ジャーナリストにとって、やはり手痛い失敗だ。どこに判断ミスがあったのか。これも教訓として生かすべきである。
 安田さんは帰国後、「可能な限り説明をする責任があると思っています」とのコメントを出した。その説明を待ちたい。

▼茨城新聞「安田純平さん解放 事件の検証と教訓共有を」

【10月29日付】
▼沖縄タイムス「安田純平さん帰国 シリアの真実聞かせて」

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/336504

 シリア内戦に関する報道では、アサド政権に批判的な欧米メディア、政権を支える国営メディアなど立場によって報道の違いが著しい。
 安田さんが戦場取材を続けるのは「政府の管理下ではない取材でしか手に入らない情報がある」からである。
 再発防止のためには今回の事件を検証し、教訓を共有することが不可欠だ。
 懸念するのは、ネット上で安田さんに対し、「自己責任」や「反日」などの言葉が浴びせられていることだ。
 04年、人道支援ボランティアとしてイラクに入った日本人の男女3人が武装勢力に拉致された事件を思い出す。解放され、帰国後に激しいバッシングにさらされた。
 女性が「またイラクで活動したい」と言ったと伝えられたことに対し、小泉純一郎首相は「もっと自覚をもってほしい」と批判した。
 これと対照的だったのがパウエル米国務長官だった。「日本国民はリスクを背負って行動した彼らを誇りに思うべきだ」と語った。戦場における人道支援に敬意を払ったのである。
 日本では国の「退避勧告」に従わず、イラク入りしたことは許せないとの空気を首相らが醸成していたが、今ではネット上にあふれる。
 シリア内戦について安田さんは「内戦を見放してきたことが一番の原因」と報道の重要性を強調していた。戦場を実際に見て歩き、報道することは現地で何が起きているのかを日本を含む世界に知らせることだ。市民の惨状を知らせることは国際社会を動かすことにつながる。
 安田さんは「可能な限り、何があったのか説明したい」と語っている。シリア内戦の真実を聞きたい。
 安田さんらジャーナリストが果たしてきた戦場報道の役割についても改めて考えるきっかけにしたい。 

「安田純平さんの帰国を喜び合える社会を目指して」~新聞労連の声明に共感

 ジャーナリストの生死を巡る2件のニュースが報じられています。一つは、シリアで拘束されていた安田純平さんの3年4カ月ぶりの解放と帰国。もう一つはトルコのサウジアラビア領事館で死亡したジャマル・カショギ氏が、領事館で殺害されたと指摘されている事件です。安田純平さんの生還については新聞労連(日本新聞労働組合連合)が南彰・中央執行委員長名で10月25日に「安田純平さんの帰国を喜び合える社会を目指して」と題した声明を発表しました。カショギ氏の事件に対しては、新聞労連のほか民放労連や出版労連などでつくる日本マスコミ文化情報労組会議(略称・MIC)が「『批判もする友人』が共存する世界を目指して―サウジアラビア人記者殺害は対岸の火事ではない―」との声明を10月24日に出しています。新聞労連委員長はMIC議長を兼ねています。

