8月15日に元陸軍飛行場で、戦争の教訓と沖縄の基地集中を考えた

 日本の敗戦から73年の8月15日、思い立って東京都調布市の調布飛行場に隣接する「武蔵野の森公園」を訪ねました。調布飛行場は今では伊豆諸島の離島路線の定期便もある軽飛行機の専用空港ですが、元は日本陸軍の飛行場でした。当時の飛行場は今よりも広く、武蔵野の森公園の中には第2次大戦末期、米軍の空襲から戦闘機を守るために作られた掩体壕が保存されています。そのことを最近知り、この日に戦争遺跡に身を置いてみようと思い付きました。
 公園は調布飛行場を挟んで北地区と南地区に分かれています。掩体壕があるのは北地区。西武鉄道多摩川線の多磨駅で下車して徒歩5分ほどで公園に着きます。掩体壕へはさらに園内を5分ほど歩きます。
 ※武蔵野の森公園 http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index058.html
 ※「掩体壕と飛燕」 http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/view058.html

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 【写真】1945年春当時の調布飛行場の施設配置図=現地の掲示板
 掲示されている説明によると、調布飛行場は1941(昭和16)年4月に南北1000メートル、東西700メートルの2本の滑走路や格納庫などが完成しました。首都防衛のため戦闘機「飛燕」を中心とする陸軍の飛行部隊が配属されました。戦況が悪化した1945(昭和20)年ごろには、米軍のB29爆撃機や艦載機の空襲を受け、飛行場や近くの高射砲陣地で死傷者が出ました。このころには特攻隊の訓練と、出撃基地である鹿児島県の知覧基地への中継地にもなっていたとのことです。
 掩体壕は1944(昭和19)年ごろから、コンクリート製の約30基、土塁をコの字型にした約30基の計約60基が短期間で作られました。掩体壕に収容されていた戦闘機は、出撃の際は機体にロープをかけ、人力で誘導路を通って滑走路まで運んだとのことです。

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【写真】掩体壕・大沢2号
 保存されている2基の掩体壕はこの地の地名を元に南から「大沢1号」「大沢2号」の名前が付いています。公園の正面入り口から歩いてくると、まず大沢2号を見て、次に大沢1号に向かうことになります。ともに古びたコンクリートの建造物です。
 大沢2号は、中が空洞になっているのが暗いながらもよく分かります。

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【写真】掩体壕・大沢1号
 大沢1号は壕内に補修が施されているようでふさがれています。その前面には、整備を受けている戦闘機「飛燕」の大きなイラストが描かれています。目を引くのは傍らにあるブロンズ像。掩体壕とその中で待機する飛燕の様子が、よく分かります。

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【写真】飛燕のブロンズ像
 掲示の説明によると「飛燕」は1943(昭和18)年に陸軍に正式採用され、調布飛行場では首都防衛のため飛行第244戦隊に配備されました。1945年になると米軍のB29爆撃機による本土空襲が激しくなり、飛燕も迎撃に飛び立ちますが戦果は上がらず、最後は体当たりで対抗したとのことです。
 その辺のことは以前に戦記もので読んだことがあります。物量の差に加えて、高度1万メートルを飛んでくるB29に日本の戦闘機は性能面で歯が立ちませんでした。体当たりは文字通り最後の手段、いわば「空対空の特攻」でしたが、脱出して生還したパイロットもいて、1人で2度、3度と体当たりを成功させた例もあったと記憶しています。
 しかし、しょせんは焼け石に水の迎撃戦でした。爆弾を抱えて飛行機ごと艦艇に突っ込む特攻にしても、生還を前提としない作戦は軍部の中でも「統帥の外道」との批判があったといいます。そこまで追い込まれたのなら、一刻も早く戦争を終わらせることを考えるべきでした。しかし、勝てる見通しのないまま深みにはまり、沖縄の地上戦、広島、長崎への原爆投下、東京、大阪をはじめとする全国の都市への空襲で、おびただしい非戦闘員の住民が犠牲になったあげくに、ようやく敗北を受け入れて戦争は終結しました。軍事力では国民の生命、財産を守ることができなかった―。これは、あの戦争の教訓の一つです。アジア諸国にもおびただしい犠牲を生んだことも忘れずにいたいと思います。

 この日、掩体壕を訪ねた時には正午を過ぎていましたが、目を閉じて73年前のことを想像してみました。73年前も同じようにじりじりとした暑さの中で、ラジオから昭和天皇の声が聞こえてきたのか。太平洋戦争だけでも3年8カ月余りも続いていました。「大本営発表」報道で戦果は過大に、損害は過小に報じられていました。勝利を信じていて敗戦を受け入れられない人もいれば、何はともあれ、もう出撃する必要はないと安堵する人もいたのでしょうか。実際のところはどうだったのか。戦争を、身をもって体験した人たちの証言を受け継いでいくことの大切さをあらためて思いました。

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【写真】調布飛行場に並ぶ民間機
 もう一つ感じたことがあります。公園の高台からは調布飛行場の全景を望むことができます。今は民間機が飛び交う平和な光景が広がっています。しかし、沖縄では戦後73年の今でも、米軍機の危険に市民生活がさらされています。決して自分たちで望んだわけではないのに、基地の受け入れを強制され続けているのが沖縄です。調布飛行場には民間機がずらりと並んでいました。同じような光景ながら、沖縄の米軍普天間飛行場に並ぶのは、沖縄配備後にも墜落事故や不時着、緊急着陸のトラブルが相次いでいる輸送機オスプレイです。名護市辺野古では、その普天間飛行場の代替とされながら、実質は機能が強化された新基地の建設が、県知事だった故翁長雄志氏の反対を押し切って始まりました。地域の将来のことは自分たちで決める「自己決定権」が認められないまま、国家的事業が強行される、そうしたことが行われているのは日本で沖縄だけです。その差別にわたしたち日本本土に住むこの国の主権者はあまりに無知で鈍感ではないのか―。沖縄から近年、そうした問い掛けが続いていること自体にも、わたしたち日本本土の社会はどれだけ問題意識を共有できているだろうか、ということも感じます。眼下の調布飛行場を見ながら、ここにオスプレイがずらりと並ぶさまを想像することが、沖縄の基地集中の問題をわがこととしてとらえることができる一歩になるのかもしれないと、そんなことも考えた8月15日でした。