 この二つの声明には共感するところが多いので、転記して紹介します。 

安田純平さんの帰国を喜び合える社会を目指して
 
2018年10月25日
日本新聞労働組合連合(新聞労連)
中央執行委員長 南 彰

 2015年からシリアで拘束されていたフリージャーナリストの安田純平さんが3年4カ月ぶりに解放されました。人命と引き替えに金銭を要求する犯行グループの行為は卑劣で、真実を伝える目的を持ったジャーナリストを標的にすることは言論の自由や表現の自由への挑戦です。新聞労連としても安田さんの「即時解放」を求めてきましたが、同じ報道の現場で働く仲間の無事が確認された喜びを分かち合いたいと思います。
 安田さんはかつて信濃毎日新聞の記者を務め、新聞労連の仲間でした。2003年にフリージャーナリストに転身しましたが、紛争地域の取材に積極的に取り組み、民衆が苦しむイラク戦争の実態などを明らかにしてきました。
 その安田さんや家族に「反日」や「自己責任」という言葉が浴びせられている状況を見過ごすことができません。安田さんは困難な取材を積み重ねることによって、日本社会や国際社会に一つの判断材料を提供してきたジャーナリストです。今回の安田さんの解放には、民主主義社会の基盤となる「知る権利」を大切にするという価値が詰まっているのです。
 安田さんはかつて「自己責任論」について、新聞社の取材にこう語っています。
 「自己責任論は、政府の政策に合致しない行動はするなという方向へ進んでしまった。でも、変わった行動をする人間がいるから、貴重な情報ももたらされ、社会は発展できると思う」
 観光や労働の目的で多くの外国籍の人が訪れ、また移り住むという状況が加速している私たちの社会は、より高い感受性と国際感覚が求められています。そのベースとなるのは、組織ジャーナリズムやフリーを問わず、各地のジャーナリストが必死の思いでつかんできた情報です。
 解放された安田さんに対して、「まず謝りなさい」とツイッターに投稿する経営者もいますが、「無事で良かった」「更なる活躍を期待しているよ」と温かく迎える声が大きくなるような社会を目指して、新聞労連は力を尽くしていきます。
 
以上 

 ※新聞労連 http://www.shinbunroren.or.jp/index.htm 

「批判もする友人」が共存する世界を目指して
――サウジアラビア人記者殺害は対岸の火事ではない――

2018年10月24日
日本マスコミ文化情報労組会議

 サウジアラビア人記者がトルコのサウジアラビア総領事館で死亡した事件で、トルコ政府が「事前に計画された殺人だった」と認定しました。亡くなったジャマル・カショギ氏は、サウジアラビア政府の独裁的な政治のあり方を批判し、同国の内外に警鐘を鳴らしてきたことで知られるジャーナリストでした。自らの意に沿わない言論を権力や暴力で封殺する行為は、人類が積み上げてきた表現の自由や民主主義に対する冒瀆です。
 しかし、欧米諸国が非難の声明を出すなか、日本政府の対応は後手に回り、メディアの報道も時に国際政治のパワーゲームの視点に偏りがちです。「表現の自由」の価値と向き合っている社会であるのかが、いま、問われています。

 同じことは、フリージャーナリストの安田純平さんの拘束事件についても言えます。日本政府が10月23日、「解放された」と発表しましたが、発覚からの3年間、「誰も報じなければ、現地の状況は伝わらない」と現地取材に取り組んできたジャーナリストの拘束にどれだけ私たちは心を寄せてきたでしょうか。安田さんやその家族に対して「反日」「自己責任」といった中傷の言説が広がっている状況も見過ごしてはなりません。

 私たちの足元をみると、メディアに対する攻撃が相次いでいます。
 兵庫県西宮市の今村岳司市長(当時)は今年1月、読売新聞記者に「殺すぞ」「落とし前つけさすからな」と恫喝。足立康史衆院議員(日本維新の会)は自身のツイッターに「朝日新聞、死ね」と投稿し、国会審議で同紙の加計学園問題をめぐる報道を「捏造」と発言しました。政府のスポークスマンである官房長官の記者会見をめぐっては、政府見解の真偽を問いただす記者への取材制限や誹謗中傷、殺害予告まで起きています。サウジアラビア人記者殺害事件は決して対岸の火事ではないのです。

 「批判もする友人(critical friend)」という言葉があります。
 国連特別報告者のジョセフ・カナタチ氏が、特別報告者の役割を問われたインタビューで語った言葉です。ある人や国が間違ったことをしそうになった時に、それを指摘する友人という意味が込められています。この役割を、日本社会の津々浦々で担っているのが、日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)に集うメディア関連の仲間たちです。
 表現の自由や報道の自由の価値を、改めて市民と確認し合いながら、「批判もする友人」が共存する、強くてしなやかな日本社会、国際社会を目指して力を尽くします。

以上  

※MIC http://www.union-net.or.jp/mic/

 安田さんに対しては、やはり「自己責任」を挙げての批判がネット上を中心に出ています。危険地域だったシリア入りや、救出のために日本政府に負担をかけたことなどを責める意見です。一方で、危険地域で何が起きているのかが広く知られることには大きな意味があることを訴える意見もあります。ここでわたしたちの社会に必要なのは、自己責任論を一方的に排除することではないと思います。異論は異論として受け止めながら、意見の食い違いが社会の分断にまで至ってしまうことのないように、「知る」「知らせる」ことの意味について、自己責任論を口にしている人たちも含めて、社会全体で考えを深めていくことが重要と感じます。マスメディアの内部に身を置く者の一人として、新聞労連とMICの二つの声明に接して、そんなことを考えました。

沖縄の訴え受け止め、基地をわがことととらえ始めた一群の地方紙~沖縄県知事選を巡って③地方紙・ブロック紙の社説

 9月30日の沖縄県知事選で、名護市辺野古への新基地建設に明確に反対を掲げた前衆院議員の玉城デニー氏が、安倍晋三政権と与党の全面的支援を受けた前宜野湾市長の佐喜真淳氏を大差で破ったことに対しては、沖縄県外(日本本土)の多くのブロック紙・地方紙も社説、論説で取り上げました。ネットで読める範囲に限ってですが、各紙の論調を読み比べてみました。
 沖縄の基地集中に対するブロック紙・地方紙のこれまでの論調は、沖縄県の翁長雄志知事(当時)と話し合うよう、安倍政権に求める内容が大半でした。今回の知事選の結果に対しても、これまでの安倍政権の強硬姿勢に批判的な社説、論説が目立ちます。その中で特徴的だと感じるのは、さらに一歩踏み込んで、基地の問題を沖縄だけではなく日本全体の問題として、わが身に関わることとして考える、との問題意識を明示した社説、論説がいくつも目に止まったことです。以前との定量的な比較は難しく、わたしの印象論にすぎないのですが、翁長前知事が唱え続け、玉城知事が継承した沖縄の訴えを正面から受け止めようとする論調が、ようやく本土マスメディアの中にも潮流としてはっきりと目に見えるようになってきたように感じます。その代表的な社説、論説をいくつか、一部を引用して書きとめておきます。

▼高知新聞「【沖縄知事選】政権は立ち止まり対話を」=10月2日 

 安倍首相らは政権側が敗れた前回知事選後、翁長氏との面会をしばらく拒否した。沖縄の声を無視するような横暴で、子どもじみた対応は許されない。
 沖縄が願うのは対立ではない。対話だ。沖縄以外への県外移設はできないのか。アジアの安全保障環境が変わる中、新たな基地がなお必要なのか。そうした説明が尽くされていないことが不信の根にある。
 安倍政権は立ち止まり、沖縄との対話の場を再設定することから仕切り直すべきだ。
 安全保障は国の専権事項だとしても、負担や分断を強いられるのは常に地域だ。沖縄では米軍機の事故や軍人らの凶悪事件も後を絶たない。民主主義下の国との関係の中で、地域の「主権」や安寧をどう守っていくか。沖縄県民の審判は国民全てにその問いを投げ掛けている。

▼西日本新聞「沖縄知事選 この民意を無視できるか」/既成事実化に抗して/基地負担の再検討を/本土住民も考えたい=10月2日 

 知事選で政権支援の候補が敗れたことは、「沖縄に寄り添う」と口では言いながら、実際には補助金や経済振興策をちらつかせ、「アメとムチ」で地方を従わせようとする安倍政権の政治姿勢に対する不信の表れだといえる。
 これは自民党総裁選の地方票で石破茂氏が健闘したことにも通じる。森友・加計問題での批判を受け「丁寧」「謙虚」などの言葉を連発しつつ、異論に耳を貸さない強引な政治手法を続ける安倍政権に対し、地方から異議申し立ての声が上がり始めたのではないか。
 重ねて考えておきたいのは、本土の住民である私たちの関わり方だ。国内の米軍専用施設の約7割が沖縄に集中する現状に、どう向き合うか。無関心は結果的に「沖縄への基地押し付け」を容認し、民意を無視することにもなる。
 国内の米軍基地の規模は現状で適正なのか。本土が負担の一部を引き受ける方策はあるのか。「沖縄が反対している」と遠くから眺めるのではなく「じゃあ私たちはどうする」と踏み込み考えることが、沖縄と本土の溝を埋め、基地問題解決を促す力となるはずだ。

▼中日新聞・東京新聞「沖縄県知事選 辺野古基地は白紙に」=10月1日付 

 自ら誘致したのでもない基地を巡り、国に恭順するか否かが毎回問われる知事選は沖縄以外にはない。振興予算の加減による政権側のアメとムチ政策が県民を分断する原因にもなっている。今回も、生活基盤整備が先と感じる佐喜真氏支持層と玉城氏支持層の間でしこりが残るかもしれない。
 そんな不幸な状況を解消し、沖縄の自治を保障するため政府がとるべき道は、沖縄のみに過剰な基地負担をかけない、必要な財政支援はする、との当たり前の政治に転換するだけのことだ。

▼中国新聞「沖縄新知事に玉城氏 政権は民意に寄り添え」=10月2日付 

 今こそ普天間飛行場の運用停止を辺野古移設と切り離し、進める道を模索したい。日米両政府の1996年の返還合意は、辺野古移設が前提ではなかった。米朝関係の改善など東アジア情勢の変化を踏まえ、再検証の余地があるのではないか。
 米軍基地を巡っては、沖縄だけではなく日本全体の問題として捉える機運が少しずつ生まれている。全国知事会は7月、日米地位協定の抜本的な見直しや基地の縮小・返還を求める提言書を全会一致で決議した。本土の私たちが傍観者にならず、沖縄とともに声を上げる姿勢が、政府のかたくなな態度を変える潮流になるはずだ。

▼福井新聞「沖縄県知事に玉城氏 国は民意に背を向けるな」=10月2日付 

 玉城氏が訴えた「アイデンティティー」は、在日米軍基地の7割の集中を強いられる沖縄が自己決定権を取り戻そうという翁長氏の理念である。どの地方自治体にとっても欠かせない理念であるからこそ、無関心ではいられないはずだ。沖縄を注視していかねばならない理由がそこにある。

▼山形新聞「沖縄知事に玉城氏 国はまず対話すべきだ」=10月4日付 

 玉城氏は「翁長氏の遺志を継ぐ」と、沖縄県が8月に決めた辺野古沿岸部の埋め立て承認撤回を維持する方針だ。さらに県議会に条例案が提出されている辺野古移設の賛否を問う県民投票も実施し、県民の意思を政府に示していく考えだろう。沖縄県外に住む私たちはもちろん投票の主体ではない。だからといって、基地問題が自分たちとは無関係な別世界の話と考えてはなるまい。

 中国新聞が触れた全国知事会の提言書については、京都新聞(10月1日付)や徳島新聞(2日付)も言及しています。また、山陰中央新報(2日付)や宮崎日日新聞(2日付)、佐賀新聞(2日付)は、かつて米軍基地が地域の反対運動に遭って本土から沖縄に移され、現在は在日米軍専用施設の約70%が沖縄に集中することを挙げて、日米同盟を維持するのなら全国で基地を負担し、その縮小を目指すべきではないか、と問い掛けています。

 一方、北國新聞の社説は、米軍普天間飛行場の辺野古移設は動かしがたい、とする内容でした。一部を引用します。
▼北國新聞「普天間移設問題 司法判断仰ぐほかないか」=10月2日 

  米軍普天間飛行場を名護市辺野古へ移設する計画を推進する政府・与党は、沖縄県知事選の敗北でこれまで以上に厳しい立場に追い込まれた。安倍晋三首相の言う通り、選挙結果を真摯に受け止め、沖縄の振興、基地負担の軽減に全力で取り組まなければならない。といって、辺野古移設という日米両政府の合意をここで覆すこともできない。
(中略)
 ただ、地政学的に米軍基地が沖縄に多い理由も理解したい。日本に対する北朝鮮の核・ミサイルの脅威がなくなる道筋は見えず、中国の軍事的膨張も続いている状況にあって、米軍の抑止力は欠かせない。沖縄駐留の米海兵隊がグアムなどに全面移転すれば、普天間飛行場も代替施設も必要性を失うが、現実には困難であり、辺野古移設が頓挫すれば、危険な普天間飛行場の継続使用という最悪の状況になりかねない。
 玉城氏は元来、自衛隊と日米安保に理解を示す保守中道派と目され、知事選では当初、独自色にこだわっていた。故翁長雄志知事の遺志を継ぐ立場を前面に出す戦術に切り替え勝利したが、基地問題より経済振興を願う県民も少なくなく、知事選で訴えた自立型経済の具体策を示す必要がある。政府はその点で玉城氏を温かく支援する度量も求められよう。

 河北新報の社説は翁長前知事の国との法廷闘争を振り返りながら、辺野古移設案を日本政府が放棄することはないことを前提として、辺野古移設に反対なら実現可能な具体案をある程度は提示するのが知事の責任だと論じました。地方紙ではほかに例を見た記憶がない主張で、少なからず驚きました。

▼河北新報「沖縄知事に玉城氏/対立構図脱する道はあるか」 

 翁長雄志前知事は2015年に辺野古の埋め立て承認を取り消し、以後、国との間で法廷闘争を続けた。客観的に見れば、県側にほぼ勝訴の可能性がない訴訟合戦は、結果として、いたずらに時間を浪費しただけだった。
 移設問題はもう一度、原点に立ち返って考えるべきだろう。普天間飛行場を取り囲んで住宅地が広がり、小学校があり、大学がある。移設の最大の目的は、世界で最も危険とされるこの飛行場の危険性除去だったはずである。
 日米が普天間基地返還で合意してから既に22年が過ぎている。この間、迷走を重ねた移設問題を巡って、今後も県と政府の対立が長く続くとすれば、不幸なのは周辺住民である。危険に瀕(ひん)する状況が固定化される恐れさえある。
 翁長氏の知事在任時は、この原点が置き去りとなった印象が拭えない。辺野古移設に反対なら反対として、実現可能な具体的な対案をある程度は提示するのは知事に求められた責任ではなかったか。
 むろん、代替案は国が考えるべきだという県側の主張には理がある。しかし、さまざまな行政手続きを重ね地元の意向も取り入れてまとめた移設案を政府が容易に放棄することはあり得まい。 

 本文の一部を引用したこれらの社説以外のものについて、見出しを以下に列記しておきます。サイト上で見ることができたのは見出しだけで、本文は読めないものもありました。

【10月1日付】
・北海道新聞「沖縄知事選 新基地拒否で県政継続」
・北日本新聞「民意は『辺野古ノー』/政府は強硬姿勢改めよ」 ※見出しのみ
・京都新聞「沖縄に新知事  『基地』に新たな視点を」

【10月2日付】
・デーリー東北「沖縄県知事選 民意は明確に示された」
・秋田魁新報「沖縄知事選 真摯に民意受け止めよ」
・山梨日日新聞「[沖縄知事に翁長氏後継]重い魂の飢餓、辺野古再考を」 ※見出しのみ
・信濃毎日新聞「沖縄県知事選 政府が方針を改めねば」
・新潟日報「玉城氏勝利 政権は強硬姿勢を改めよ」
・神戸新聞「沖縄知事選/辺野古への民意は明白だ」
・山陽新聞「沖縄県知事選 政府は対話を再開させよ」
・山陰中央新報「沖縄県知事選/まずは対話を求めたい」
・愛媛新聞「沖縄知事選 辺野古移設反対を貫く民意重い」 ※見出しのみ
・徳島新聞「沖縄知事に玉城氏 辺野古反対の民意は重い」
・宮崎日日新聞「沖縄知事に玉城氏 8万票の重み 政権認識せよ」/基地負担の軽減図れ/「アメとムチ」に不信
・佐賀新聞「沖縄県知事選 辺野古移設の再検討を」
・南日本新聞「[沖縄知事選] 辺野古反対の民意重く」

【10月3日付】
・東奥日報「『辺野古移設』まず対話を/沖縄県知事選」

【10月4日付】
・神奈川新聞「沖縄県知事に玉城氏 『辺野古ノー』に応えよ」 ※見出しのみ